(私が)忘れなければいい…谷口の日記

谷口

普と子独(途中)
2010年04月04日(日)

 季節は夏の到来を告げていた。暦は六月を数え、過ごしやすい、否、汗ばむ程の陽気が続いていた。砂埃と火薬の臭い、そして汗に染まった紺の軍服はじっとりと重く、皮の軍靴も鉛の様に重く感じた。襟元を僅かばかり押し開くと、微かだが風が舞い込み、すぅと汗を冷やした。真っ先に風邪を引くやり方だが、今は涼を取る事の方が先決だ、と言わんばかりにギルベルトは束の間の心地よさを味わった。
 我が家―というには烏滸がましい程の豪壮な屋敷に足を向けるのは久しぶりの事だ。供の者も連れず、単騎でこうやって戻って来る姿を誰か、屋敷の者にでも認められれば「今がどのような時か分かっておられか」と説教が始るに違いない。願わくば、誰に見つからない事を…と、微かに祈りながら愛馬を馬厩に繋ぐ。「俺もドロドロだが、お前も似たようなもんだな」と、共に戦場を駆った黒馬の背を優しく撫でるとその台詞に同意するかの様に、ぶるると戦慄き、鼻頭を男に擦り付けた。「後で、洗ってやるからな」と顎の辺りを撫でると、愛馬は分かった、と言わんばかりに頭を振った。

