そういえばこの前(7月13日頃。)、『落下する夕方』江国香織著を読んだので、以下思ったことを少しほざいておきますです。
江国香織さんの作品をまともに読んだのはこれが初めてで(確か『冷静と情熱あいだ』は読んだはず。)、おそらくまともに読んだからこそなのだろうけれど、いろいろな意味で驚いた。恋愛小説というと山田詠美氏以外の作家のものは読まずに何年も過ごしてきてしまったのであるが、それがちと悔やまれました、はい。。
まず、売れる理由がすとんとわかった。おそらくこの方は親切かつ冷静な書き手なのかもしれない。言葉と言葉のあいだの音階が粗すぎないし(量を書いている方はそういう傾向があるように思う。)、かと言って、詰まり過ぎているわけでもなく。基本をきちんと押さえた上で、その枠からはみ出してしまったのがその人の個性、というオーソドックスかつ最強のパターンを律儀に守っている書き手のように思われた。
この作品は、微妙に風変わりな世界観を提示しようという意図が表向きにはまったく感じられない作品で、非常に「自然」な感じがした。相手を「愛している」が故に「現実がどんどん奇妙にねじれていく」(逆に言えば、「現実がどんどん奇妙にねじれていく」のを許してしまう程に「愛している」ともいえる)というよくあるストーリーなのに、すごく個性的な作品でありました、はい。
で、江國香織氏の小説全体の感想を一言で言えば「適正」。配分も配置も層も読後感すべてがすべて「適正」。これに尽きるかも。この意味では江國氏は紛れもなく職人であり、江國氏はよく「食べ物」を物語で描くらしいけれども、まさに(小説の)料理が上手な人という感じ。
おなか空いたー。と思ったその時に、お財布を持って外に出るでもなく、かといって何かを買い出しに行くのでもなく、今ここにある材料で、なぜか美味しい料理をつくれる人。(味噌汁とかじゃなくて、カジュアル・フレンチという感じ。)非常に便利で利用されやすくて重宝されて、だからこそ末永く愛される。この人がいたほうがいろいろと良さそう。もしかすると、途中途中で邪険にされるかもしれないけれど、ふとこの人がいなくなった時、ああ、あの人って、実はすごく存在感のあった人なんだなぁ、と思わずにいられないような、そういう感じの作家なのかもしれないなぁ、と思いました、はい。
ページを捲っていたときは、なぜこの世界が世界として成立していられるのか?というのが一番不思議で、どこに「釘」が打ってあるのかをずっと探していたけれど、結局、「釘」はなかった。でも家は建ってる。うーん。この人は建築家でも鉄筋工でもとび職でもなく、「宮大工」なんだろうなぁ、きっと。