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題名、何も思い浮かびませんでした。こんばんは。あゆです。
なんだかなあ。 ゆみな、今日から北海道だって? いいなあ。生まれ故郷が北海道で。 何回も口実つけて行けるからなあ・・。 ってそういうことじゃないですね。 でも前回のように法事という名の飲み会ではなくて、 故郷に錦のゴルフ旅行であることを堂々と明言していて 男らしさ復活ってとこでしょうか。 しかし、一昨日昨日と血のつながらない身内との関係の難しさを物語る、 現代の社会生活において避けられない問題に真っ向から取り組む社会派日記の「りゃ!」らしい内容でしたね。 何か悪いことがあると人のせいにし、 いいことは全部自分のおかげ・・・ そんな義母ちんを持つるる。 私にも別居とはいえ「こにくらじじい」こと義父が同じような性格なのでよくわかります。 そしてゆみなの義妹の「あの目」。 な〜んか心当たりがあるんだよなあ・・。 一家団欒の時に一人読書。 笑いに関する視点。 いるんだよなあ。私の身内にも・・・。 兄の嫁だ。 この人と同級生だとしても絶対友達にはならないタイプだなと常々思っていた。 そして、おやつを子供が食べると鬼のように怒る。 これもどっかに同じようなやつがいたよなあ。 身内だと思うけど誰だったけかなあ。 ううううううん・・・・。 あっ!!! あああああ思い出したっ! 旦那だ。 血のつながってない身内で一番やっかいな関係だからなあ。 ここまで読んで 「何が敬老の日に関係してるのか」とお思いでしょうが、 私は、「やっかい」と言う言葉を聞くと祖母を思い出すもんで・・・。 離れて住んでた祖母が ウチに泊まりに来るたびに 岡山弁で「ごやっけぇになります」って言ってたからだなんだけど。 祖母は泊まりにくると、いつも寝る前に布団の中で昔話をしてくれた。 だから私は、祖母が来ると一緒に寝ようとねだっていた。 内容は忘れてしまったけれど私が一番好きで、何回も何回もリクエストしていたのは 「屁こきじじい」の話だった。 逆に 私たちが祖母のところに遊びにいくたびに 「バナ」を用意して待っていてくれた。 「バナナ」のことを祖母はそう言っていたのだ。 それは時に真っ黒になっていたけれど 甘くて美味しかった。 父の仕事の関係で 小学校3年のときから中2まで一緒に住んだ。 そのころはもう、昔話をねだる私ではなかった。 反抗期の私はあまり祖母と関わることをしなかった。 むしろうっとうしがっていたかもしれない。 そして再び、社会人になってから祖母のウチに引越ししたときには その頃祖母は入院加療が必要になっていて既に病院にいた。 やがて、兄が結婚することになって、 祖母は車椅子で出席した。 祖母は元気な声で 「ひ孫を楽しみにしとります。」とみんなの前で挨拶した。 しかし、その二年後の私の結婚式には もう出席してもらえる体力はなかった。 結婚式の写真を見てもらいに 祖母のいる病院を訪れたが 祖母はちょっとさびしそうに「おめでとう」と言ってくれた。 長女が生まれて、祖母に顔を見てもらいに行ったときは そっと抱っこしてくれて 「私の顔を見ておそれるかと(怖がるかと)思うたけど おそれんかったなあ」 と嬉しそうだった。 次女が生まれた。 笑った顔が祖母にそっくりだった。 たまにしか顔を見せられないけれど 祖母は病院に見舞う私たちを喜んで迎えてくれた。 ある年のゴールデンウィーク、実家に帰ったとき 祖母が退院してウチで療養していた。 どうしてもウチに帰りたいと言い張ったそうだ。 私はそれまで実家に帰ったとき料理は母任せだったのだが(←不孝娘) ゴールデンウィークの最終日、私がカレーを作ることにした。 祖母はおいしそうにそれを食べてくれた。 そして私たちは大阪に戻った。 それから何日かして 祖母が亡くなったと母から電話があった。 布団の中で聞いた昔話 せっかく一緒に住めたのに思春期に冷たくしたこと おそらく最初で最後の私の手料理のカレーを食べてもらえたこと いろんなことが交錯して電話口で私は泣いた。 その年のお盆。 岡山に帰省する途中 高速道路を走っていると 前を走っていた車がスピードの出しすぎで いきなり後ろにスピンしてきた。 車間距離はあったが、確実に巻き込まれるだろうと思った。 その車はウチの車の後部をかすめて後方に流れていってガードレールにぶつかる自損事故で済んだ。 私たちは無事だった。 なんとなく祖母が助けてくれたような気がした。 今年祖母の13回忌の法事だった。 月日が流れるのは早いなあ。 母もだれがどう言おうとおばあちゃんだし 「屁こきじじい」の話が好きだった私はおばさんだ。 今でも「屁話」はよくするけれど。しかもオリジナルだし。 いけねえ感傷的になっちまった。 何となく祖母のことを書きたくなったんで・・・ごめんなさい。
rya
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