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2002年04月15日(月)
本とのつきあい

阿刀田高のこんな文章があった。

小説家として、

──あと何年、この仕事をやれるかなあ──

命の長さも考慮して、15年足らずと予測する。そのうえで書棚をながめて、

──その15年のあいだ絶対に手を触れないな──

と見当のつく本が意外とたくさん並んでいる。

決心をして、そういう本はどんどん処分することにした。どんなにりっぱな本でも生きているうちに利用できなければ意味がない。

蔵書というものは(図書館員のころに勉強した知識なのだが)個人の記憶だけでスムーズに利用できるのは、背中がすっかり見える状態にしておいて、5千点から8千点くらいまで。それを越えると、

──あの本、どこへいったろう──

イライラしながら探して結局見つからないケースが多くなる。利用しないとわかるものは早く処分して、利用しやすい書棚を作るほうがいい。

個人全集のたぐいもほとんどそろえない。必要なときは自転車に乗って近所の図書館へ行く。荻窪図書館の分館で、ここ事態は蔵書が乏しいけれど、パソコンで本館等に問い合わせ、行く実には分館のカウンターに届く。このシステムはいろいろな本に適用できるが、とくに全集については、

──えーと、サルトルの「嘔吐」が読みたい──

百パーセント見ることができる。全集になるような作家なら本館が必ずそろえているし、大部の全集を私が持つことはない。本は大好きだが本当にすきなのは姿形ではなく、中身である。女性の場合と少しちがう、かな。

<阿刀田高(作家)─朝日新聞>


阿刀田氏の言うことはもっともだし、無料で貸してくれる図書館を利用しない手はない。・・・とは思うが、私の場合はだめだ。本の姿形も大変重要度が高いし、気にいった本は、たとえ二度と開かないと思っても、手元に置いておきたい。独り占めしたいのだ。

それに図書館の本は、なるべく考えないようにはしているのだが、どこの誰が触ったかわからないし、トイレに行って手を洗わずに読んだかもしれないし、指をなめながらページをめくったかもしれないなどと思うと、あまりいい気分で読めない。

家に数千冊も本があるわけではないけれど、たぶん死ぬまでに開くことのない本も多いだろう。しかしそれが無駄であるとは私は思わない。本を所有していることで、少なくともその本のことを一度は考えている。目に見えるところにあれば、何度か考える。その本に思いを寄せたということが、私には思い出になり、大事なことなのだ。読まなければ無意味というわけではない。

また装丁にこだわるのは、読んでいるときに気にいった装丁のほうが、やっぱり気分がいいし、本棚に並んでいるときにも美しい眺めになるからだ。これは重要なことだ。生活の中に気にいらないものがあることは、生活美術的には非常に不愉快なのだ。
それでなくてはだめだということではない。どうせ買うなら気にいった装丁のほうがいいし、私の場合は、装丁に惹かれて中身を読むという動機もありうるため、本の姿形は大きな問題でもある。身近に置いておく本であるなら、なおさらのことである。布団の中にまで持ち込むわけだから、気にいらない装丁でいいわけがない。

と、まあこれはちょっと大げさでもあるのだけれど、つい金額的に安いほうをかってしまったが、結局最初に気に入った高いほうがどうしても忘れられず、もう一度買うという羽目にも陥ったりすることを考えると、中身さえよければいいということでもないのだ。調べものなどなら、大いに図書館を利用すればいいと思うが、自分の蔵書(というほどのものでもないが)となれば、話は違う。自分の手垢以外は、つけたくないと思う。


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