(私が)忘れなければいい…谷口の日記

谷口

りゅうじん 後半
2010年09月12日(日)

 やっとの事で帰ってきた診療所の主は全身泥水にまみれ、しかも肩には血と泥水を浴びた男を抱えていた。その姿を見て咲は声にならない悲鳴を一瞬あげたが、気丈にも「すぐに手当ての準備を致します!先生は早く着替えてください!」と南方を促した。この、自分よりも剛健な精神の持ち主である助手の存在に感謝しながら、南方は烏が行水を浴びるがごとく、泥水を洗い流し、真新しい着物に袖を通した。爪の間には先刻、入ったと思われる泥が入りこんでいたが、そこまで悠長に洗い落としている暇もなければ、そんなものを気にしている暇もなかった。
 それほどまでに南方の心は急いていた。
自分でも、この焦りが愚かしいものだという事は分かる。医師として、的確な行動ではない事は重々承知していた。先ず、初手の段階から看護師―看護師的存在である咲に対して、的確な処置の指示を出していない。現代医療において、看護師が、率先して医療現場の指揮を独自で判断する事は殆どない。今でこそ、医師と同じ治療を行える看護師の育成を行おうという動きがあるが、未だ看護師は医師の指示の元、行動を指示され動くという名目の元にその制度は施行されている、医師が何の指示も出さなければ、看護師は一寸たりとも動かない、動けないのが現状だ。そんな身に染み付いた常識すら忘れる程、自分の心は急いている。
 ―ミスがでる。
そう、思った瞬間、南方は自身の動きを止め、爪に入った泥を見つめた。
落ち着け、落ち着け、落ち着け、そう何度となく自分に言い聞かせるが、南方
は、自身の泥の入った爪が微かに震えているのを感じた。
 震えているのは自分の手か、それとも己自身か。
 原因は分かっていた。何故、己がここまで、感情に翻弄されるのか。
―これから、自分が手当てせんとする相手が坂本龍馬だからだ。
 歴史的に名を残す、偉人だからではない。自分をこの世界に繋ぎとめる事を決意させた、大切な男からだ。その男の命を自分はこれから預かろうとしている。この異世界ともいえる、江戸で生きて行こうと、自分の成すべき事を成そうと、決意させた男の身体から今、どくどくと鮮血が溢れ、命を削っている。この男が死んだら自分はどうしたらいいのか?そんな、個人的感情と、医師としての矜持が入り交じった感情を持って、今、南方は龍馬の手術に当たろうとしている。
 もし、龍馬さんが自分のミスで命を落としたらどうするんだ?
 南方は自分自身に問いかけた。答えは返ってこない。何故なら、答えは決まっている。

