十一月の或る日。 連日続いた宴の日々も影を潜め、周囲は日常を取り戻しつつあった。 少し前までは、あの日から二十年の月日が流れた事を祝う宴が、毎夜どこかで催されていた。国内中が祝賀ムード一色に包まれ、狂喜とも取れる程の饗宴とそして、感動的なセレモニーが続いていた。 事実、ルートビッヒは数日前まで連日続く祝賀式典に駆り出され、奔走していた。 雨が降りしきる広場は取り囲む人々の熱気に包まれていた。その中、皆の前で口上を述べる直前、上司は深呼吸をさかんにし、何度も何度も広場を覗き見ていた。そんな上司の肩に手を置き、激励をしたのはつい先日の事の筈であるが、遥か遠い昔の様に思えた。かつて、平和門と称され、今再びその意味を替え平和の象徴とされる様になるであろう門の背後に打ちあげられた、花火のごとく祝賀の日々は目の前を目紛しく通りすぎていった。 めでたく、感動的な日々であった。沢山の友人が、沢山の大切な人々が自分と兄に祝いの言葉を投げ掛けてくれた。その言葉に目頭を熱くし、実際涙を見せた。 目の回る様な忙しさが過ぎ去り平穏が訪れた今、心の奥深くに溜まるある一つの黒点を気にせざるおえなかった。兄の動向である。勿論、兄もこの二十周年のめでたい日を心の底から祝っていた。 だが、あの磊落という言葉が合う男に落とされた一点の暗い影を見て取る事はルートビッヒにとっては、容易い事であった。先刻、磊落と評したが男がそれが上辺だけである事はルートヴィッヒ自身が良く知っていた。根は細やかで何事も掘り下げて考える性質の持ち主である事は誰よりも分かっているつもりだ。 わざと、あの身持ちを崩した様な振る舞いをしているといって過言ではない。 今日もあの日と同じ様に雨が降っている。家に帰ると、飼い犬達が主人の帰宅を喜び出迎えた。が、室内は暗く人の気配は全くせず、兄が出かけている事がわかった。犬達に食事を与え、ソファにどっ、と腰をおろしテレビを付けると国際ニュースが流れ出した。あの響宴の日々を伝える報道は無論なく、世界経済は未だ混迷を極め出口を見つけ出せないという、分かりきった事実を女性キャスターが淡々と伝えていた。その為に、奔走しているのだがな、と一人ごちるとルートヴィッヒは愛犬の頭をひと撫でした。一人で過ごす我が家というものは珍しい事ではない。兄はよくフラフラと出かけ家を空ける事がある。 だが、しかし今は違う。 祝賀式典の準備だ何だと忙しなくしていて気づかなかった、といえば言い訳になるが、兄の異変に気づいたのは数日前からだった。 激しく気鬱になっているだとか、手のつけられぬ程荒れて困るという類いの事ではない。 「また、どこかで酔い潰れているのか?あの馬鹿は」 そう呟くと、その呟きに答えるがのごとく、犬がくぅと鳴いた。そして、ソファに腰を下ろしてから何度目かの深い溜め息を尽き終わると、見計らった様に携帯電話が鳴り出した。 ーきっと、兄だ。そう思って手を伸ばすと案の定で「雨が降っているだろう、車で迎えにきてくれ」と、回線の向こう側の男が若干回らぬ舌で用件を言い始めた。 「わかった、多分三十分程で着くだろう」 そう言うと携帯電話をズボンのポケットの尻にしまい立ち上がった。数十分前にかけたハンガーにかけたコートを再び手に取り袖を通す。コートは湿り気を帯び、冷たく心地の良いものではなかった。 また、でかけるのか?という犬達の視線を感じながら、テーブルの上に投げ捨てる様に置いてあった車のキーをつかみ取った。 指定されたのは所謂ガード下のビアハウスで、ルートヴィッヒは石畳の路面に車を止めるとエンジンを切った。 黄色とも赤とも取れる電飾で店の名前がかかれた看板がぼんやりと光っていた。三つある窓からは客の頭か店員の頭か、いくつもの頭部が忙しなく動く様が伺い知れた。 エンジンを切った車内はとたんに寒くなり、ルートヴィッヒは縮こまる様にしてステアリングに腕を下した。 