小泉今日子サンと長瀬正敏サンが離婚したそうですね。この“離婚”自体には賛否両論なのでしょうが、何はともあれ、円満に解決なさったという点はご立派だと思いました候。
個人的には、小泉氏が発したとされている「〜、夫婦の関係が時に不自由にさせてしまったような気がします」という言葉に反応してしまった。何故って、過去、似たような気持ちになった経験かあったので。(*注記:あ、もちろん結婚制度は利用していませんでした候。)
人との“関係”は流動していくモノ、絶えず動いているモノ。時の流れとともに、相手も自分も変化していくモノ。けれども、“夫婦”や“恋人”という創られた記号に包まれた途端、小泉氏がいうような“不自由”を感じたりするワケで。
で、何故不自由になるのか。たぶん、それは“夫婦”“恋人”という役割は、“関係”が本来は保有しているはずの流動性を減速させ、固定化へと向かわせる性質を内在しているから、もしくは、当事者間でその役割の意味する内容が共有化されていないから、とか。になるのかもしれないなぁと。(→理論的には正しくないと思うよ。社会学知らないからね、私。)
そういえば以前、社会学者の知人は“代替可能な自分”という概念(?)を説明してくれたっけ。うろ覚えだけど、確か、「自分という人間は誰かにとって特別でも唯一でもなく、常に入れ替え可能な存在である」ということを意識せよ、って感じの内容だった。これを聞いたとき、「あぁ、社会学者って精神的にシンドイのぅ。」と思ったのを覚えている。
また、この知人は「相手を自分の幸せの道具にしている人」に注意せよ、ってなコトも言っておりました。はっきり言っちゃうと、そういう人って周りに沢山いるものです。(→もしや皆さんの周りにも?)こういう意味・背景を考慮すると、私は、別れてくれるコトも愛だなぁと思ったりする。時には、ずっと一緒にいるコトよりも、別れるコトの方が愛情を示す決断であるなぁと。
かなり個人的だけど・・・。ある人と別れたことを思い出した。正確には、別れてから初めて訪れた相手の部屋を。詳細は省くけど、私は自分が想像していたよりもずっと愛されていたのだなぁと、その時理解できましたよ候。
■□■□■□■□■□そのほかのほざき、っうか“謝罪”■□■□■□■□■
・あの〜、さっきね、ここに載せてるアドレスを久しぶりにチェックしたんですよ。で、メールを下さっていた方がおったのですが、今、気づきました。
かな〜り、お返事遅れてますが、必ず書きますんでもうしばしお待ち下さいまし。すみませんでした、ハイ。(特に1ヶ月以上前にメールを下さった方、ホントすみません。全然悪意はありませぬ。ぼ〜っとしてただけです。。。)