2006年02月20日(月) |
求められる“教養”っつーか、雑学? |
教養とは、 子鹿のようにコケティッシュな顔と、 カバのように豊満な体と、 カラスの知性と、 トンビの美声を持った、 紫色の目の魔物である と言ったのは、 ジョージ・バーナード・ショーですが (かなりの確率で言ってません。というか、嘘つきました) 何につけ素人の私には、うまく定義づけができません。
話題は少し変わって。 昨年のM−1グランプリで、笑い飯が最終決戦で披露したネタは、 「哲夫(ボケ)が、友達の誕生会で、 “ハッピーバースデー”を歌わなきゃならないが、 “ハッピーバースデー、ディア○○”と 最後の“〜トゥーユー”の間のタメをどのくらいにしたら、 他の人とタイミングが合うのか?という悩み解消のため、 西田(ボケ)が歌の練習につき合わされる」 という内容のものでした。 哲夫のボケの中で、 「一生懸命歌うと、どうしてもマリリン・モンローになる」 というのがあって、 最後には、2人そろってモンローチックに歌います。 笑い飯を御存じない方、 先々ネタを見るかどうかわからない方に解説申し上げますと、 この人たちの漫才スタイルは、 何か一つのテーマにして、 交互にボケとツッコミが入れ代わるというもので、 基本的に2人ともボケなのです。 というか、ボケとアホだという説もあります。
私はこれを初めて見たとき、 ただただ「やり過ぎ…」と思っただけで、 そう高評価をしておりませんでした。 が、2度、3度と見るうちに、物すごく面白く思えてきて、 昨年12月25日の日記で書いたようなベタボメに至りました。 哲夫が少しかれた甘ったるい声で歌っているのも、 モンローっぽいといえばそうだし、 なかなかどうして、いいところ突いているじゃないかと。
が、最近娘と話していて(彼女もこのネタでは大笑い) 「ああ、そうか」と思ったことがありました。 「一生懸命歌うと、マリリン・モンローになる」という意味が いま一つわかっていなかったんだそうです。 つまり、モンローが 1962年J.F.ケネディのバースデーパーティーで 『ハッピーバースデー』を歌ったというエピソードを 全く知らなかったということです。 (もちろん、当時モンローがケネディと浮名を流したということも) 1991年生まれの彼女が、 何かのテレビで回顧フィルムを見たとか、 本で読んだとかしない状態で、 それを知らないのは当たり前です。
1968年生まれの私も、 大好きなビリー・ワイルダーの映画でモンローを見て、 かわいい魅力的な人だなあと思っていたから、 周辺情報として知っていたに過ぎません。 2人とも1974年生まれの笑い飯も、 情報としてそういうことを知っていて、 ある種の一般常識として取り入れただけでしょう。 そのことについては、哲夫さん自身が 後に何かコメントしたようですが、詳細がわかりません。
あのしつこいネタには、元ネタを知っていようがいまいが、 引いてしまった人も多いようですが、 同様に、「何かわからんがおもしろい」と 思って笑った人もいると思います。
自分が当たり前の知識・情報として知っていたことが、 必ずしも「みんな」が知っていることじゃないということって、 結構あります。 映画の話題で引っ張らせてもらえば、 その手のネタは、まさに無尽蔵といえましょう。
ベトナム戦争をテーマにした、あるコメディーについて 2人の映画好きの人と話をしたとき、 意見が何となく分かれたことがありました。 私は単純に「おもしろかった」のですが、 1人は「あんまりおもしろくなかった」と言い、 もう1人は「おもしろかった」と感想を言った後、 「おもしろくなかった」と評した人に、 「あれはスラングがわからないと、おもしろくないんだよ」 とつけ加えたのでした。 彼の言い方だと、私も本当の意味でのおもしろさは わかっていなかったようですが、 面倒なので、黙っていました。
小面倒くさい洋画を3歳児に見せても、笑うことがあります。 「○○がコケたところがおもしろかった」とか、 「あそこが個人的にはツボだった」とか、 まあ、そんなことを言う3歳児はまずいませんが 映画の楽しみ方は、そんなんで十分だと思っているし、 知識があるなら、それに裏打ちされた笑いも一興。 ただ一つ言えることは、 「そういうことを知らないと笑えない」という映画は、 そういうことを辛うじて知っている人が、 無理やり笑っているケースが多いと思うんですよね。 前述のベトナム戦争コメディーに関しては、 「おもしろくなかった」という人は、 スラングに精通していても、笑えなかった気がします。 ツボを押してくれなかったんじゃ、仕方ないことです。
笑いにしろ、涙にしろ、そのツボという 全く正体不明のものをつくるのもまた、 その人の生活体験や環境、そしてそこから培われた教養 ……のようなもんという言い方もできなくはないのですが、 人のツボにケチつける人間にはなりたくないと つくづく思います。 たとえ、不見識がゆえに不謹慎な発想や発言をしてしまったとしても、 後々訂正できればいいし、とか思いつつ。 これは完全に自己弁護かもしれませんが。
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