ぼんやり日記
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2002年02月20日(水) フィギュアの泥沼

今季は五輪を見ないまま静かに終わりそうだと思っていた。
新聞でフィギュアのペアでの判定で明らかな不正があったと
北米のマスコミが騒ぎ立ち、2位となったカナダペアも
金メダル獲得となった、と知った。
そして審判の公正をはかるための協議が進められている、と。

マスコミが非難したから下位にも金メダルをすぐ与える
国際スケート連盟の措置には唖然とした。

私は問題のペア自由演技を見ていない。
でも表現力で優劣を決めるという
ばかげた種目のファンであった自分には十分想像はつく。
これまで何度も何度も疑惑のシーンを見てきた。

一番強烈だったのはモスクワ五輪での体操の
女子個人自由、床運動。
ネリー・キムはナディア・コマネチと金を競り合って
最終種目の床まで来た。
私はキムのファンでもあったから、彼女が持てる力を出し切って
“無難に”演技を終わったのを見た。
ものすごい歓声に包まれた彼女は、
勝利を勝ち取ったかのような喜びを全身にあわらしていた。
結果は10.00だった。
感激と狂喜にむせぶ群衆でいっぱいの体育館。
専門的なこともわからない素人の私はこの場面を見て
不可解でいっぱいだった。
今のが10.00の演技か?
キムは素晴らしかった。それはわかる。私も感激した。
でも満点じゃない。素人にもわかる。
コマネチがTVに映し出された。
彼女は無言だった。
どうしようもないのだ。まったく。
リトル・ミス・パーフェクトと言われた彼女は後の自伝で
表彰式に出た際、キムが「私のせいじゃないのよ」という風に
肩をすくめて見せた、と書いていた。

体操で何度も見慣れた光景。
その頃フィギュアも見始めた私は、ここはそれ以上だと感じた。
観客自体がはなっから先入観丸出しで演技を見る。
そして得点が発表されるたび不可解だらけなのだ。何故?何故?

国際スケート連盟のチンクワンタ会長が発表した採点方式の案によると
主観的な審判をせずジャンプやスピンによってあらかじめ
難易度を点数で決めておくらしい。
じゃあどんなに優雅に、どんなに美しく前後を滑っても
またジャンプを決めても点数は同じになるということだろうか。
フィギュアがフィギュアであるゆえんは主観的に美しいものを
表彰することではないのか。

それじゃ「フィギュアはアクロバットではない、禁則演技をした」
という理由で失格になった長野での(だったかな)
スリヤ・ボナリーが正しいことにならないか。
彼女がそこであえて禁じ手を行った意味を考えて欲しい。

もともと表現力を採点するという無理を承知で
スポーツと認定してやっているわけだから、矛盾や不公平感が
おきるのは当然である。
そこにつけ込む圧力というのも出てくるのは容易に想像できる。
正すべきは関わる人たちの倫理観である。
それが一番難しい事とわかっていても、改正するならそこである。
できないなら、今回のように判定を覆すのは絶対に止めて欲しい。


なんか今日は怒ってるぞ、わたし(^^;)


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