人生事件
−日々是ストレス:とりとめのない話 【文体が定まっていないのはご愛嬌ということで】
日記一覧|past|will
2011年05月06日(金) |
それは「変人」だとか「ずれている」という表現では正しくなかった、発達の問題だったのだろう |
何か、いろいろ、死にたくなってきた…とごちゃごちゃした身の内の感情や混乱を短縮するとそういう形容になってしまう今日この頃。青天の霹靂な、でもたぶん事実、というところに気づいてしまい、納得するとともに、なんで今まで私そこに気づかずにいられたんだよ、あれれ…などと頭を抱えたり、笑い出したりしたいわよ、って一体何なんだかな…。一番おかしいのは私だよ、と以外に冷静に突っ込んでみたりみなかったり。
そんな訳で、大混乱中でありますが、大事なポイントをばひとつ。
「そういう人のそばにいた人と一緒になるのが一番。特に、兄弟にそういう人がいる対応に慣れた人がよい。この際、その人がそれを自覚済みだろうが無自覚だろうが、どっちでも構わない」
30年以上の付き合いを経て、今ようやくわかったこと。我が子の発達障害は乳児期から気づけていたのに、どうして彼女のことには気が回らなかったのか。本当に悪かった。だけど、だからこそ、私は我が子への対応ができていたんだ。 知的に高いから、ぱっと見は社会にどうにか溶け込めているから、うっかり見落としていたんだ。「ちょっと変わっているよね」と他人の評価を耳にしていたにもかかわらず、それをさらりと流していた。
実母は気づいていないと思われるが、あの聡明な実父は、実は薄々感じていたんじゃないだろうか。本人の生きづらさへの苦悩を、実は知っていたんじゃないだろうか。特別学級の児童の様子を見たこともあるくらいなのだし。
私自身もどちらかというと発達障害に傾いている場所にいる人間だけれども、運よく就労してからそれを自覚し、外見を修正するくらいの器用さは持ち合わせている。その修正ができないくらいの場所にいる彼女は、一体どんな気持ちで今まで過ごしていたんだろうか。助言をくれる存在のないままに、30年以上を。「ずれている」自分を自覚しても、どうにも進めない状況で。
遠くない将来、私はどんなことがあってもあなたの味方だからと、きちんと伝えたい。そう思っている。
|