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2011年01月14日(金) Jリーグは活性化できるか(2011・年頭所感)

2011年元旦に開催された天皇杯は鹿島が清水を撃破して優勝。この結果をもって、2010年日本サッカーの全日程が終了した。新聞報道によると、2011年以降、Jリーグの運営規定の大幅見直しが予定されているという。

事実上の2011年のサッカー事始は、中東カタールにて開催されているアジア杯からだ。日本はグループリーグ初戦の相手ヨルダンに大苦戦、ロスタイムで追いつき勝ち点1を辛うじてゲットした。続くシリア戦は、正GK川島の退場を伴う辛勝という結果となった。日本は、優勝はおろか、グループリーグ突破すら予断を許さない状況を招いている。日本代表の2011年は、思わぬ、波乱の幕開けとなった。そんな年頭に当たり、日本のサッカー界、とりわけJリーグが抱える課題を包括的に整理しておこう。

◎代表チームの活躍に比して、盛り上がらなかったJリーグ

昨年のW杯では、日本代表が16強入りを果たしたものの、国内のJリーグ人気の回復には影響しなかったように思う。日本は、代表戦のTV中継はそれなりの視聴率を稼ぐが、リーグ戦は低視聴率が続き、放映権料の値上げは難しいといわれている。オフィシャルスポンサーの集まりもままならず、Jリーグ関係者からみれば、サッカー人気は停滞期に入ったまま回復に至らず、このままならば、クラブ経営は厳しくなるばかりという認識が強まっている。

冒頭に記した新聞報道――Jリーグの運営規定の抜本的見直しというアジェンダ――は、筆者には理解しにくいものだ。現行の規定のなかで見直しが必要な事項を挙げれば、春夏シーズン制から秋冬シーズン制への移行というテーマ以外は思い当たらない。もちろん、それに伴い、前出の天皇杯のあり方も見直しが必要となる。天皇杯というのは、Jリーグ運営の視点から見ればその位置づけは極めて曖昧なものだ。天皇杯こそが、日本におけるプロサッカーの未成熟性を象徴するともいえる。天皇杯決勝に残った2チームの選手たちが揃って、「元旦に国立でサッカーができる喜び」という美辞麗句を発するけれど、本当にそうなのか。日本サッカーがアマチュアイズムを克服し、真のスポーツビジネスとして、日本に根を張れるかどうかは、天皇杯をいかに発展的に解消できるかの一点に帰するといって過言でない。

◎日本のフィジカルエリートはどこへ行く

先般、表参道を歩いていたら、トルシエ元日本代表監督とすれ違った。TVで見るよりは大柄で、しっかりとした体型だ。筆者の顔をちらっと見て、オレに関心のある奴だなというような目つきをしながら、もちろん、無言なままお互い通りすぎた。

そのトルシエが日本にやってきて間もないころ、高校野球の甲子園大会を見て、“日本のフィジカルエリートはここにいたのか”と驚愕したという逸話が伝えられている。甲子園を目指す若者の半分でもいいから、サッカーに向かってくれたならば、日本のサッカーはもっと強くなれるという確信がトルシエにあったのではないか。

こんな比較もできる――六大学野球のエース・斎藤佑樹と、アジア大会サッカー得点王・永井謙佑の入団発表の扱われ方だ。斎藤佑樹は、彼の甲子園大会における活躍から始まり、早稲田大学入学、最終在学における六大学シーズン優勝、その年の大学選手権優勝、ドラフト指名会議、北海道日本ハムファイターズ入団、二軍入寮に至るまで、逐一マスメディアのトップニュースとして扱われ、社会現象になっている。

一方の永井謙佑は、アジア杯得点王、同ゴールドメダリストという実績を残しながら、彼の名古屋グランパス入団の報道のされ方は、前者の比較にもならないほど、ささやかなものだった。斎藤佑樹の実績といえば、甲子園大会優勝投手、東京六大学リーグの優勝投手という、きわめてドメスティックなものにすぎない。それに比べれば、永井謙佑のそれは、アジア大会というグローバルな規模の活躍だ。日本サッカーがアジア大会を制したのは、永井謙佑がひっぱったこのチームが初めてという快挙だ。斉藤の実績を貶めるつもりはないが、永井と比べればレベルが低い。

にもかかわらず、日本社会の評価は、斉藤のほうが圧倒的に永井より高い。その理由は、何度も当該コラムで書いてきたことだけれど、日本における野球文化の厚さ、強さであり、サッカーは野球に勝てていない。日本サッカーはW杯ベスト16入りを果たすまで急速に強化されてきたけれど、社会への浸透度、社会の関心のあり方においては、野球の後塵を拝している。野球文化の歴史の長さが、サッカーを圧倒している。

