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兄。 | 2006年08月03日(木) |
「……あなた」 人目もはばからず、ぐすぐすと鼻を鳴らす妻がそっと彼に寄り添う。 小さな手が腕に絡んできたが、普段なら振り払うであろうそれを好きにさせたまま、彼は視線を前に戻した。 真白い棺は、雲ひとつない青空のもとでは少々眩しい。 「いい加減に泣き止め。みっともない」 「……でも、おにいさまがこんなに早く、亡くなる、なん、て」 しゃくり上げる彼女の頭を乱暴に撫で、彼は溜息をついた。 「気にするな。むしろあの歳まで生きていたことの方が奇跡に近いんだ」 兄はひどく病弱だった。 成人する頃には何とか落ち着いた様子を見せていたが、幼い頃には死線をさまようことなどしょっちゅうで、いつも王宮がばたばたしていたことを覚えている。その度に、母が呪うような唸り声を上げて兄のいる宮の方を睨んでいたことも、きっと死ぬまで忘れないのだろう。 「……わたし、まだ信じられませんの」 繋いだ手を握り締め、彼女はそっと呟く。 「数日前まであんなに元気でいらしたのに」 「全くだ。殺しても死ななそうなくせに」 実際、嫌になるほどしぶとい男だった。刃向かう者は例外なく叩き潰し、或いは窮地を逆に利用して、あっという間に上り詰めるところまで上り詰めた。彼など足元にも及ばぬ回転の速い頭脳と行動力の持ち主だった。 あんなのが兄のせいで、弟である彼には世を儚みたくなるほどの重圧がのしかかってきたことを彼はきっと知らなかっただろう。知ったところでそれがどうしたと切って捨てそうではあるが。 敵には全く容赦はしないくせに、一度懐に入れた相手に対してはひどく優しかったのも兄の特徴だった。しかしそれが分かりにくすぎて相手に中々伝わらないのはどうかと思う。器用なくせにそんなところばかりが不器用だった。 あまりに偉大で、そして最悪の、敬愛すべき兄。 「……あんなに傲慢な性格をしているくせに嫌いになりきれないところが嫌いだったな」 「あなた、おにいさま大好きですものね」 ふふ、と小さく笑う妻がひどくしゃくに触って、彼はその頭を軽く小突いた。 「だから嫌いだと言っているだろう」 「あら、わたし知ってますのよ。あなたのスケッチブックの三分の一はおにいさまに関連するものでしょう」 「つまらない冗談を言うな」 「事実でしてよ。帰ったら数えてご覧になるといいわ」 棺が埋められていく。 兄はもういない。 全てを見透かすようなあの眼も、自在に駒を動かすあの手も、もうないのだ。 言い知れぬ不安に、彼は顔をしかめて棺を見つめていた。 ****** なんだかんだでブラコンだなこいつ。兄貴を美化しすぎです。 |