 俺はあなたを死なせはしない。 
 
 寝台の上には見慣れた男の顔があった。しかし、今その見知った男の顔色は青白く呼吸は浅く速い。それを見た瞬間、南方は固唾を呑み込んだ。咲が龍馬の身体を拭き終るのが終り、先生、という緊迫した声色で南方の名を呼ぶ。咲と目を合わせ小さく頷き返すと南方は龍馬の傷をまじまじと見た。幸いにして傷は思った以上に浅く縫合の手順は容易に想像する事が出来た。
 咲が並べてくれた道具を一瞥すると、男の胸に触れる。どく、どくと素早い鼓動が手に伝わる。自然と額に汗が伝った。江戸の職人達に作ってもらった外科道具は現代で南方が使っていたものよりも使いやすく、繊細に作られている様に感じた。何よりも「南方先生の頼みとあっちゃあ」と、破顔しながら元は鉄砲鍛冶職人だったという親方の粋な快諾の声を思い出して瞬間、南方は心強さを感じた。  
 改めて、南方は龍馬の傷を診た。男の傷口は美しいと言って良い程すぱ、と斜に斬られており、菅笠の男の得物が日々丁寧に手入れされていた事が伺える。やはり、人斬りを生業とする男だったのだろうか?と胸中で呟いた。不幸中の幸いと言った所で丁寧に手入れをされた刃での切り口であった為、縫合は容易に、そして綺麗にできると思った。以前に、ぼろぼろの刃で斬られたと思しき患者が担ぎこまれてきた事があったが、処置に通常の倍以上の時間を取られ、安易に事が運ばず、苦労した事があった。それを思うと難易度は低い、だが油断は禁物だ、南方はそう自分に言い聞かせながら鑷子を手に取った。
 鑷子で傷口を探って行く。異物はないか、一番傷が深い部分は何処か。咲が綺麗に傷口周辺を拭ってくれた為南方はただ、その一点に集中し倒れた時に入り込んだと思しき礫など異物を取り除いて行った。
 部屋には血の臭気と手術用に作った焼酎―アルコールの匂い、そして汗の匂いが立ち篭めていた。外は未だ豪雨が降り続いているのだろうが、今の南方には激しい雨音も、迅雷の音も届かなかった。
 浅いが、長く斬られた傷口を診終えると、鑷子を左に持ち替え、持針器を握りしめた。角針をぷつ、と男の身体に刺し入れる。ぴくりと一瞬全身が跳ねたが、龍馬は耐える様に両の拳を握った。意識が朦朧とする中でも、南方の手術が少しでも円滑に進む様、この男なりに気を張っているのかもしれない、そう思った。創傷底部から縫合を開始する。人間の皮膚というのは布の様に易々と曲げたり引き延ばしたりする事はできない。故に、手術用の針というのは一般に想像するような裁縫で使用する真直ぐの縫い針などではなく、円の半分を切り取った様な円弧状のものを使用する。「まるで、釣り針のようでございますね」と、咲が言い「人は釣れませんけどね」と返すと、龍馬が唐突に話に割り込んできて「何を言うがじゃ!先生はワシも含め、人をたくさん釣っとるき!」と、冗談を飛ばした事を思いだした。「人の事を詐欺師みたいに言わないでください!」と怒ると「誉めとるんじゃ!」と、男はからからと笑った。
 そんな、無邪気な笑顔が出来る男の顔が、今は蒼白に近く瞼は固く閉じられている。南方はぐっと、唇を噛み締めると一針一針確実に縫合していった。
 どれくらい時間が経過しただろうか?洗い流した筈の汗は再び吹き出してきており、南方の前髪を額に貼り付かせる。目の前には皮下組織に達した脂肪がうっすら見える傷口がある。瞬間、汗が目に入りそうになり視界が滲み、目をしばたいた。それを見た咲がハッとしたように木綿の布を南方の額に当てる。気丈に振る舞っている様に見た咲もまた、近しい者が血を流しているという事実に戦かない筈はなかった。それを見た南方は自分の手が微かに震えている事を悟られまいと、咲に小さく微笑みを返した。
 そうだ、自分は僅かだが震えているのだ。
その手を見て南方は改めて一つの事実を実感した。自分は坂本龍馬が好きだ、という事実に。だから、こんなにも動揺し、同時に絶対に助けてやるという気持ちになるのだと。
「私も貴方が好きですよ、龍馬さん」
 いつもいつも本気なのか、ふざけているのか分からない様な調子で「ワシは、せんせいの事を好いちゅうぜよ!」と屈託なく向けられる言葉に今更ながら心の中で返事を返す。
 笑顔の貴方が見たい、自分をからかう貴方が見たい、かと、思うと真面目な顔をして日本の行く末を真面目に語る貴方が見たい、そしてその次の瞬間は冗談を言う貴方が見たい。
 ―貴方が夢見る理想の日本の姿を貴方と共に、貴方の隣で見たい、見せてやりたい。自分ならば、見せる事ができる。出来る筈だ。