 ―また、すぐにドロドロになっちまうかもしれねぇけどな。

 自嘲気味にギルベルトは独りごちると、踵をかえし屋敷へ足を向けた。屋敷の正面玄関に続く石畳の道脇にある丁寧に手入れされた芝と、薔薇の茂みが自分を迎える。初夏の青空と、芝の緑、屋敷の白壁との対比が眩しく、そして、どこからどうみても貴族の屋敷にしか見えぬこの屋敷の主が自分だと思うと、ギルベルトは可笑しくて何時も笑い出しそうになる。流浪の騎士として、野営を常とし、牛馬の糞尿にまみれ眠り、飢えれば汚水を啜り、鼠の固い肉を胃に納める事も厭わなかった自分が今では侯爵様だ。別に、地位や名誉を欲し、豪奢な生活がしたくてここまできた訳ではない。爵位は無論、お飾りでしかなく、無位無冠の者が王の側を、宰相の側をうろつかれては道理が通らぬ、という意味での爵位である。無論、貴族連中の中にはギルベルトの正体が何たるか分からず、出世欲という下心丸出しの顔で「バイルシュミット侯爵、本日はご機嫌麗しく、先日は…」と近付いてくる輩まで出る始末で、男自身にとってはこの爵位自体煩わしい物でしかなかった。
 そして、そんな輩の高位の者に媚びへつらい、取り入ろうとする行為自体が男にとっては我慢のならぬ物だった。成り上がりと罵られても構わず、実力で欲する物を手に入れ、勝ち取る事を第一としてきた男には当然の事であった。「これからは爵位なんてもんが一番クソの役にも立たない時代が来るんだ。世辞を並べる暇があったら銃の扱い方の一つでも覚えやがれ」と、擦り寄ってくる連中を大声で怒鳴り散らしてやろうかと思った事も一度や二度ではない。十数年前に起きた市民革命の波を知らぬ筈が無いのに、いつの時代も旧い権威に縋り威を借ろうとする者は現れる。旧い権威、その言葉に誘発されるように、あの男の顔と声を思い出した。
「このままだと、どういう事になるか分かってるんだろ?お坊ちゃん」
 そう、口火を切ったのは自分だったが、圧倒的に苛立ちを募らせているのは相手の方だった。
「私に宣戦布告をすると…?貴方が、帝国を、ドイツを統べられるとは私は思いません。その大きさに貴方自身が呑み込まれ押し潰されてしまうのが落ちですよ」
「だからと言って、ハイそうですかとお前に全てを渡せる程、俺は広い心を持ち合わせちゃいねぇし、お前を、正確にはお前の後ろにあるもんを全く信用しちゃあいないんでね」
「このお馬鹿さんが。どうなっても知りませんよ」
 眼鏡の淵をくっとあげ根眉に深い皺を寄せた表情が、まざまざと思い出される。そんな言葉を交わしたのは数週間前に行われた連邦会議場での事だが、遥か遠い過去の出来事の様に感じた。それからは目まぐるしく全ての事柄が動きだした。プロイセンがオーストリアに予想通り宣戦布告をした為だ。ホルシュタインを占領する事によって戦いの火蓋は切って落とされ、つまりは、今は有事の只中という事になる。列強等はこの戦いを五分五分と見ていたが、戦況は圧倒的にプロイセンの優勢であった。自国に鉄血宰相と言われる政の天才と、軍事的天才と呼ばれる参謀総長という突出した傑物が生まれた事も勝利の要因であはるが、この戦いが圧倒的優位で迎えられたのは火薬と情報の力の賜物である。ギルベルトは自らの軍が生み出した兵器の恐ろしさを、噛み締める様に思い出した。
『火薬と情報を制する者が世界を制す』そんな錯覚を起こしそうになる様な戦いであった。
 「そんな物が本当に実用に耐えられるのか?」そう、言われ過小評価され続けてきた紙製薬莢を用いた後装式の銃はまるで、それを挽回するがごとく、敵兵を紙の人形の様に薙ぎ倒していった。旧態依然という言葉がぴたりと当てはまる、ナポレオン戦争以来、何の変化もしてこなかったオーストリア軍兵士が律儀に前装式の銃に次弾を装填している間に、後装式のそれを屈んだ格好のまま狙いを定め、敵兵に容赦なく四発、五発と弾を打ち込んで行く様は常識を覆す光景であり、オーストリア兵の息を飲む音がこちらまで聞こえて来る様であった。そして、そんな圧倒的攻撃力を陰で支えたのが、電信と鉄道の力であった。宝の持ち腐れとは出来た言葉で、優れた道具もその的確な指示の元扱われなければ何の意味もない。戦況をいかに短時間で的確に把握し、次の行動を迅速に指示すること、それが可能ならば戦というのは圧倒的に優位に持っていく事ができる。有史以来、その単純明解な答えは出ていたのにも関わらず、それが実現困難な事柄であったからこそ、戦は繰り返されてきたのだ。そして、それを可能にしたのが電信であった。早馬を、斤侯を飛ばしていた時代が馬鹿らしくなる程の、短時間でモールス信号に乗せられて伝えられて来るそれを聞いた時はギルベルトは目眩を起こしそうになった。とうとう、ここまで来ちまったか。そう、戦慄きながら呟いた程だ。
 それらを相対的に鑑みて、この戦が短期間の後決着が付き、後の戦いの布石になるであろう事は今や誰でも知っている事だった。この戦いは言わば身内同士での諍いであり、内部抗争である。身内同士の争いで自分の持ちうる最大の手駒を使わねばならぬとはなんともふざけた話であり、真に争わねばならぬ相手に手の内をむざむざ晒す行為を余儀無くされている事にきつく唇を噛んだ。
 きっと、今頃「不可能という言葉はフランス的ではない」と言葉を残した英雄の亡霊に縋り続けている髭面のあの男は、ワイングラスをくゆらせながら、したり顔で銃機開発や、鉄道整備に早速取りかかっているに違いない。
 次に争わねばならぬ、あの男も近い内に『火薬と情報』を手に入れる事だろう。それらを一番上手く扱える者が覇権を握る。その考えはあながち間違いではないだろう。果たして覇を握る者は誰なのか?己自身かもしれぬし、旧知の誰かもしれない。将又、これから生まれる未だ見ぬ誰かもしれぬし、己の手中にある小さな子供かもしれない。
 
 ―子供。

 そう、子供だ。





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