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■かじ散歩。富田宿の遊郭探し。
2015年05月08日(金)
実家に帰省中のゴールデンウィーク。

朝ゴハンを食べてから、子供達に宿題をやらせ始めたので僕はヒマである。なので近所をぶらり散歩してみることにした。生まれてから18年住んでいたけれども、離れてから地元に興味を覚えることもある。

富田宿

富田宿
実家から程近いところにあるのが古い街道沿いの街並み。栃木県栃木市大平町富田。ここは「例幣使(れいへいし)街道」という街道の「富田宿」という宿場町であった。親から聞いたり学校で習ったりして子供の頃から知っていたのだけれども、今は単なる寂れた通りだったのでなんの興味も持たなかった。

しかしオッサンになってふと地元のことを調べてみると、この宿場町はかつて飯盛女が数多くいて大いに栄えたのだそうだ。飯盛女は宿場において旅行者の給仕・雑用を行なう一方でエロスなサービスもする。宿場町は単に旅人が泊まるだけでなく風俗街でもあったのだった。

僕の地元は何にもない寂しいところだとばかり思っていたのに、こんな色っぽい歴史があるとは意外だったのでつい引き込まれてしまった。

富田宿
ここは街道裏の川。地元の古老によると、ブラック職場に耐えられなくなった飯盛女が身を投げたりしたらしい。と言ってもドブ川程度の深さしかなく、スペランカーですら死ねないんじゃね?と疑問が残るのだけれども。昔はもっと深かったのも知れない。

江戸時代から明治になり、風紀的な問題からエッチな要素は街道から切り離され、隔離された一角にまとめられた。「遊郭」である。ただの田舎だと思っていたのに遊郭があったとは驚きである。それを教えてくれたのも地元の古老である。ていうか母だけど。ある日車に乗っている時に

「お母さんが子供の頃までね、この辺に遊郭があったんだよねー。子供だからよく分からなかったけど、なんか独特の雰囲気があった建物と空気だったねー」

ふと母が何気なしに言ったことがきっかけでその歴史を調べてみる気になった。図書館などで調べてみると、確かに遊郭が存在したことが記録されていた。しかし文献だけでは場所が特定出来ず、これも地元の古老…じゃなかった母に聞いてもはっきりしなかった。万事休すか、と思ったところ母が自分より年寄りのスーパー地元の古老に聞いてくれたので場所が判明した。

富田宿
「この通り(赤線が引いてあるところ)が大門通りって言ってね、この通りを挟んでぽつりぽつりとお店があったんだってさ。そういえばお母さんもこの辺のことを大門って言ってたよ…」

大門とは吉原大門のように、遊郭には付き物の建造物である。文献では店も2〜3軒ほどでそれほど多くなかったことが分かっている。これは信憑性が高い。早速行ってみたところ、

富田宿
現在の様子がコレ。遊郭の面影などはなにひとつ見つからないただの住宅街であった。おそらく遊郭が廃れてから半世紀以上経ってるのだから仕方がない。

遊郭跡地めぐりを終えて東武線の駅に近づくと、駅前からモモクロの曲がばかでかい音量で流れていた。何だろうと思って寄ってみると、

富田宿
小学生ぐらいのアイドル集団が踊っていた。周りにはバズーカのようなカメラを構えたカメラ小僧が何人も。なるほど、なかなかカワイイ…うちの娘・R(11才)ほどではないがな!ってオイ。昔も今も若い女で人を呼ぶのだろうか、この地元は。

結局遊郭に関連するものは何一つ見つけられたかったが、散歩している間、やたらと目につくものがあった。

富田宿
富田宿
富田宿
富田宿

「キリスト看板」である。東京だとまず見ないのに田舎に来るとザビエルが貼りまくってんじゃないかってぐらいあちこちにあるのだ。こういうまじめーなメッセージをいくつも見させられると、自分のいい加減な人生を振り返り反省したくなるものである。

キリスト御免。なんちて。

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