Kyoto Sanga Sketch Book
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2007年05月16日(水) 加藤久、次期社長候補(のはず)にして新総監督のこと

このテキストやページ紹介は加藤さんのフロント入りが決まった冬に少しづつ書き溜め集めたもの。
今回の加藤さんの総監督就任はどうもあまり喜ばしくない、と思ってます。
(まあ経営者になるなら、もう一度現場近くを経験するのもいいのかしらん)
いいタイミングなので、お蔵入りから引っ張り出してきました。



4,5年前のこと。
沖縄在住の友達が「ああ、あの髭のおじさんでしょ?」と答えた。
A代表戦程度しかサッカーを見ない子だったのに、彼のことは良く覚えていた。
「でも、地方の人間なんて凄いものは中央にあると思ってんのよね。
だから地方で来た時点で”凄く”なくなるんだよねえ(笑)」と笑ってました。
彼女はもともと毒舌気味の子なんで、まあ話半分で聞きましたが。。

地域リーグ、沖縄かりゆしFCの監督に加藤久さんが就任した時のことです。

が、沖縄の話は一まずおいといて。彼の足取りを集めてみました。


●子供から選手時代(インタビュー、新鮮で面白かったです)

少年時代「ペレになりたい」と願い
「釜本さんたちのようになりたい」と進学。
が、大学でのサッカーに根を上げ一ヶ月で退部、そしてすぐ復帰。
日本代表としての自覚の芽生え。
サッカーのプロ化の波の中で学生、大学助手、
そして教職員組合の仕事、協会の仕事、そして本職の現役選手と、
驚くほど多様な仕事を平行していた事。

「セカンドキャリアインタビュー加藤久」はコチラ


でも「やはりピッチの上にいるときが一番幸せでした。
勝つか負けるか分からない、どっちに転ぶか分からないという本番の緊張感が
たまらなく好きだったんです。」



●協会時代(ご存知の方は飛ばして下さい)

今の日本のサッカー育成システムの礎を築いた一人。
めんどくさい話もあって。しかし…
 
そこには、加藤の強い信念があった。
先進国の強化システムを研究してきた加藤が目指したのは、
日本代表を頂点に、しっかりとした方向性によって作られたピラミッド型の強化体制だった。
日本サッカーが目指すビジョンをはっきりと打ち立て、
その方向性の下に、ピラミッドの頂点から、
問題点が裾野に向けてフィードバックされていく。
そしてそれを受けた指導で育成された人材が
裾野からピラミッドの頂点に向けて吸い上げられていく。

そのためにこそ、各年代が世界大会で得てきたものを裾野の指導者に
伝達していく強化指導指針が必要だった。


トレセン改革などの多大な業績を残して協会職は退きます。

当時のいろいろなお話の詳しくは以下で。

①まずネット上で彼の名で出てきた仕事

・選手協会の創設
・トレセンの改革 トレセンんって何?(歴史)より
・加藤委員長の「強化委員会」が残した強化レポート
・環境の充実に向けてJクラブ下部組織のヒアリング

②そして以下は面白いけど時間がある方向け。
ここでは内部事情の実際云々より、彼の方向性や思想の一つの資料として。

WEBサッカーマガジン2002
1994→1995 「混迷」の伏線
1995→1996 予選前年の光芒、を参照

…と書いたけど、上のページ消えてました。当時の協会内のドロドロの話も惜しげもなく書いてあった。
当時の加藤さんとサッカー協会の一部との対立の話。
A代表を中心に日本のサッカーを据えたい人たちと、
世代別や各地域の下からの積み上げの結果をしてA代表があるという加藤さん、
双方の意見の食い違いが原因のような書き方。確か。
(サッカーマガジンのサイトのアーカイブとして復活するかな)



●監督時代

・1997年 ヴェルディ川崎監督(2月~6月)、
 (1stステージ16位4勝12敗 ※6月解任)
・2000年 湘南ベルマーレ監督
 (8位15勝1分17敗※前園、松原など在籍時代)

ご存知のように成績は…。テレビでの評論はおいといて、
キュウちゃんはあまり現場向きでないのは世間一般の常識。


●大学等での指導者として。著作。

母校の早稲田大学人間科学部助教授。
同じく母校でもある東工大でもその後教鞭を。

客員教授としてのプロフィール
アマゾンでの書籍




そして。

彼の最後の足取りの記事は、あの沖縄の友達の話から4年。
去年秋の記事です。協会での仕事ほど知られてないほんとに地方での話ですけど。

確かに沖縄かりゆしFC、クラブは知ってる人は知ってるようにかなり…な結末でした。
しかし、沖縄ではその後があります。

「加藤さんの責任の取り方は見事としか言いようがない」

沖縄との縁は、それで断ち切るわけにはいかなかった。
ヴィクサーレ沖縄FCで、子どもたちの指導に乗りだした。
開会中の兵庫国体で、県勢初の全国制覇を達成した少年男子メンバー16人のうち、
そのヴィクサーレからは5人が名を連ねた。会場には加藤さんの姿もあった
「才能は高く、環境が整えば、多くの人材が日本のひのき舞台に出られる」と、
沖縄の子どもたちを励まし続けた加藤さん。
国体決勝ではベンチ入りして、選手に的確な指示を出し、優勝に力を貸した

沖縄サッカー界のため、子どもたちの指導に情熱を注ぐ加藤さんの責任の取り方は、
見事としか言いようがない。


私がさつま町キャンプにいた学生服の少年のうち一人が、
そのヴィクサーレ沖縄FCの日本U16代表の選手と知ったのは、
家に帰ってとあるブログを見た時。

友人が言った「中央から来た凄いものって、中央を離れたら凄くない」という話。
どうも彼はそれを超えた存在だったのかな。実際は。

うん、「サッカー協会でのトレセン改革など名だたる仕事」も、
「サッカー後進国の地方の少年サッカーでの業績」も
私にとってはどちらも同価値だったりします。

ただ、それ以外で共通しているのは、彼の能力は実証済みながら、
けっして世渡り上手ではないこと。
ならば、協会やかりゆしなどの組織の中の軋轢の中にいるより、
自由に権限を与えた方がいいのか、実際どうなのか。
色々考えてはしまいますが。


加藤久氏、入社のお知らせ
加藤久が京都救う!経営幹部で入社 (日刊スポーツ)

「下部組織の整備など、やることは多いけれど、やりがいはある」
「まずはチームの歴史を知り、チームの発展に貢献していきたい」


京都ジュニアユースの少年たちにアイスクリームを与えながら、
今日の試合のことを聞く加藤さん。隣には学生服姿の沖縄の少年。
「腰を落ち着けて、京都でサンガで上手に暮らして欲しい」と願ってます。

 
同氏は、主にチーム強化部門に就きますが、
これまで培った同氏の経験と幅広い知識をもとにクラブの発展につとめていただきます。
トップチームに限らず、キッズ(幼児)からトップまでの強化・育成、
また地域貢献活動やファン・サポーターの拡充を目指す事業活動など、
幅広い立場での職務を担当いただきます。
また、2007年3月末に行われます弊社株主総会(予定)での承認を得て、
取締役に就任いただく予定となっております。<1月京都サンガ公式HPより>


さて、我々は加藤さんにどう仕事をしてもらう??
上野さんもだけど、皆さんよっぽど現場が好きなのか、
それともそうしないといけない差し迫った現状があるのか。。


miyako |MAILHomePage

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