DIARY...camui

 

 

自己と他者について - 2003年01月03日(金)

文才があるとはたまに言われますが、私は自分が文章書けるとか頭いいとか微塵も思ってないし
もっと哲学的で頭よさげなこと書いてみたいと大いに思うのです。しかし無い脳みそしぼっても
元来持って生まれたものしか出てきません。意味不明。
つまりはこむずかしくて固いこと書いてるつもりではないってことかも。

私は、文才があって頭のいい人(非学力)の文章を読むのが好きだ。
テキストサイト好きってわけでもないけど、たまに適当に検索かけてツボに入る文章書いている人の
サイトにこっそり通ったりもする。
私がここ数年で多大な影響を受けた(もしくは現在進行形で受けている)人物というのを考えてみると、
絶対に外せない人が2人ばかしいます。1人はネットで知り合ってたまたま家が近くて仲良くなった
現在も親友、もう1人は某アルバイトで知り合ったものすごく年上の現在(というか最近)連絡を
取っていない親友。前記の親友は日記サイトのようなものを持っていますが、去年夏以降ほぼ更新ストップになり
彼女の文章を読めなくなって残念と思う反面、何故更新しなくなったか、そして今何にハマっているのか
くらいの近況は聞いているので納得もしてる。
自分と彼女を重ねて見るというのはおこがましいと思ってしまうくらい、彼女はとても頭がよくて
魅力のある人で。感性やら気質やらで通じる部分があるから友人やってるのは確かなんだろうけど、
彼女の言葉・文章には幾度と無く共鳴するというか、いろんな意味で引き込まれるものがあった。

後記の年上の親友は、私と、より私の親と、の方が年が近い。
言ったら怒られるかもしれないけど(笑)、一回り半くらい年上です。
同じバイトをしてた頃、それほど会話もしてないうちからお互い気になっていたらしく。
深夜勤務を終えて寝ないでそのまま遊園地とか、よく遊びに連れまわしてもらってました。
彼女は年齢を重ねてきた以上に人生経験豊富で、宇宙人の話とかスケールが大きすぎて途方に暮れる話なんかを
しごく真面目に話す。いつでも情熱があってとても素敵な人だ。
現在は、一年前かそれ以上前に一度連絡をとって遊んで、アメリカ人の彼氏が出来た、結婚を考えてるから
アメリカに行くよー、と話していたのを聞いて以来会っていない。
もう日本にいないのかな。あちこちから寝てようがご飯食べてようが途切れなく電話が
かかってくるのが面倒だという理由で携帯を切ってしまっているので(持ってないの)連絡の取りようがない(^_^;)
知り合った当初はやはり目上の人だから私が敬語を使っていたのだが、「私はそんなに
えらい人間じゃないから敬語はヤメテ」と笑っていたのが懐かしい。


何故突然こんなことを書いたかというと、今、というか年がら年中何かしら考えてはいるのだが、
特に去年後半から今現在まで、「自分と自分以外の他者のこと」をかなりずっと考えていたから。
私に関わった忘れられない重要人物から、今の私にとってどうでもいい部類にあたる人物まで、いろいろと。
大体、一年に1〜2人は、以後何年も続いていく関係では無いにしても、そこそこ深く関わる
人間というのが出来る。そして同じような人間なんて皆無なのだから、毎年関わる人種も違う。
前回の日記に私が受け付けないタイプについてはちょこっと書きましたが、私は例えば誰かと
付き合っていて「んんー?なんかひっかかるぞ。」と思ってもそれが何なのかはっきりと自覚するまで
時間がかかる。悩んでいた、とはまた違うけど、思い出した時にはずっと自然と考えてて
やっと分かってきたかな、というところにたどり着いたので書き出しているのです。

とある人には何度か話をしていたので、重複しているようで自分のことだけ言われているような気になるかもしれませんが、
特定の1人に対してだけというわけではないのでそのつもりで読んで下さい(笑)。

私がそこそこ深く関わっていくにあたって、「キツいなー、重いなー、やだなー」と思う条件に、
「何も考えていないようで本当に何も考えていない人」もしくは「何か考えているようで実は何も考えていない人」
があります。誰だって無神経な人は嫌いでしょうが、今のところ縁を切る気ではない相手には
話せる範囲で話したいと思うと思います。
どうも、私は自分で自分の首を絞めているのか、「私は年中重たい深いしち面倒なことを
ずっと考えて悩んで悶々としてまーす♪」風にしか書けないのでアレなんですが、そうではありません。
お前は考えすぎだとか思い過ごしだとか言われようと(いや、てかそんなこと人に言われたくないが)
自分で感じる、思うことというのは自分にとってはものすごく重要なことなのです。
「考えすぎなんだよ馬鹿ーははははは」とか言ってくる人は私にとっては論外です。


溜まってしまうのは、無言のプレッシャー。
何かをしてあげた替わりに喜んで、笑って、何か言って、という無言の期待。

これをしてあげたら喜ぶに違いない、笑うに違いない、というのは個人の思い込みですよ。
それで喜ばなかったら笑わなかったら怒る、不機嫌になる、落ち込む、いろんな方法で無言の攻撃をする。
それは何?思いやりとか理解とか平気で言ったら張り倒しますよ。
身近によくある具体的な例え話では、すごく仲のいい人がいて、2人でいついつにどこへ行こうと
話していた後日、相手が突然行かないと言った。当然、2人一緒に行くことを楽しみとしていたのであれば、
相手が行かないとなったら自分も行く気がなくなるのはごく自然なことですが、それを相手に言うか否か?
「あなたが行かないなら私も行かない」。
これです、嫌なのは。

何故「行くか行かないか」の決定権を相手になすりつけるのか。
自分が行かないからせっかく楽しみにしていた相手も行かない、自分のせいで、という
重い責任がのしかかってくるというのが何故に分からないのか。
思ってしまってもいいですよ、それは別に異常ではないから。
言うなっつーことです。
相手がどうでもいい部類に当たる人で無い場合は尚更です。

行く行かないの決定権だけに限ったことでは無いというのはここまで読み進んだ人なら
分かって当たり前と思います。ぶっちゃけて言うと人のせいにして逃げるなということです。

こんな簡単なことが案外、ごく身近に何年も居る相手であってもなかなか理解してもらえなかったりするのですよ。
話してダメだったら自己防衛のために距離を置くとか避けるとかするしかなくなります。


これはほんとに一つの例えですが、本当に自分と自分以外の他者の間には気の遠くなるくらい
高い壁が聳え立っている気がしてなりません。
でも、関わりたいと思えば思うほどその壁を乗り越える気力も情熱も沸くってもんです。
私にも関わりたいと思っていた、と過去形の人も多々います。悪く言えば諦めた、
ちょっと聞こえを良く言えば天地がひっくり返っても無理な相手だった、ということになります。

自分で自分はとてもよくいろいろなことをせかせかと考えている、と思っている人でも
違う誰かから見たら「無神経きわまりない」相手にもなるのです。
別に説教と違います、自分にだって言えることだから。
どう転んでも微塵も通じる部分が無い相性というのもありますが、我を押さえたり
限界超えたことしろっつーわけでは無いのでせめて軽々しく人を責めるようなことを言ったり
何が何でも自分の言い分を通そうとするのはやめましょうー。


全然関係無いけど、年明けってどうしてこうもテレビがつまらんのでしょう。
深夜やってたカーペンターズフォーエバー(NHK)は真剣に見ちゃったけど。
深夜映画は字幕にしましょうよ(^_^;)



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