 あなたは、この国を変えるんですよ、龍馬さん。
 
 現代においてはナイロン製の糸を使用し、その縫合跡は小さく目立たぬものだが、勿論この時代にナイロン製の糸などというものはない。老医師の昔話にしか登場しないような絹糸での縫合を自分が行う事になるとは思ってもみなかった。南方はそれでも縫い跡が目立たぬ様に、表面に出る糸は緩く、内部ではしっかりと傷が開かない様基本に乗っ取って運針を試みた。それとも、この男の事だから「せんせいに縫うてもらった事が良くわかるようにして欲しかったぜよ」とでも言うであろうか?この男なら本当に言いそうだな、そう思いながらわざと一目だけ目立つように結紮をした。処置が早かった為、出血性ショックを起こす事も、他の大事に至る事もなく、未だ男の顔色は青白いままだが容態は危険な状態は脱したと南方は判断した。縫合は佳境に差し掛かっている。いつの間にか嵐はやんでおり、蝉の鳴き声が再び聞こえ始めていた。木戸に張りついたとおぼしき蝉は数分激しく鳴き、じ、という音と共にどこかへ飛んでいった様だった。龍馬の乱れながらも安定を取り戻しつつある呼吸を感じながら南方は最後の一針を通し終え、結び剪刀を絹糸に入れた。ぱちと響く筈のない音が響いた気がした。

 それと同時に息を深く吐き出し、咲の「先生」という言葉を聞いた途端、ぐらりと視界が闇に包まれた。正確には闇ではない、赤、青、黄、緑、様々な色が光のごとく、万華鏡を彩る色彩ごとく瞼の裏を爆ぜた。自分の身体がぐわん、と揺れ宙に浮いた様感覚触だけが支配した。
 ー嗚呼、自分は倒れるのだな。これを俗に『緊張の糸が解れた』という状態なのだな。嗚呼、良かった…だけど、咲さん、ごめんなさい…。そんな、取り留めのない事を思いながら南方の意識は闇に落ちて行った。



 じっとりと、臍の辺りを伝う自分の汗の不快な感触で南方は目を醒した。瞼は重く、数度瞬いて周囲の明るさに目を慣らす様にして瞼を抉じ開けようと試みた。瞼裏を明かりが仄かに刺激し、今が朝方だろう事を南方は感じ取った。
 ー今日も暑くなるのか…。暑さと、そして肌に感じる視線を感じながら、南方は瞼をもたげた。うう…と呻きながら、着物の袂を掻きむしる。汗で不快極まりないが、やらないよりはマシだった。
 麻のごわつく素材を感じながら、身を起こすと自分が診療所にあるもう一つの寝台の上に寝かされていた事がわかった。流石に咲一人では自分を寝起きをしている奥の部屋まで運ぶ事は出来なかったのだろう。咲さん、本当にごめんなさい、南方は胸中で咲に何度も謝った。
 
