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こんばんわ。ゆみなです。
あゆも書いていたことだが、私もいつも思っていた。 どうして挨拶だけ「ですます調」になってしまうのだろうか、と。 るるのように本文も変わらない文体なら違和感ないのだろうが、 私やあゆのように本題に入ると、いきなりオヤジ口調になる者たちにとって、「ですます調」からの転換がうまく図れないのだ。 なら、ずっと「ですます調」でいけばいいだろう。と、どうせ他人事と思ってる人たちは言うかもしれないが、 それが出来たら私は今頃宮内庁のHPで日記を書いていただろう。 それなら、挨拶も「である調」で行けばいいのでは?と、どうせ今晩のおかずは大したものがなかったと思ってる人たちは言うかもしれないが、 こんばんわ。ゆみなである。 が自然な挨拶だと受け取ってくれる人が何人いるか疑わしいものだ。 それでなくてもあゆやるるは疑い深い性格なのだ。 いっそ、「ですます調」も「である調」もなくして、 こんばんわ。ゆみな。 にしてみたらどうかと今ふと思ったが、これじゃ私が自分に肥えかけてるようなのでおかしい。 「肥えかけてる」ではない。「声かけてる」だ。 自分の日記のつまらなさの敗因は挨拶文から本文への移行の段階での不自然さにあったのだと、昨日のあゆの日記を読んで解明された。 そこで私は考えた。 どうせ不自然なのなら、思い切ってとことん不自然にしてしまうのも一つの作戦かもしれない。 つまり整体のように、痛い部分により強い衝撃を与えて最初の痛みを感じさせなくする方法だ。 思えば、この作戦を私はあらゆるところで実行していた。 たとえば競馬で、前レースの負け分よりも、より多くのお金を次のレースにつぎ込んでいたので前レースの負け分が可愛いもんだと思えたもんだし、 ダンナの顔を見る前には必ずピカソの絵を凝視してから見るように心がけていた。 この作戦は人間の心理の盲点をついた奇抜な発想といえる。 この理論を挨拶文に応用すると、 こんばんわ。るるです。とか、 こんばんわ。あゆです。 が一番不自然ではあるが、これでは挨拶になっていない上に、私がずっとサボり続けてるという逆効果を生み出す可能性がある。 あゆもるるも使えないとなると、 こんばんわ。マントヒヒです。とか こんばんわ。ザイール人です。 という方法もあるが、マントヒヒ語もザイール語も使えない私にとってこの作戦が有効とは考えにくい。 やはり挨拶である以上、自分の名は名乗らなければならない。 そこで私が考えに考え抜いた結果、最良の挨拶を思いついた。 こんばんわ。ゆみなでござる。
rya
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