HIS AND HER LOG

2008年06月03日(火) 脇のナイフ

「…なに言ってるんだよ、お前」

後ろでイギリスの声が小さく響くのを、アリシアは認識していた。
しかし、それに衝動を止める力はなかった。
その時、、誰の声も、そうだったに違いなかった。
アリシアに見下ろされたまま、傷だらけの青白い顔で彼女を見つめるその男以外は。
だが、夜の色をした大きな瞳でアリシアをとらえる彼は、音を発しない。

「死になさい、今、ここで舌を噛み切って。日本、あなたはここで死ぬべきよ」

今度はもっと強い調子をもって、その言葉がベッドの上の日本に降りかかった。
長い戦争で傷を負い、先程やっと意識を回復したばかりの日本のいささか朦朧とした頭には、彼女の言葉がぐるぐると渦巻く。
それはアリシアの瞳の色をした大渦に乗って脳の全体を侵していく。
その通りかもしれない、と彼は思った。
多くの人間と国を傷つけた自分への、全てを、彼女までもを裏切った自分への、それは罰なのかと。

しかし、日本は何も出来なかった。
反駁することも、許しを乞うことも、舌を噛み切って死ぬことも。
病み上がりの身体がそれを遮ったのではなかった。
もはや日本にはその権限がなかったのだ。
意識世界を抜け出して身体に戻ってきた彼の魂は、「その瞳」を見た瞬間から既に彼女のものであった。
海の色をした青い瞳。
彼の愛した、アリシアの瞳。
ゆらゆらとたゆたう日本の意識は、その瞳が何を語るのかを読み取ることが出来ずにいた。
怒りか、悲しみか、それともまだ、この出逢いを喜んでくれるのだろうか。
ぼうっとしたまま、金縛りのように日本は身体と心の動きを止める。

「おい、アリシア」
「…出来ないの?なら…」

動きを見せない日本から目を離さないまま、アリシアは自分の腰元に手を伸ばす。
そこに収められていた護身用のナイフがするりと姿を現し、ギラリと鈍い光を反射させる。

「アリシア、やめろ」

イギリスは動揺を隠さない口調でアリシアを呼ぶ。
震えた声は、驚いているからなのか、畏怖しているからなのか。
しかしどうして、彼の身体は彼女の動きを止めようとはしない。
その足の裏が、まるで接着剤か何かで冷たい床にくっつけられているようだと、彼は思った。
宙に浮いた腕も、手も、その指の1本さえ、彼女に触れることは出来なかった。
何故か、と考える暇もない。
それはたった数秒の出来事だったのだから。

「なら、私が」
「やめろ」

そう、たった一瞬の。

「私が殺すわ!」
「殺すな、アリシア!」

ザクッ。
狭い病室に2つの声が高らかに響き渡るのとほぼ同時に、アリシアの刃が何かを裂く音がした。
振り下ろされた刃の先は、横たわる日本の右の腕と腹の間の小さなすき間を通って、白いシーツとマットを貫いた。
彼に覆いかぶさるような格好になった、ナイフの柄を強く握ったままのアリシアの柔らかい金髪が、手術着と包帯の白に隠された彼の新しい傷に降り注いだ。
そのまま数秒、誰も身動きをしなかった。
「刺された」日本も、アリシアも、それをただ黙って見つめるイギリスも。
アリシアが、ベッドに深く刺さったナイフの柄から手を離し、立ち上がるその時まで。

くるりと日本に背を向けた彼女と一瞬目が遭って、イギリスは正気を取り戻した。
同じ色をした瞳は氷のようであり、炎のようであった。
ふ、と目を逸らしたのはアリシアの方で、彼はそれが何だか悲しい気がしてならなかった。
アリシア、と彼女に掛けるはずの声を失ってしまったのはその所為だったかもしれない。

「あなたは、今一度死んだ」

アリシアが唐突に放ったその言葉は、傍に立つ自分ではなく、背を向けた黒髪の男に言っているのだと、イギリスは瞬時に悟った。

「今、私に殺され死んだ。これから生まれ変わった新たな国として生きなさい」

「それが償い」、と聞こえたような気がして、日本は身体が熱くなった。
その時すでに彼の支配権は彼の脳に戻っていて、背を向けたアリシアの金色の髪がひどく美しく、また残酷に見えて仕方がなかった。

「イギリス、私帰るわ。気分が悪いから」

そう言って、アリシアは勝手に歩を進める。

「あ、ああ」

イギリスに言えたのはこの一言だけであった。
その返事を待つと待たずと、彼女はやはり白い病室のドアを抜け、その向こう側に消えて行った。

ガラガラと音を立ててゆっくり閉じていくドアの向こうで、その瞳が何かを耐えるようにゆらめくのを、残された彼らが知ることはない。
ただ、日本だけはそれが彼女の激情であるのだと推測し、ベッドを貫いたままのナイフを抜くこともせず、呆然と立ち尽くすイギリスの目の前で声を殺して泣いたのだった。


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