この前、
『ホモ・ルーデヒンス』(ホイジンガ著)を再読していたら、恋人サマへ贈りたい文を発見♪今年も神聖な真面目さの中で遊びましょう、その方が楽しいし♪ということで、以下、年末にプレゼントしてくれた
『海からの贈りもの』と
"The Sea Around Us"のお返しに、恋人サマに捧げまする。
(略)遊び―真面目という対照関係は、いつも流動的である。遊びの劣等性は、それに対応する真面目の優越性と絶えず境を接していて、遊びは真面目に転換し、真面目は遊びに変化する。遊びが真面目を俗界に置き去りにして、美と聖のはるかな高みに翔けのぼってゆくことさえあり得ないわけではない。
(略)子供は完全な真面目さ(これを神聖な真面目さ、と言っても少しも間違いではないが)の中で遊んでいる。(略)人間は子供のうちは楽しみのために遊び、真面目な人生の中に立てば、休養、レクリエーションのために遊ぶ。しかし、それよりもっと高いところで遊ぶこともできるのだ。
(略)もう一度強調しておきたいのは、本当の、自発的な遊びの心でさえも、深い真面目さの中に沈潜したものでありうるという、そのことである。遊んでいる人は、その全身全霊をそこに捧げる。
『ホモ・ルーデヒンス』(ホイジンガ著)、31−58pより引用。
《注》ちなみに、著者のホイジンガ自身は、本書のなかで、恋愛や愛情関係は「遊び」ではないという立場を採用しているのですが、これは勝手に推測するに当時の社会の風潮や、宗教的論争を避ける意味合いがあったのかもしれませんです、はい。
というか、現代でさえも、恋愛や愛情関係は「真面目」であることが良しとされている風潮もあるのですが、皆様もよくご存知の通り、「真面目」を強調しすぎるのもまた心象的に不自由だというのも事実ですよね、ふむ。。
そしてまた上の引用にあるとおり、
「遊び―真面目という対照関係は、いつも流動的である」も事実であるワケです、はい。
ということで、私は、「流動的な心」というモノを前提とした上で、“現代の”恋愛や愛情関係においては、ホイジンガ自身が記している通り
「本当の、自発的な遊びの心でさえも、深い真面目さの中に沈潜したものでありうるという、そのことである。遊んでいる人は、その全身全霊をそこに捧げる」という心の置き方は、人間関係にも当てはまるように思った、ワケなのであるよ。
まぁ、私自身がしんみりした人間関係を好まないというのもあるけど、要するに、思いっきり遊んでいる瞬間って、実はすごく真面目だってことだと思うのである。
というか、この本は文庫でなおかつ名著なので、私のくだらない解釈読むよりは、「遊び」というものを一度深く考えてみたいのならばこの本自体を読むことをオススメします、はい(苦笑)♪
★画像はDALIのUntitled (Landscape with Butterflies), circa, 1956
http://dali.karelia.ru/html/dali.htm