銀とこで紹介されてた「チェルニー」先生肖像に爆笑。 なにより、その「髪型」に。だってもお、さ?なんであんなところで分けて貼り付けちゃったんだろうって不思議さだけど、不思議も何も、限りなく広い額をカムフラージュしてるって以外なにものでもなさそうな・・・生え際の延長線を無意識で目視上で結んでしまうような・・・ね、不自然な髪のなでつけ角度、最高だよ。どこか近未来的だよね。SFチックで更なる魅力が引き出されてますよ〜あの髪型。チェルを愛してる銀には申し訳ないけど絵のデザインとしては面白いものがありますよ〜。惜しむべきは服かなあ〜地味服だから奇をてらうことも流行最先端を行くわけでもないために今みてもそれほど奇妙じゃないんだよね。流行服こそが奇妙さを追求したら最高な衣装もないんじゃねえの?例えば、簾みたいな前髪どころか、熊手みたいになった90年代女性の前髪とか、顔グロ超えてゴン黒になってる女子とか、ズボンずり下げすぎて膝が腰になってるとか、肩パッド入れすぎでガン○ダムみたいになってる服とか最高ですよ!!(それにしても、服飾の歴史上では定期的に肩の辺りの布地が膨張した服が登場するのだろう?そしてやりすぎちゃってる人がいるのだろう?)いっそ古いっていうより周期的に繰り返される流行の共通点って、逃れられない選択肢の限界を感じるんだよね〜ニュアンスは変わっても、あくまでも他の時代それぞれにある要素との協調を図る上の調和装置としてのやくわり程度がニュアンス程度の違いでしかないという・・・内面の表層としての外面といっても、人間、手足の数やら体の多きさが大幅に変わるという事も無いのだからなあ〜と単純にそういう事もあるわけだけど、内面の表出がすくなからず外面に繋がると言うことに異存がないとして、その外面を選びうる内面は流行という同じ共通外面をもつことで、その共通性を示している。つまりは流行服とは、同時代に生きる人々の共通意識の存在を示すものであり時代を感受した人々の総意的(平均的)意識の表出が流行ファッションなるものであるのだなあ〜と思うのですよ。その中で、いわゆる「いきすぎ」てしまう人々ってのは、同時代を生きる時代の空気からズレてるのですよね。しかし流行を無視してるわけではなく「乗ってる」わけですから、あくまでも同時代、同時代の人々の意識の上に載りたいわけですな。普通の人(いきすぎない人)ってのは、溶け込めてるわけですよね〜目立たない(在る意味流行服を少し取り入れるぐらいが一番目立たないという事実があるよね)ということは協調できてるわけです。でも、「いきすぎてる」人はそれが出来てない。同時代、同時代の人々・・・社会との協調ができていないといえる。しかしながら、その社会(まあ、広く見てもいいし、友達付き合い、会社、団体とか・・・なんらかのカラー、共通目的・意識(親密な)に積極的に介入しようとしている。う〜ん。極端に寂しがりやなのか、いや、むしろ強い自己顕示欲を感じますよね。簡単にいうと流行ノリノリの服は概して網羅的で、周りに溶け込むことがむずかしいものではないはず・・・だが、本来目立たないデザインだったとしても、それを更に大幅に強調し(間違ってることが多い)飛躍させずにはいられずミニスカが流行れば尻が見えるギリギリまでスカートを上げずにいられない!そこには常識なんて介入できませんよ。内なる叫びですからね〜。 自己顕示欲がなにから引き出されるのか・・・と事を考えようとすると様々な理由があるだろうことは想像に難くないわけでね、だからなんだって話なわけですが。(この、やりすぎの一端として気になるのが、全く分野が違い流行などなさそうな「コック帽」なんですよね。あの、偉くなるほどに帽子の高さが高くなるというアレですよ。力を誇示するがごとくそびえる白い巨塔ですよ!!あれ・・・最高でどのくらいの高さの帽子をかぶった人がいたのか・・・また・・・今もいるのか・・・。三角巾なんてお粗末なものじゃなく、そびえるコック帽の面白さは語りつくせぬものがあるなあ) いや、ハッキリいうとだよ。