時折、ドアが開き店内の喧噪と数人の客を吐き出すが兄が出て来る気配はなく、その一団が過ぎるとまた通りには静寂が訪れた。 雨はいつの間にか止んでいた。そう分かったとたん、何の気まぐれか外に出てみようか、という気になりコートの前を合わせ、ドアを開けた。瞬間外気の冷たさに身体が晒され車外から出た事をすぐさま後悔した。 ぶる、と身体を振るわせ首を縮めた瞬間「おい、ヴェスト!早かったじゃねーか!」と、聞き慣れた声が自分を呼んだ。 顔を上げると、兄と兄と肩を組む見知らぬ壮年の男が店の扉から出て来る所だった。 『人前でその名前を呼ぶな』と、言いそうになるのをぐっと堪えて兄を見た。 兄と肩を組んでいる男ー恰幅の良い50がらみの男と兄は既に出来上がっているようで、互いに口元を緩ませニタニタと笑っていた。 「ヴェスト(西)?おもしろい渾名だな」と男が笑いながら言うと兄も釣られるようにして笑った。「だろ、コイツには他にも、もっと面白い呼び名があるんだぜ?」などと、言い出すのではないかと気が気ではなく、すかさず「兄貴、早く車に乗ってくれ、寒くてかなわん」と、煽った。 「ワリィ、ワリィ」とケタケタと笑いながら体を揺らしながら男の肩をぐっと引き寄せて、「このデカイのが俺の弟。で、こっちのオッサンは今日そこの店で知り合った…」と吃逆を交えながら紹介した。 ルートヴィッヒが「酔っぱらいの相手をさせてしまい、すまない」と、軽く頭を下げると、男は大きく手を振り、 「いいってことよ。酔っぱらい同士楽しかったぜ。この兄ちゃんは若けぇくせいに、えらい昔の事を良く覚えてててな。話してて昔に戻ったみたいで楽しかったよ」 と、ヤニで黄色くなった歯を剥いて見せた。 周囲は上がった雨に冷やされた空気だけが流れていたが、この酔っぱらい二人の周囲だけは何故だか気温が上昇ている様に思えルートヴィッヒは飽きれながらも小さく笑った。 「じゃあ、またな」 男が酒臭い息を吐きながら、兄の肩から腕を解き、よろめきながら踵を返した。 「ああ、また」 兄が千鳥足で石畳を踏み、闇夜に消えて行く男を大きく手を降りながら見送った。 ルートヴィッヒはコートのポケットに両手を突っ込んだまま、男と男を見送る兄の背を見つめた。 『また』と言った兄。だがしかし、『また』は無い事は今、男を見送る兄が一番良く知っている。 悠久に近い時を生きる身にとって、市井の人々との距離の取り方は心得ている。 特に自分より年長である兄の方が一層長けているのは当然の事だ。特定の『ヒト』とは深く関わって生きていかない方がいい。数百年に一度、その箍が外れ、悲しい目に合ったり、手酷い目に合ったりもするが、ある一定の距離を置く事が基本である。であるから、ルートヴィッヒは馴染みの店を持つ事は今までなかったし、これからも持つつもりもない。否、元々そういったものが性分に合わなかった、という事もあるが兄は違った。兄は昔は馴染みの店というものを作り、4、5年は通っていた。しかし、ここ数十年。否、はっきり言おう。兄と再び暮らし始めた時から、兄は一晩限りで店を変えていった。一度訪れた店は再び訪れる事はない。そして、今もそうだ。だが、今までと顕著に違う点がある。 それはその頻度である、兄の一晩限りの飲み歩きはひと月で数える程度であったが、あの日を迎えて以降、否、本当はあの日を迎える以前だったかもしれないが、連日連夜、店を替え、土地を替え飲み明かしていた。 数日前などは家から鉄道を使っても一時間以上もかかる酒場で飲んでいるという連絡が入り「勝手にしろ」と、電話を切った。 「早く乗ってくれ」 そう促すと、兄もまた千鳥足でフラフラとドアに近づき緩慢な動作で扉を開けた。 どっ、とシートに沈む様にして腰掛けると車体が大きく軋み揺れた。このまま、寝てしまうのではないか?