ふと、あのお客さん、どうしているのだろうと思う。「僕はね、あまりにも早くオトナになりすぎてしまった」とひどく疲れた口調でつぶやいた、「だからね、今やっとコドモの時間を取り戻しているかもしれない」と言った当時30歳だったあの客は。などと、時々ホステス時代に出会った人たちが脳裏に浮かぶ。のだけれど、そうやって思い出すのは働く男たちが持つほろ苦い心の内に関するのものばかり。それは何故なのだろうと思う。
などど、思考が7、8年前まで遡った。今26歳目前の自分がら見ると、18、19だった私はずいぶんオトナだったなあと思う。それに比して今はずいぶんコドモだなぁと・・・。まぁ、老成してたってことですな。わかる人にはわかると思うけれど、18とか19の女子って残酷に老成してるんだよね。(→だからこそ男はだまされるのであろうよ。)
結局のところ、“普通”とか“標準”“平均”のという形容が付くような年のとり方はない。もっと突っ込んで考えてみると、そういう年のとり方があると仮定しても、今の社会は同じ年齢の他者と比較して“普通”の“標準”的な“平均”的な人間を高く評価しない。(平均的な人間を評価する社会だとしたら、最年少記録とかはニュースにならん。)
とか、急に話は飛んだけど、「コドモらしくない」と叱られて悩んでいる高校生と話して色々考えたワケであるよ。要するに、あなたがあなたの速度だと思う速度でオトナになればよいのだと思う、とか答えたのだけれど、そういう風に論理的に言われたことがなかったらしく驚いていた様子。
「コドモらしくない」という言葉でその子の成長の速度を減速しようとするオトナを正当化できるとしたら、冒頭の男のように、少し間違ってオトナになってしまうことを心配してるから、って意味でだけだと思う。とか何とか、私もコドモらしくなかったから言えるけど、とか言ってバイバイした午後であった。