地味服なチェルは社会と調和できる柔和さを持ちえていたと言う事もよかったと思うし、(や、当時の社会体制の善悪とかがいいたいんじゃなくて・・・多少人の中で生きるにしたら・・・その方がマシかなって)現在みても「ふ〜ん」と思うあたりに時代に乗りきれない、いや、どの時代に生まれてものノリノリになることが無かろうという、裏返せば・・・大げさにいえば普遍的な人柄ぶりを垣間見れたのも良かったな。と思うんですが・・・。いかんせん、あの頭ですよ。あれだけは、ゆゆしき事態ですよ。クルクル髪の多かったであろう人々が考え出しそうな髪形でもあるわけですが、それにしても「奇妙」というか「珍妙」というか・・・。何か特別なチェル以外の意識の介入すら感じられませんか?まあ、「描いた人の」といわれればソレまで、なんですが・・・。特に変容の激しい髪形という分野だけに見逃せませんよ。あれは「流行」なのか?なんでしょうか?しかし、気になってくるのは・・・どうして「服」に現れなかった「流行」が「髪」にのみ現れているのか?これは「服」と「髪」に流れる「流行」の「共通意識」が別別のものであるということを示しているとみたい!このチェルの「服」と「髪」は明らかに異なった流れのもとにあるとみていいだろう。その異なった流れとは何か?「服」・・・・の流れは彼自身が溶け込むことで、ある意味無視してるから、追求することも無かろう。だが、「髪」の方はどうだろう。彼はどういった選択であの髪形をすることに決めたのであろうか?考えずにはいられませんよ。そこで思い出されるのが第一印象です。どこか超越してしまったような未来的印象。それが奇妙さを感じさせもするのだが、それ以上にチェルが生きた時代から未来にある私にも何か感ぜずにはおれず・・・そして更なる未来までも届きそうな、何か超越した髪型。何を超越してしまったんだろう・・・正しくは何を超越したかったか?か。未来まで続きそうな・・・いや、多少の奇妙さを補って余りあるほどの普遍的なものの存在があるとしても良いのではないか?所詮人の手足が2本づつで頭が一つであるという事で繰り返し同じループを回る流行ファッションの(在る意味)限界のように?「超えてしまいたい」「普遍的なもの」・・・その思いとは?動機とは?私は、あの髪型に、越えてしまいたい普遍的なものを感じたにしても・・・「ドコ」にそうった特徴を、「ナニ」に特徴を見出したのか。それは、極初め見たままに無意識になされた「〜生え際の延長線を無意識で目視上で結んでしまうような・・・ね、不自然な髪のなでつけ角度、〜」という延長線を追うという事とその延長線を悟られまい、隠しおおそうというかの様に生え際を隠して横切る前髪にあった。そこまでして隠そうとする事実はもはや左右モミアゲから頭頂部へのつづく延長線の接点以外に無い。あの一見から見た以上にその接点が上へ上へ、奥へ奥へと延びてることを、もはや否めない。その横切る前髪の境界線から生え際の終着点までの面積を彼、チェルは否定していた・・・。チェルが「超えてしまいたい普遍的」ものとは「ハゲ」に立ちはだかる現実そのものだったといってよいだろうか。ハゲ自体かハゲという事実か、それがあの髪型の動機であったろう、あの「髪」の下に脈々と流れる「共通意識」とは、様々な差異はあっても共通する「ハゲ隠し」隊という意識に他ならないだろう。ハゲを隠すことで、どういった事を求めているのか・・・その先というものは、ハゲを隠すという行為をすることで「生えている」という進路の支流に戻ってしまい、それ以上の前進という選択がないことを意味している。多くの薄げの人々が各時代でさまざまに「ハゲ隠し」をしてきたことだろう。「髪は頭頂部に生えているものだ」という一定の価値観のもとでは、ハゲを隠したいという願望もまた時代を超えて変わらないということでもある。チェルがした髪型には時代を超えた「ハゲ隠し」隊という意識のもとになされた選択だった。チェルの服装は地味服であることで(あのスタイルを生み出した)社会に溶け込み、また、彼のアノ髪型も彼個人の意識でありながら時代を超えた同士達の意識という流れの上にあった。チェルは生きた時代にのめりこめないものの溶け込みながら一方では時代を異にする意識をも感受し体現せしめているのではないかと思うのだよ。 