「細川」
彼女は彼のことをそう呼ぶ。彼の周りで同じように彼を呼ぶ人間は教師くらいのものだったから、同じ高校生の、それも普段あまり接することのない女子にそう呼ばれるのは、何となく新鮮な気持ちがしていた。確かに、彼女の方が1つ年齢が上回っていて、正式に雇われている訳ではないけれどトレーナーとして部活に参加しているから、それは全く不自然と言うことはないのだろうけれど。
「・・・ども」 「まだやってんの」 「はは、何か体動かしときたくって」 「今日のメニュー消化してんでしょ、雲水じゃあるまいし」 「や、見習おうかなとおもって、雲水さんを」 「何で?」 「オレ、怠けてたつもりはないんスけど、鬼頑張ってた訳じゃない気もして」 「ふーん?」 「次は、負けたくないから」
泥門戦のことを言っているのだ、と小夜は思った。長く天才と呼ばれた彼と、それを負かしたアメフト歴1年足らずの男。あの時、天才細川一休が雷門太郎に負けたあの時、足りなかったのは何だったろう。アメフトへの情熱か、ボールへの執念か、それとも実力か、運か。負けた一休自身は、それは実力の差なのだと思っていた。というよりも、全てが実力で決まるその世界において、それだけで伸し上がってきた彼が、他の要素を原因に見立てることなんて出来るはずがなかったのである。しかし、小夜はそれだけではない、と思っていた。才能を持つ者として常に人に観られ、自らもそれを自負してきた彼のプレイは、非常に精錬され、整ったものであることを彼女は知っていた。彼は、同じ天才である金剛阿含もそうであるが、彼らは、「無駄に足掻く」ことを知らない。他人のそれを目に映したことはあっても、自身の肉体、精神において体感したことがないだ。それが「無駄」だからである。それ故に、彼らは雷門や十文字の「最後の足掻き」を予想出来ず、目の前にいながらにしてタッチダウンを止めることが出来なかった。それは天才である彼らの数少ない弊害であり、それを経験不足の中に含めてしまうのならば、やはり一休の敗北は彼の思う通り実力不足によるのかもしれない。
小夜は座禅の間で同じくトレーニングを続ける男のことを頭に浮かべ、ふう、とため息を吐いた。
「本当は早く鍵閉めちゃいたいんだけど、まだ他にも残ってるみたいだし、10時までなら付き合ったげる」 「え、マジスか!」 「私は重いわよ、筋肉ついてるから!」
に、と笑いながら、小夜は腕立て伏せをする一休の背に片足を乗せる。一休は足の動きに沿って短いスカートが揺れるのを後ろ目に感じながら、そういえば彼女が短パンをいつも仕込んでいるのを思い出し、煩悩退散と念じて彼女が完全に乗り切るのを待った。背中に圧し掛かる、泥門の正トレーナーである彼女の体重分の重みは、同じ泥門の選手に負けた自分には丁度いい負荷かもしれない。一休はそう感じ、小夜の全体重が自分に掛かるのを知ったのち、また腕立て伏せを始めた。
「小夜さん、本当に鬼重いッスねー」 「うっさいチビ」
鍛え方が違うんだよ、と小夜は毒づいて、一休の髪を強く引いた。イテッ、という声と共に崩れ落ちる彼を下にしながら、まだまだしごきがいがあるな、と胸の内で呟くのだった。
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