与太郎文庫
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1904年04月13日(水)  死去致候 〜 緑雨の死亡記事 〜

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19040413
 
 寄せては返す波の音   山本 夏彦(やまもと・なつひこ)
 一九一五(大正四)年六月十五日、東京生まれ。コラムニスト。       
 当人が当人の死を広告する例はないではないが、ただ一つ残っている
のは斎藤緑雨のそれで、
「僕本月本日を以て目出度死去致候間此段広告仕候也緑雨斎藤賢 明治
三十七年四月十三日」
 当時の一流新聞「萬朝報」に出た。緑雨は晩年この新聞に在籍して
幸徳秋水と友になった。この広告は偶然軍神広瀬武夫の死亡広告と肩を
並べて出た。緑雨と秋水と武夫と私は縁あって、死後なん十年もたって
からではあるが同情あふれる追悼文を書いた。今度文芸春秋が各界の縁
ある百人に求めて、自分の死亡記事を書かせることを思いついて私にも
小文を徴した。ただし死亡記事だから第三者が書いた体裁にしてくれと
いう。私は『無想庵物語』(文芸春秋発行)のなかに明治大正の詩人小
説家を百なん十人も登場させたが、五十年たったら誰もおぼえてない。
してみると今この一冊に名をつらねた百人も、十年たったら十人も記憶
されていないだろう。逝くものはかくの如し、昼夜を舎かないのである。
以下不出来ながら死亡記事である。
 
 故人は年齢を問われるとそっぽを向いた。強いて聞くと「百だよ」と
この世のものとは思われぬつくり声で答えた。なかに本気にするものが
あると喜んで笑った。
 故人が言うには生きているかざり人は同時代人なのだと二十台の娘と
恋をして、仕損じること若者と同じだと言った。また小学三年生の読者
がいることが自慢だった。言葉は電光のように通じるもので、世故にた
けた老人にも、分りたくなければ委曲を尽しても分らせることはできな
いと言った。
 古典を読むことは古人と話すことだ、故人は生きている人より死んだ
人と話すことを好んだ。故人は三十枚のものを十枚に、十枚を三枚に削
りに削って、ついに分らなくなる寸前にふみとどまるのをよしとした。
しまいには一行にした。「何用あって月世界へ」。1どうしてそんなに
謝るの」。
 故人は並の人が怒るところで笑うくせがあった。最も笑ったのは山本
負彦と誤植されたときで、負彦とはよく言ったと思いだしてはいまだに
笑っていろ。
 自分はタイトル(だけ)作家だと言っていたから、そのなかのいくつ
かをあげて故人を彷彿とさせたい。「蒸気機関に目がくらみ」「機械あ
れば必ず機事あり」「女は永遠に十七である」。
 天が下に新しいことはないと言うのはいいが、ニュースを扱わないで
三十年以上コラムを書くのは骨である。新しい読者である一青年が、何
冊か熱中して読んで「なんだこの人、同じことばかり言ってる」。故に
最後の新刊は『寄せては返す波の音』(新潮社)と題した。ラフカジオ・
ハーンやE・S・モースは蒸気機関に代表される産業革命を認めなかった。
故人は憎んだ、否定した。自らダメの人と称して言って甲斐ないことと
承知しながら書いた。
── 《私の死亡記事 20001210 文芸春秋》P198-199
 


 斉藤 緑雨 作家    18680124 伊勢 19040413 38 /慶応 3.1230-1231
/籍=斎藤 賢/露伴、鴎外と同時代批評「三人冗語」〜かくれんぼ
 広瀬 武夫“軍神”18680716 大分 旅順 19040327 35 /慶応 4.0527(37)
/海軍少佐(第2次旅順口閉塞作戦で戦死)/辞世「七生報国」〜広瀬中佐の歌
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 幸徳 秋水 著述 18711104-1105 高知 19110124 41 /明治 4.0922-0923/処刑
 山本 夏彦 コラム   19150615 東京 20021023 87 /露葉の子/籍=同

 
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(20070222)
 


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