KENの日記
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2016年12月10日(土) ステッセル上陸の地

長崎市街地の西側には稲佐山があります。頂上からの湾を挟んで見える長崎市内の夜景は世界3大夜景の一つだとして観光名物の一つになっています。この稲佐山の麓に嘗てロシア人街がありました。幕末ロシアから日露戦争開戦までの間長崎はロシア極東艦隊の越冬地として役割を果たし、西欧外国人街・中華街のある長崎市街地の反対側にある「稲佐地区」にロシア軍人の生活拠点が築かれました。

この稲佐の街に日路戦争の旅順軍港攻防戦で乃木対象率いる日本第三軍に敗れたステッセル旅順要塞司令官の上陸記念碑が建てられています。以前大連・旅順を旅行した際に203高地に登り、旅順港攻防戦の現場を回り、水師営の「乃木・ステッセル面会場所」だという小屋も見学しました。その一方の主役ステッセルの足跡が長崎にあろうとは思いませんでした。



ステッセルは1904年(明治37年)12月31日旅順港攻防戦でロシア軍の負けを認め降伏を申し出ました。年が明けて1905年1月2日に旅順軍港攻防戦の停戦条約が締結されました。そして1月5日には水師営でステッセルと乃木大将の歴史に残る会見が行われたのでした。

そのあと敗軍の将ステッセルは1月11日に旅順を出発してロシアに戻ることになります。1月14日に経由地の長崎に到着するとヨーロッパに向かうフランス郵便船の出発は17日ということなので3日間長崎に滞在することとなりました。ステッセル夫婦とその子供三人は14日に長崎の稲佐に上陸し「道永ゑい」経営のホテルに宿泊することとなりました。この「道永ゑい」こそ海軍越冬のためにやってきたロシア軍人を相手にレストラン・ホテルを経営して喜ばれた長崎の女傑なのです。ステッセルとその家族は束の間の日本滞在を終えてロシアに帰っていきました。故国ロシアでは1月9日に「血の日曜日事件」が勃発しロシア革命への動きが始まっていました




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