与太郎文庫
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1924年01月07日(月) |
鰻丼鰻香 〜 清浦家の人々 〜 |
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19240107 http://www.hatena.ne.jp/adlib/activities Ex libris Web Library;清浦 奎吾(Wilipedia) http://www.ndl.go.jp/modern/img_r/061/061-001r.html 清浦内閣成立ノ顛末 http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/list?id=87518&pg=000000 http://www.enpitu.ne.jp/tool/edit.html http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=19240107 …… 政友会は次の政権を期待したが、でき上ったのは清浦奎吾内閣で あった。これは西園寺の推薦で、松方がこれに同意したのである。西園 寺の理由は、「松本日誌」によると、「選拳はなるべく公平を旨として 執行せしめたいので、それにはやはり中間内閣でなければならぬ、しか し政党を無視せず、第一党の政友会を尊重せしめ、政策により助けさせ るがよろしい」と往訪の平田東助に語ったという。選挙とは五力月あと にくる翌年(大正十三年)五月、議員任期満了に伴う総選挙のことで、 この選挙で政友会がまた多数党になる可能性があるため、そのときに政 友会に政権を渡させる西園寺の肚であった。 清浦奎吾は肥後出身。明治九年司法省をふり出しに官界に入り、検事 となって刑事訴訟法の制定に参加した。第一次伊藤内閣のときは山県内 相の下で讐保局長、明治二十年の保安条例の公布とその施行に腕を振っ た。山県直系の官僚で、二十九年の松方内閣(いわゆる松隈内閣)のと き法相を最初に法相二回、農商務相一回を歴任した。枢密院に入り、山 県の死後はその後任として枢密院議長となった。 清浦は常に山県に忠勤をはげみ、彼の経歴も山県の威光であり、山県 の死後はその残光によった。が、残光はいつまでも長つづきしない。地 位の不安を感じた清浦は、機会あるごとに政権へ食指を動かした。曾て 大正三年に組閣の命を受けたことがあるが、貴族院方面からも政党方面 からも評判が悪くて流産した。内閣首班という鰻の香りだけ嗅がされた というので、世にこれを「鰻香内閣」とよんだ。今回はあくまでも中間 内閣のつもりで、西園寺と松方が、大臣経歴が多いという意味だけで清 浦を推薦した。が、その推薦者である西園寺が清浦の政権欲について悪 口を云っているのが「松本剛吉日誌」に見えている。 清浦内閣総辞職のあと、憲政会の加藤総裁に組閣の命令が降った(六 月十一日)。清浦内閣のあと「受け皿」になるつもりで与党になってい た床次竹二郎のアテははずれた。 http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/416710668X ── 松本 清張《史観宰相論 19850825-19860725 文春文庫》P107-108 http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/search?idst=87518&key=%BB%CB%B4%D1%BA%CB%C1%EA%CF%C0
清浦 奎吾 総理大臣23 18500327 熊本 19421105 92 /嘉永 3.0214/幼名=大久保 普寂 [19240107-0611] 伯爵 ♀清浦 錬子 奎吾の妻 18580324 ‥‥ 19441006 86 /安政 5.0210/旧姓=子見 秀次郎の長女(とうこ) /1873‥‥ 結婚/荏原婦人会会長/荏原女学校校長 1/品川高等女学校校長 1/令嬢會幹事 清浦 保恒 奎吾の長男 18‥‥‥ ‥‥ 19‥‥‥ ? / 清浦 保敏 奎吾の孫 19‥‥‥ ‥‥ 19‥‥‥ ? /伯爵 ♀清浦 聡子 保敏の妻 19‥‥‥ ‥‥ 19‥‥‥ ? /旧姓=坂内 義雄の長女 清浦 奎明 奎吾の曾孫 1939‥‥ 京都 /横浜ゴム本社専務 ♀清浦 恭子 奎明の長女 19700623 横浜 / ♀清浦 夏実 奎吾の玄孫 19900704 千葉 /女優・歌手/170cm,52kg [A] B80-W59-H93 http://blog.oricon.co.jp/natsumi-kiyoura
http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/B000J9OWMY ── 清浦 雷作《世界の環境汚染 19721130 日本経済新聞社》 〜 その実態と各国の対策 〜 清浦 雷作 応用化学 19111205 東京 19980818 86 /東京工業大名誉教授 http://campus.milkcafe.net/test/read.cgi/toukoudai/1126282486/ …… (1914年)、シーメンス事件のドサクサに乗じて第一次山本政権 から政権をふんだくった奎吾(実はシーメンス事件そのものが彼の陰謀 であるとも言われている)は組閣の大命を受けたものの、海軍との折り 合いがつかないまま時間切れとなってしまい、海軍大臣を得られず組閣 は失敗、そのショックから立ち直る前に目の前の鰻丼からウナギが野良 猫に奪われてしまった(その報せを受けたのが、どうやら食事時だった らしい)事から、世の人はこれを「鰻丼内閣」と呼んで嘲り笑った。 (ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディアの専門家気取りたちが 「鰻香内閣」の項目を執筆しています。アンサイクロペディア) http://ansaikuropedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B5%A6%E5%A5%8E%E5%90%BE …… 立石義雄の同級生・清浦圭明の曽祖父は、子爵・総理大臣の圭吾 である。義雄の父は、熊本中学五年のころ進学相談のため会見している。 http://d.hatena.ne.jp/adlib/19910112 OMRON 〜 立石家の人々 〜 …… ゴリは、四十六年ぶりに同窓会で清浦と再会し、「予備校の授業 を覚えているか」と訊ねてみた。しかるに総理の孫(※曾孫)は、まっ たく記憶がないという。 http://d.hatena.ne.jp/adlib/19600318 グリル・キタの客(その二) ↓清浦 http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/search?idst=87518&key=%C0%B6%B1%BA (20121111) ┌┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┐ ↓=Non-display><↑=Non-display └┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┘
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