「せんせい」

 不意に、小さく呼ばれた。

 瞬間南方は寝台を飛び下り、隣の寝台の上に寝かされている男の側に駆け寄った。
「龍馬さん!」
 自分でも吃驚するような大声を上げていた。
 龍馬の胸には包帯代わりのまっ白なさらしが幾重にも巻かれており、逞しく日焼けした男の身体には不似合いで、一層痛々しさを感じた。
「大丈夫ですか!」
 大丈夫か大丈夫でないか、判断する立場にありながらそう言わずにはおれず、龍馬の寝かされている寝台に跪き男の顔を覗き込む。こんなにも顔を近付けたのはどれくらいぶりだろうか。龍馬の顔色は今は若干疲労の陰りは見えるものの、快方へぐんぐんと向かって行くであろう生気が見て取れた。よかった、顔色もいいみたいだ、と言いながら、昨晩に続いてニ度目となる安堵の溜息を漏らす。
「せんせいの顔色はひどいぜよ」
 さぞや、疲労が貼り付いた酷い顔色をしているのだろう。だが、身体のだるさも、疲労による不明瞭な思考も今は微塵も感じなかった。
「私の事よりも、龍馬さん貴方ですよ」
「大丈夫じゃ」
 にか、と白い歯を剥き、真夏の大陽を思わせる苛烈な笑顔を向ける。
嗚呼、この笑顔をまた見る事が出来た。南方はそう思った瞬間、一筋涙を流した。
「せんせい、何を泣いちゅう!」
 寝台の上で男の丸い目が、一層見開かれる。「せんせいは、ワシが死ぬかと思ったがか!?ワシはこれしきの事で死なんきに!大丈夫じゃ!大丈夫じゃ!坂本龍馬は不死身じゃ!」そう、慌てながら言葉を吐き出す。
「そうですよね、でも私は昨日…」
 言葉を言い終わらない内に唇を塞がれた。水気がなく、かさついた唇。自分の方も疲労のせいで同じようなものだろう。そう冷静に思った瞬間、ばっと後ろに尻餅をつきながら転げるように距離を取った。
「何をするんですか!」
「口吸いじゃあ」
 思わず、唇を袖口でごしごしと拭う仕種をする。 
「そんな事は分かってます!」
「大丈夫じゃと言うとるのに、せんせいが、なかなか信じようとせんきに、な」
「な、じゃないですよ!」
 暑さの所為でない汗が首筋から吹き出し、顔が熱をもっているのを感じる。
「大丈夫じゃ、大丈夫じや、ほれこの通り…」そう、言いながら龍馬は、のろのろと身体を起こそうとする。何を…!南方が悲鳴に近い声を上げながら、すぐさま身を起こし再び龍馬の側に駆け寄る。
「もう、起き上がるなんて!」いたた…ちくとまだ痛いのぉ…と、ぼやきながら眉間に皺を寄せる男の身体を支える。「当たり前です、何針縫ったと思ってるんですか!」その言葉を受け、龍馬は「せんせいが、ワシをしゅじゅちゅしてくれちゅうがか…。嬉しいぜよ…」と呟き、だらしなく破顔した。手術をされて嬉しがる人間がどこに居るんだ、ああここに居るのか…と、昨日思った通りの事を言う男を思い南方は一層愛おしさを感じた。
「本当に、良かった…」
 三度目の安堵を男の目を見つめながら漏らす。胸のあたりがじんと熱くなる。龍馬が「せんせいは、心配しすぎじゃあ」とけたけたと笑った。―と、同時に破顔する男の頬を両手でむんずと掴み、今度は南方から唇を押し当てた。
 ただ、唇を合わせるだけのそれ。しかし、限り無く温かく、得も言えぬ幸福感に包まれた。龍馬は一体何が起こったのか判断が付かない、といった表情で元々大きな瞳を更に大きく広げていた。
 ぷは、と息を吸うように唇を離すと、南方は先刻の行動を直ぐさま恥じるように俯いた。
「せんせい…今のは何じゃあ…」
 鳩が豆鉄砲を喰らった、そんな表現がぴたりと嵌まる男の面相は驚愕の色しか浮ばず、腹の底から絞り出した疑問の声も動揺のあまり弱々しい。
「く…っ…口吸いです!」
 先程の男と同じ台詞を返してやる。
「うぉおおおおおお…!せんせい!せんせい!せんせいがワシに!」
 龍馬は両の手を見つめ咆哮を上げる。そんな、大声を出しては傷に触りますよ!と窘める言葉も聞かず、龍馬は感動に打ち震えながら南方の肩を掴み
「せんせい!せんせい!もう一回じゃあ!もう一回!もう一回しとうせ!」
 と、激しく南方の身体を揺らした。南方は未だ羞恥に震えて膝の上で握った拳は事実微かに震えていた。もう一回!もう一回!もう一回!口吸い!口吸い!と、興奮した龍馬の声は大きくなるばかりで、近所まで聞こえそうな程だった。
「や…っ、やめてください!龍馬さん!分かりましたから!分かりました!」
 そう声を荒げても男の声は鳴りやみそうもなく、南方は仕方なく龍馬の背中に腕を回した。途端に龍馬は大声を上げる事をやめ、口角をもたげ静かに目を閉じた。
 腕を回した男の身体からは手術用のアルコールの匂い、そして大陽の匂いがした。

 「好きですよ、龍馬さん」
 
 そう呟くと力強く抱き締めた。本当に力強く、力の限り。

 龍馬の絶叫が朝の江戸に響き渡る。その声に驚いたかのように蝉達が一斉に鳴き始める。生命が輝く季節、燃える様に駆け抜ける季節。
 
 共に駈けよう、共に生きよう、この時代をこの男と共にー。

 
-----------了


いーまーあーいーたーいー♪流せた!MISA流せた!




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