簡単にいえば、サッカーが日本のトップスポーツの座を得るには、もう少し時間を必要としているということだ。でも、悲観することはない。サッカーが野球を逆転することは簡単なことだ。なぜならば、今日の野球界は、過去の遺産(=蓄積された人気)を食い尽くしているにすぎないからだ。とりわけ、野球界のトップカテゴリーにある日本プロ野球は、2リーグ・12球団のまま硬直し、一部人気球団を除けば経営は火の車、地域密着で経営安定を志向する球団はごく僅かにすぎない。このような異常事態が永遠に続くはずがない。

しかも、球団を所有するオーナー企業の経営が翳りを見せれば、球団経営から一挙に撤退するリスクを負っている。にもかかわらず、球団経営の実態は透明化されないままだ。球団経営の実態にとどまらず、球団経営権の売買も不透明であり、ゴタゴタが絶えない。こうしたプロ野球経営が伴っているネガティブな傾向はいずれ、社会から嫌悪されるだろう。

◎プロ野球とサッカー日本代表という、奇妙な棲み分け

ある年齢以上の日本人は、日常、ドメスティックなプロ野球のリーグ戦をダラダラと楽しんでいる。昨晩行われたプロ野球の贔屓のチーム(多くが巨人軍)の勝敗の確認は、きょうの天気予報と同じくらい重要な情報となっている。

このように、日本人のいわゆる皮膚感覚にまで染み込んだプロ野球だが、重大な欠陥をもっている。日本のプロ野球は世界のトップレベルだけれど、世界戦がない。最強といわれる米国との決戦は永遠に行われそうにない。WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)という世界大会はあるが、MLB(米国大リーグ)の高名な選手は出場しない。

そこで日本人が注目したのが、掛け値なしで世界最強を決定するサッカーW杯というコンテンツだった。大方の日本人は、国内スポーツとして野球を愛し、グローバルスポーツとして、サッカー日本代表を応援するという選択をした。サッカーに関心があるといえば、Jリーグではなく、日本代表なのだ。リーグ戦は野球、代表戦はサッカーという棲み分けが、日本のプロスポーツに浸透してしまった。

サッカー界における〔リーグ〕と〔代表〕の乖離を促進したのが日韓W杯(2002)だった。W杯という圧倒的な興奮を体験した日本人は、リーグの成熟を待とうとしなかった。

日本のプロ野球が国内リーグという限定された環境に閉ざされ、およそ100年間かけてじっくりと熟成された結果、日本社会の隅々にまで浸透し、今日、プロスポーツのトップに君臨するという経緯(歴史)を持っているのに反し、プロサッカーは不幸にも、早熟な孤児=日本代表を育て上げてしまった。

◎Jリーグの地域密着を歓迎しない勢力

イタリアのナポリを特集した観光TV番組を見ていたら、突然、ナポリの街中から、人の気配が去った、異様な光景シーンを映し出したことに驚いた。喧騒のナポリ旧市街から車も人も消えたのだ。さてその理由はというと、サッカー(セリエA)中継なのだ。地元ナポリが重要な試合をするという。ナポリ市民は店を閉め、商売を放り出して、家の中でサッカー中継を見る。この時間、もちろん、イタリア全土がTV中継でナポリ戦を見るわけではない。ローマ、ミラノ、トリノ、ボローニャ、パレルモ・・・は、それぞれ、地元のサッカークラブの試合にしか関心がない。このようなホーム中心現象は、グローバルな常識となっている。

しかし、日本では、このようなサッカークラブの地域密着を歓迎しない勢力が存在する。その勢力とは、マスメディアだ。日本のTV局は、全国規模で同一の価値をもつニュースを流すことが効率的だから、地域密着のコンテンツを嫌う。プロ野球の例を取れば、読売グループと巨人軍の関係がそのことを代表する。かりにも、プロ野球の各球団が群雄割拠に及べば、読売新聞の商圏はせいぜい、首都圏に狭められる。巨人軍人気が全国に及ぶことで、読売新聞の販路は全国規模に膨張する。たとえば、仙台(楽天)、札幌(日ハム)にプロ野球球団が創設されるまで、広く東北・北海道は、読売=巨人の天下だった。読売にとっては、楽天及び日ハムは、読売の北日本市場を奪う抵抗勢力にほかならない。

このような背景に従えば、Jリーグが地元密着である限り、日本のマスメディアは、Jリーグ各クラブの試合結果をローカル扱いにとどめることが理解できる。

日本のマスメディアは、日本全国が関心を示すスポーツコンテンツを渇望している。たとえば、前出の通り、「斎藤佑樹」という素材は、北海道日本ハムファイターズのものではなく、日本全国の日本国民が享受できるものとして珍重される。ルーキー斉藤の一挙手一投足を、全国規模で、全国ネットのマスメディアが取り上げ、それを全国的に報道することによって、「斉藤」という記号が全国化され、そして、国民的ヒーローとなる――このような循環構造が見出せる。

冷静に考えれば、プロ野球に入ったばかりのルーキーを国民的規模のヒーローとして扱うことは異常であり異様であるのだが、そのことに、異論を唱える者はマスメディアから排除される。