と兄の様子を辟易しながら眺め、自身も運転席に乗り込んだ。 はぁ、と溜め息とも付かぬ息を手に吹きかけると、息は目に見えて白く、こんな事ならば手袋をしてくれば良かったと軽く手を擦り合わせ車のエンジンを入れた。 兄があちらから帰って来る時に乗ってきたこの『随伴者』の意味を持つ車は文字通り、再び暮らし始めた兄と自分の生活にひっそりと付き従ってきた。排ガス規制の強化に伴い、規制に確実に引っかかるであろうこの車を改良し、なんとか特別に走行許可をもぎ取ってきたのは意外な事にルートヴィッヒだった。兄はそんなルートヴィッヒを見て、そこまで、ムキにならなくてもいいのによ、とブツブツ文句を言いながら「とっとと、アウディに買い替えろよ」と皮肉を言った。しかし、そう言いながらも自分に向けられた兄の瞳はやっと訪れた春の日だまりの様に暖かく、心地の良いものだった。 ステアリングを握るルートヴィッヒの顔が暗がりでも険しいものだと悟ったのか、 「怒るなよ、お前が心配する様なヘマはしてねぇよ。オッサンの話に適当に相槌打ってただけだ」 と、言い訳がましく呟いた。その後も兄は人の気も知らず、酒臭い息を車内にまき散らしながら「あの店のカリーブルストは最高だった」「ビールと一緒に流し込むやり方を教わったんだ」「お前も一度やってみろよ」と、取り留めない話を少し怪しい呂律で捲し立てていた。 それを聞くとも聞かぬとも知れぬ素振りでルートヴィッヒは黙々とステアリングを握り続けた。 ちら、と隣の兄を見ると、アルコールで今にも蕩けそうな目を擦り、大きな欠伸をする姿が目に入った。その姿を見たとたん ーこの上機嫌な酔っぱらいを困らせてやろうか? と、思った。 「兄さん、俺に何か言いたいことがあるんじゃないか?最近の兄さんは少しおかしい」 沈黙が訪れた。 車内にはただ、エンジンの走行音が響くのみ。視界は闇に近く、時折すれ違う対向車の光が一瞬車内を照らし、それが過ぎ去ると再び薄暗い闇が充満した。ルートビッヒはその間、前方をじっと見つめていた。 すまない、俺が悪かった、そう言いかけた時、兄が口を開いた。 「さっきのオッサンな、東の出身なんだ」 と、ルートビッヒの質問に対しての答えとは全く見当違いの答えが返ってきた。 そのまま兄は先刻の男の話を始めた。東に生まれた男が物心ついた時には壁は築かれ、東と西は完全に別世界であったという。そして、そんな東が全てであった男の前に西という新世界があの日広がった。 男にとっては新世界そのものだったという。若さという武器も手伝って、故郷を捨て新世界へ旅立った。しかし、この世界に広がるのは輝ける新世界でもなければ、甘美なる楽園でもない事は誰しもが知っている事だ。 望郷の念か、現実を生きる事の辛さか、そこからの話をお決まりの苦労話と取るか、真摯に一人の男の人生の物語として捉えるかは聞き手次第と言った所だが、話の終わりに男は顔をくしゃくしゃにしながら「色んな事があったが、もうすぐ孫が産まれる」と話したという。そして、最後に 「ヴェスト、俺と一緒になって本当に良かったか?」 と、呟いた。 アンタはわざと俺を怒らせようとしているのか?この話は二十年前のあの日からしてきたじゃないか そう言いそうになり、 二十年を迎えたから、こそかー と思った。その年月を短いと取るか、長いと取るかはそれぞれであるが、自分達と違って『ヒト』は有限の時を生きる生き物だ。その一瞬を力の限り泳ぎ、もがき、駆け抜ける。それが『ヒト』の一生だ。 そんな彼等に対して自分達が何を与え、何を奪うのか? かつての王国と、また自分の積極的な意志ではないにしろ一つの国と、二度も失った経験を持つ男が考える事は自分が考えるよりも、もっと根が深く、重く、苦しいものなのかもしれない。 「良かった。その事に対して後悔はない」 きっぱりと言い放った。兄の考えが僅かだが知れた事に対しての嬉しさよりも、苛立ちの方が大きかった。 