東京ジの川相の犠打世界記録は、 「バントの技術の高さと打力とチーム(監督)の戦術上の 位置づけ」のバランスによるものでしょう。
2塁にランナーを送れば得点につながっていく打線と、 それなりに点を取ればゲームが作れる投手力を 90年代の東京ジは持っていました。
通算犠打10傑を見てみると、さすがに典型的な2番打者 (2位平野(名古屋・所沢・千葉)4位新井(大阪ホ・大阪バ)、 5位正田(広島)などが並んでいますが、年とともにバントでは なく出塁に求められるようなポジションに変化している選手も多いです。 10位の大石(大阪バ)も出塁→盗塁が期待されるようになった 選手でしょう。世界記録・1000盗塁を達成したころの福本(西宮ブ) を抑えて盗塁王になったことが恐ろしくインパクトを持ったものだと 思えます。 6位の吉田(西宮タ)もバントの名手にして、三振の恐ろしく 少ない選手だったそうですが、それだけに犠打だけに 限らないバリエーションのある打撃が求められたのでしょう。 3位の伊東(所沢)は8番という打順でコレほどまでにバントの サインがだされるというのも今思えば不思議に思います。それだけ、 9番田辺から上位への流れが強力で、そこに黄金時代の所沢打線の 秘密があったのかもしれません。
今のプロ野球では、少ない得点を守りきるようなレベルの高い 投手陣はなかなか編成できるものではありませんし、それだけに 勝つためにもある程度の得点力を得ようと思えば2番はバントだけ でもやっていけません。 そういえば、東京フは2番金子の時は決まってバントだったのが、 2番小笠原になったときに「バントをしない2番打者」でした から・・・
まあ、川相が安心してバントのサインが出せるだけの安定した技術を もった選手であるのはいうまでもないのですが、バントのサインを 長年出され続けるだけの「めぐりあわせ」を持っていたのでしょう。
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