一方、グローバルスタンダードに規定されるJリーグは、各クラブがローカルに徹する以外に、生き残る道はない。読売と巨人軍の関係が象徴する日本型スポーツビジネスはガラパゴス現象であって、将来性がない。そのことは、日本のプロ野球経営において、パリーグの北海道日本ハム、東北楽天イーグルス、福岡ソフトバンクホークスの経営の安定が――また、逆に、巨人軍人気に依存するセリーグにおける、横浜ベイスターズ、東京ヤクルトスワローズの衰退が――示すとおりだ。

プロ野球の「斉藤人気」は、一過性にすぎない。マスメディアが作為的につくりあげた虚像は、極めて危険で脆い存在だ。「斉藤」がプロの洗礼を受け、沈んでしまったとき、人々は「斉藤」を忘れるだけで、その人気を煽ったマスメディアを批判することはない。かりに、マスメディア批判を行う知識人が発言したとしても、マスメディアから無視されるだけだからだ。しかし、こうしたマスメディアのヒーローづくりは、スポーツ本来の魅力を劣化するだけであって、反省する時期にきているはずだ。

Jリーグには、スターが不在だともいわれる。全国レベルの人気者、たとえば、本田圭佑のような選手が何人かいれば、人気が盛り上がるという論法だ。確かにそのとおりだが、全国的な人気者は不要だ。地域のクラブの勝利に貢献するのがリーグのヒーローなのだから、名古屋のヒーローは、他の都市ではヒール(悪役)なはずだ。それでいい。

Jリーグの理想像は、地域=都市を根拠地としたスポーツ文化として各地に根付き、それなりに歴史を積み重ね、例えば、イタリアのようなサッカー大国に成長することだ。それぞれの地域の人々が、“オラがチーム”を応援する姿を実体化することだ。そこまで、Jリーグの各クラブの経営がもつのか、という心配はあるものの、地域における集客に努力する以外の特効薬・即効薬はない。

◎メガシティ東京に人気クラブを

Jリーグの発展は、各地域を核とした地道なクラブ運営以外にないわけだが、それだけで片付けるのであれば、思考停止というものだ。前出のナポリは、イタリア南部の大都市(州都)であるが、人口は100万人そこそこだ。日本の首都東京の10分の1にも満たない。このことは何度も当コラムで書いてきたことだけれど、人口1千万人を超えるメガシティ東京に、人気クラブがないことが、Jリーグの最大の欠陥の1つとなっている。東京という市場(マーケット)を空白にしたまま放置していることが、Jリーグの活性化を妨げている。東京規模の大都市ならば、その東西に1クラブずつ計2クラブあって不思議でない。東京における東西の微妙なカルチャーの違い、住民の気質の違いをベースにした対抗意識がJリーグに反映されれば、“東京ダービー”は、間違いなく、白熱したものになる。

そればかりではない。関が原の戦い以来続いている、東(東京)と西(大阪)の争闘の歴史は、スペインにおけるマドリードとバルセロナの対立にも対比でき、東京と大阪のそれぞれのクラブの対抗意識がJリーグに反映されれば、“日本のクラシコ”に成長する可能性もある。

◎インターネットとJリーグ

Jリーグ活性化に必要なのは、“イベント発想”ではなく、“掘り起こし”なのだ。リーグ戦は、天気予報と似ている。大阪に住んでいる人間が関心を寄せる明日の天気は、大阪地方のそれであって、東京の天気であろうはずがない。Jリーグも、同様に、地元のクラブの結果こそが重要なのであって、そういう関心のもたれ方を育むべきなのだ。

前出の通り、日本のマスメディアは、地域発想を好まない。彼らは中央集権的、一元的情報を送る(=売る)ことを望んでいる。そのほうが効率的で、かつ、大きな売上高が得やすいからだ。だから、地域発想のJリーグの発展においては、マスメディアの応援は限定的なものにとどまる。しかし、今日、マスメディアの存続自体が問われる時代に入った。Jリーグの発展に寄与するメディアは、もしかしたら、マスメディアではなく、Twitter、ブログ等を含めたインターネット等の個別的メディアなのかもしれない。

これまで、日本のスポーツビジネスの発展は、読売新聞グループの巨人軍、朝日新聞の高校野球といった、大新聞及びその傘下にあるテレビ局に負ってきたことは否定できない。だが、そのようなビジネスモデルが永続的だとも思えない。

Jリーグの“地域主権”の理念を日本各地に根付かせるためには、Jリーグ各クラブチームと、インターネット・メディアとのなんらかの連携・提携が模索されるべきなのかもしれない。サッカーとインターネット・メディアの新しい関係が、どのようなスタイルになるかは即答できないものの、新たな関係の構築が最重要課題の1つであり、日本サッカーの基盤(=Jリーグ)強化につながる手段の1つなるかもしれない。


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