金曜日がレディースデイになる映画館で「華氏911」がやっていたので、仕事のあとで見に行きました。
興味深くて、いろいろと考えさせられたのだけれど、とにかく重い映画だった。 見たあとにとにかく苦しくなって、泣けてしまった。 世界が複雑化してしまうと、正しいの反対が間違いではなくて、すべて正しくてすべて間違っていると言わざるを得ないし、何が悪で何が正義かなんて、言い切ることはできない。すべては文脈の中の問題で、視点を変えれば反転する。 この映画は、ある一方の視点に立ちがちなアメリカ国民(あるいは、そういう視点に立ちたいマスコミとそれを信じる国民)に、こういう別の現実があるんだよっていうことを提示したのだと思う。それは大切なことだけれど、同時に、とても苦しいことだとも感じる。 視点を知るということは、きっかけでしかなくて、答えでも解決策でもないから。 それをどう咀嚼して、どんな行動に出るか/出ないかは、当たり前だけど個人の自由に任されていて、でも、それはとても思い事実だなあって。 複雑であったり、いくつもの視点を持つということは、たくさんの矛盾を含むと思う。 矛盾を背負うことはとても苦しいし、人を不安にさせる。 だから人はいつだって単純な構図を求めたがるし、自分を正しいと言ってくれる何か大きな根拠をほしがるもので、そういう気持ちがたとえば冷静になればどこかぎこちなく見えるようなマスコミの報道も、何の迷いもなく信じさせてしまったりするんじゃないかなって。 「ボウリング・フォー・コロンバイン」を見たときも思ったけれど、ムーアの作品を見て思うのは、ただ逆側に振れるだけの振り子運動を生まなければいいなということ。 それは、自分自身に対しても。 彼の映画を見て、右から左に振れるようなことだけはしてはいけないなといつも思って、でも、その間に揺れながらとどまって、そこで歩いていくということは、とても力のいる、大変な作業だなあと、改めて感じた。
前作でも触れられていたけど、アメリカは恐怖を利用して国民を操っている、という表現が出てくる。 隣人が銃を持っているからあなたも持たないと危ないとか、テロが起こるから自衛しなければいけないとか、そいういう情報を流して不安にさせて、その力で国民を支配する。 人は不安や混乱に弱くて、安心を求めたがるから。 で、そういう国家のやり方をムーアは批判していると思うのだけど。 でも、安心を求めること自体は生き物として当たり前だし、だれだって不安の中では生きたくない。 そう考えたときにね、思ったのは、この映画もやっぱり、人を不安にするんだよね。 戦場の映像を見るとショックだし、アメリカ兵の戦場での発言と、兵士の息子を亡くした母親の嘆きと、イラクの市民たちの生活と、そういうものをいろいろ見せ付けられると、ある種の混乱を覚える。 ムーアがその混乱を何かの道具にしたいのかはわからないけれど、たとえば、国家に安心を求めるように、この映画を見て、ムーアの意見に身を沿わせることで新しい安心を求めることもありうるわけで、それが一番怖い気がする。 わたしがわかるのは、自分は戦場に行きたくないし、戦争は嫌だし、家族を亡くしたくもないということ。 アメリカの女性の嘆きとイラク市民の嘆きと、どちらも等価で、ああいやだなあって、やっぱりこんなどこにも行き着かない戦いは嫌だし、誰にも死んでほしくないなあって痛感できたことだけが、この映画を見て確かに残った感情だった。 でもそう感じる瞬間にも、重ね合わせているのは家族や友人の死の瞬間であって、そういう身近なものを想定することで初めて実感できる痛みで、たとえばこれが日本の物語で、日本が行っている戦争の物語だったら、もっともっと冷静じゃいられないような気がする。 どこかに助けを求めてしまいそうな気がする。 それはもう、どうしようもない、距離感の問題として。 だから、当事者であるアメリカでこれが上映されて、多くのアメリカ国民が見たということは、とてもすごいことだなあと思う。 相手取っているものが大きすぎて、立ち向かうには先が見えなさ過ぎて、途方に暮れてしまう、ただ犠牲を出さずにみんなで幸せでありたいだけなのに、って、これも日本人の平和ボケなんだろうか。 それとも、あきらめすぎているんだろうか、わたしは。
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ドキュメンタリー作品を好んで見始めたころに、「ドキュメンタリーに意図された編集がないなんてありえない」「事実をそのまま提示しているわけではない」というような意味の言葉に出会って、ああそうなんだなって、考えが変わったことがある。 それまではやっぱりドキュメンタリー=事実で、その視点は中立にあると思っていたような気がするから。 でも、そうはいっても、それは知識として吸収しただけで、なんというか、感覚として飲み込みきれない部分もあって、編集されたドキュメンタリーってどういうことなんだろうって、ずっと考えていた。 作品を見れば、それが決して事実そのままでも、中立に立ちたくて表現されているわけでもないことがわかるんだけど、でも、最後の最後で腑に落ちてなかった気もする。 でも、最近、ひとつ、納得できたことがあって。
フィクションていうのはドラマでも、アニメでも、芝居でも、あるひとつのストーリーが先にあって、それにあわせて各シーンを作って、それをつなぎあわせていく作業だと思う。 だから、脚本を書いたときに、編集作業ってかなりの部分終わっているのだろうな。 素材はシーンの数×テイクの数で、その中から取捨選択する。もちろん結果的に使わないシーンも出てくるだろうし、映像だったらどこから撮るかとか、どいういう照明にするとか、そういう作業もあるだろうけど、基本的には作成したシーン分しか素材は存在しない。 でも現実に目を向ければそこにあるものすべてが素材で、一秒一秒×場所の数だけシーンがあって、とにかく、フィクションとは素材の量が比べ物にならないほど多い。 だから、そこから何を選んで撮るかということ、どういうふうに作品を形成していくかということを考えなければいけなくて、それがつまり、編集っていう作業だとも言える。 そう考えたら、ドキュメンタリーはフィクションよりもずっと、編集が必要な表現なんだなって。 現実世界の中にはありとあらゆる素材があって、とても衝撃的な映像や、感動的な場面もたくさんあって、ひとりのひとが美しく見える瞬間も醜く見える瞬間もあって、それを作品化しようとすることに、編集が伴わないわけがないんだって。 そして無作為にできるはずもないから、編集には意図が伴うもので。 だからドキュメンタリーもノンフィクションも報道番組も、事実そのままを中立な視点で提示するだなんてありえないんだなあと、思った。 だって現実はすごすぎるもの。 すごい素材が山のようにありすぎるもの。 人生ですら、編集作業みたいなものだ。 そんなことを、思った。
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