「『俺達が本当の意味で民にしてやれる事は何一つない、俺達に出来る事はただ、見守る事だけだ』そう俺に教えたのはアンタだ。俺も今それをやっと実感出来る様になった。歴史の場面で何かを変えるのは何時だって名も無い人々の力だという事を知っている筈だ。だから、俺達が出来る事は見守る事しかない、俺はそう思う」 そう、ルートビッヒは言葉を一気に吐き出しだ。半分は自分自身に言い聞かせていた。果たしてこの答えが正解なのかも分かりはしない。最善の答えだと信じたものが最悪の結果を引き起こした事は何度もある。しかし、ルートビッヒはその言葉を信じたかった。『ヒト』の力を『民』の力を信じたかった。無責任と詰られそうだが、その境地に至るまでは、この身から水も血も無くなまで彼等の為に奔走する覚悟は出来ている。 一気に言葉を吐き出した事でルートビッヒは全身がうっすら汗ばんでいる事に気が付いたと、同時に珍しく感情的な部分を晒してしまった事に若干の羞恥を覚えた。 スン…と、鼻を啜る音がする。兄が泣いているのだろうか?と、思いはしたが、違った。 「おい、ヴェスト。車、ちょっと止めてくれ」と、先刻までの話を聞いてなかったかの様な口振りで兄が言った。何時の間にか、自宅まであと僅かという距離まで来ていた。怪訝の眼差しで兄を一瞥すると、数回にブレーキを分けて踏み、静かに路肩に寄せた。 「止まってどうするんだ?」 「家まであと少しだろう、酔いを醒ましがてら歩くわ」 そう言うと、シートベルトを外し出し、その動作は的確で、もう酔いなぞはとっくに醒めているのではないかと思われた。 兄の突然の申し出に対し、やめろ、とも勝手にしろとも言い兼ねていると 「ルッツ、お前まっすぐないい男になったな」と独り言の様に呟いた。 久しぶりに愛称で呼ばれた事に瞬間鼓動が跳ねた。 「だけど、大概に盲目的で甘い」 何に対して盲目的で甘いのか?と問いたかったか、何故だか聞く事はできなかった。 暫く沈黙があったが、先程の様な重苦しいものではなかった。エンジン音だけが早鐘の様に響く。そこから伝わってくる振動すらも今は心地の良いものに感じた。降りないのか?と問うと 「ヴェスト」 と、悪巧みをする子供の様な声色で自分を呼んだ。何だ?と言う前にコートの合わせをぐっと掴まれ、助手席まで引き寄せられた。シートベルトが限界まで伸びて胸が圧迫されるーそう感じていると荒々しく唇を押しあてられた。 乾燥して酒くさいだけの兄の唇。だが、不思議と不快感はなく温かく感じた。 乱暴に手を離すとマフラーをむんずと掴み、ドアを勢い良く開け放った。 外気が一気に流れ込んで来る。 一連の出来事に対してあっけに取られていると、早く行けと言わんばかりに勢い良く扉が閉められた。年代ものなんだ、もっと丁寧に扱え、そう注意したいのを呑み込んで、ギアをローに入れ走りはじめる。 バックミラーに写る兄の姿が徐々に小さくなって行く。そして、50メートル程走った所で再び車を止めた。 とぼとぼと背を丸め、近付いてくる兄をミラーで確認する。兄も自分に気が付いているだろう。暫くして兄が追い付き 「何だよ、俺もどっかのぼっちゃんみたいに、すぐに迷子にでもなると思ってんのかよ?」 と、少し開けた窓から悪態の言葉が飛び込んできた。 「家の前で寝られちゃ、かなわんからな」 それだけ言うと、兄の歩みに合わせてのろのろと走った。 十一月のベルリンの夜風は肌に凍みる様に冷たかった。 もうすぐ、雪が降るだろう。 ---------了 ------------------------------------- ほらよ!お望みの普独で甘甘イチャ★ラブSSだぜ! 俺様の美技に酔いな! 嘘です。色々とすまんかった
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