KENの日記
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2017年03月10日(金) コルべ神父のこと

コルベ神父の紹介(聖母の騎士修道院パンフレット等から抜粋)

コルベ神父はポーランドのユダヤ人の家庭に生まれました。キリスト教を広めるために1930年4月24日に長崎に上陸しました。上陸一か月後に布教のため月刊誌「聖母の騎士」を創刊しました。その後一年間は仮修道院として大浦天主堂下の「旧雨森病院跡」を拠点として布教活動をし、1931年5月に長崎市本河内の英彦山麓に「聖母の騎士修道院」を開きました。コルベ神父はその後6年間結核と清貧に耐えながら出版・布教に尽力されました。

1936年会議のためにポーランドに帰国した神父は母国の「ニエポカラヌフ修道院」の院長に選ばれました。神父の心は常に殉教者の国「日本」に向いていましたが再び日本に帰ることはできませんでした。やがて第二次世界大戦が勃発し1941年2月17日に神父はゲシュタポに連行されました。そしてアウシュビッツ収容所に送られたのでした。

1941年7月末に神父の収容されている棟で脱走事件が起こり、「見せしめ」のために同じ棟の中の10人が処刑されることになってしまいました。その10人の中に故郷に妻子を持つポーランド軍軍曹の「フランシスコ・ガヨヴィニチェク」がいて自分を外してくれるよう泣いて嘆願しました。これを見ていたコルベ神父は彼の代わりに自分が10人の中に加わることを名乗り出たのでした。

コルベ神父は他の9人とともに<死の地下室>と呼ばれる餓死監房に入れられたのでした。2週間後の8月14日神父は残っていた他の4人とともに毒薬注射により殺害されたのでした。ローマ法王庁は1971年にコルベ神父を「福者」に、そして1982年には「聖者」の列に加えその遺徳を称えました。

ということですが、今日は大浦天主堂下にある「聖コルベ館」に行ってきました。聖コルベ館はグラバー通りから少し入った一見何の変哲もないお土産屋さんの奥にありました。店の奥の扉の向こうに「コルベ神父」が日本に来てから1年程暮らした家の「暖炉」が保存されていました。(聖コルベ館)


聖コルべ館の紹介(館主嵩山郁子さんの話から)

コルベ神父が日本にきて最初の一年間程を過ごしたのが、大浦天主堂からグラバー通りから少し下った左側にあった大きな洋館(南山手10番館)でした。この洋館は隣の雨森病院(南山手12番館)の所有で当時空き家となっていたようです。「聖母の騎士」教会は長崎市郊外の本河内に場所を得てそこに本格的な修道院を建築し現在に至っています。

話は戦後に飛びます。戦争末期の長崎原爆投下で長崎市は甚大な被害を受けました。当時既に長崎市内には老朽化してしまった洋館が多数ありましたが、古い洋館の修復は二の次で、当然ですが長崎市民の生活基盤の復興が優先されました。そんな中戦後の税制改革によって大浦天主堂下に広大な敷地を有していた雨森家では広大な敷地を経営するこができなくなり、止む無く無人となっていた南山手10番の土地・洋館を政府に物納しました。

昭和22年その「土地・建物」を政府から購入したのが「嵩山雄太郎氏」でした。嵩山氏はその洋館を建坪120坪洋館をアパート兼住宅としました。嵩山氏はその住宅兼アパートにかつて仮修道院がおかれていたことを認識していたようです。「聖母の騎士」教会とは頻繁な交流があったようで、長女の郁子さん(現館長)は、小さいころに「神父さん」方がやってきて腰に綺麗な布を垂らしていたことを覚えているそうです。

こうして「コルベ神父」も暖を取られたと想定される「暖炉」は嵩山家の居間に鎮座することとなりました。ところがその30年後の昭和53年4月14日、隣の三上工作所で火災が発生し、火は嵩山アパートをも襲うこととなりました。この火災により洋館はほぼ全焼してしまい、建物中心部にあった「暖炉」だけが燃え後に聳えるといった光景を作り出してしまったのでした。

不運なことは重なるもので、雄太郎氏が掛けていた洋館の火災保険は前年12月末で切れていたのでした。雄太郎氏は店子の面倒を見ることを優先したようで、嵩山家は建て直しもままならないまま数年間焼残った建物の一部で暮らすことになってしまったようです。この火災は嵩山家の生活を一変させてしまったのでした。

1981年(昭和56年)3月そのような状況下にある嵩山家を訪れたのが当時「女の一生」でコルベ神父のことを小説書く準備をしていた「遠藤周作氏」でした。遠藤周作は1977年にアウシュビッツを訪問しコルベ神父のことが頭から離れない状態だったと想像されます。焼け跡に残された「暖炉」をみた遠藤は嵩山雄太郎氏に次のように語ったのでした。

「大浦天主堂にはたくさんの修学旅行生が来ますね。100人いたとしたら98人は他のことを考えても1人か2人の学生はコルベ神父の話を聞いて感動するかもしれない。何とか暖炉を保存して見学のコースにしてほしい」」この遠藤周作の励ましから嵩山雄太郎氏そしてそのご家族の格闘が始まりました。

嵩山家はその後焼け跡に残った暖炉(煉瓦の塊)を数メートル移動して焼け跡地を整理し上階にペンションを設えた住宅を建設しました。しかし暖炉は屋外に置かれたままの状態でした。嵩山雄太郎しは1991年に亡くなりますが、寄付を募った結果漸く1996年「暖炉」を収容する「記念館」が完成し、住宅の建物のコンクリートの壁を壊して通路を設け記念館は住宅と一体となったのでした(長崎市の建築許可はなかなか下りなかったとのことです)。

これが現在の「聖コルべ館」です。クリスチャンでもない嵩山郁子さんは毎日「聖コルベ館」を守りながら、コルベ神父・キリスト教に関するショップを運営されているのです。1996年9月に亡くなった遠藤周作氏は残念ながら「聖コルベ記念館」を訪れることはできませんでした。

私が嵩山郁子さんからお話を聞いている間中ショップには全く客は来ませんでした。遠藤周作が願ったように「100人の中の一人二人」にも達していないような感じではありました。私より二歳ほど年上の「嵩山郁子さん」は大変お元気です。遠藤周作氏と出会った嵩山家の人達は、お金では買えない豊かな生活を送っているように見えます。




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