しかし、本来チェルの素晴らしいところは、多く知られる肖像にあるように全くその広い額を隠そうともしないところだと思うのだ。「生えている」という流れを意識するあまり、生えているフリをすることで1歩下がって1歩戻るというような前進0歩といった構えでしかいられない人間であるよりも、それがたとえ逆の流れ「ハゲ(丸ッパゲ)」であってもその方向を真摯に向き進む姿こそとらわれない自由な姿ではあるまいか?銀による新発見の絵で妙に美麗な顔かたちでかかれようとも、従来認識していた肖像画の彼の方が私は好きだ。造作がどうのというよりも、そのエゴの具合によるものである。チェルらしからぬと感じるといえば、そういった部分でのことであろうか・・・。 ブハハハ!真面目に読む人もいないだろうけど、ツッコミが一言では収まらなかったという事です。 あ〜・・・今日は次元(ルパン三世)について言いたいことがあったのに、チェルのことになっちゃったよ。
はい!こんにちわ・・・。朝っぱらから猛烈にしかられたような、私って一体と半場涙目の黒武です。それというのも、朝っぱらからネットで心理テストをやってみたら、このような結果が出たからなのでした。 正直に答えすぎた・・・少し仮面でもかぶっていい人の振りしとけばよかった・・・。このテストでかなり褒められてる人の結果が見てみたい。 も、あんまりなんで、見てやってください。 ↓コピペ エゴグラムによるあなたの性格診断結果 性格 心情的には、非常に冷たいタイプであり、劣等感や幼児性名誉欲が強く、人生に対して、かなり臆病な所の多いタイプです。日常生活は、退嬰的で判断力や分析力に弱く、会社、肉親、友人、配偶者などに対する依頼心や依存度が、かなり高いタイプです。その原因は、判断力や分析力の弱さから来る数々の失敗や躓づきの経験から、自己不全の観念が強まって、依頼心が高まったともいえますし、冷たくて利己的な性格から来る損得第一主義的な考え方によって、大人しくしたり、しおらしくしたり、する方が無難かつ得で有ると云う本能的計算から、退嬰的な立ち振る舞をしているとも考えられます。その何れが原因で有るにせよ、現在のライフ・スタイルが、周囲の人々に歓迎されない生き方で有る事だけは、疑う余地が有りませんので、今後の世渡りに付いては、人生観や価値観の大幅な改善が望まれます。 対人関係 相手を理解したり、判断力を高めようとする根本的な努力を怠りながら、安易な妥協や屈伏で物事を無事に運ぼうとする考え方は、所詮負け犬的な発想で有り、貴方の将来に大きなマイナスをもたらします。 ね?スゴイ言われようでしょ?でも、ここまではっきり言ってくれる人もなかなかいないよね・・・。涙で出そうだ。後で思い出してブルーになること請け合い。 やって見てください。すくなくとも、これよりは皆さんいいはずだしさ・・・。拙者にいたっては反論の余地なしの結果です。 ココ⇒http://www.egogram-f.jp/seikaku/ ヤフーからも「心理」から「心理テスト」でいけます・・・。 あはは・・・。「あなたはきっと誰かにやらせたくなる!」ってあるけど、全くですよ。たかだか50問の答えでココまで言われるのもアレだな・・・って思うけどさ。でも、結果がこれじゃあ・・・誰かにやらせたくもなるよ。これでもけずったんだけどさ〜・・・。あ〜引きこもりの人間像そのままだよね・・・・。なんか読んでて、自分なんだが引きこもりを引きずり出す(文字どおり)特集で出てきた引きこもりな人々が思い出された。 いま、まさに引きこもりです。拙者。 間違いない一編の疑いようも無く無職者です。アルバイターですらありません!!あは・・・。しかも、暗いんだからさ・・・たち悪いよね。 夜中胸騒ぎで眠れない。昼夜逆転も問題なんだろうけど、安らかな安眠をココのところしてなくて・・・。寝てるのか寝てないのか・・・。
もともと誤字脱字なんて人のものでも自分のものでも気にしないいい加減さという点でのみ矛盾の無い私ですが、最近では一文字しか共通点のないという人名の間違えや、意味不明としかいいようのな平仮名のうち間違い、「バットマン ビギンズ」を平気で「ビギニング」とよび、「エリック・くらぷとん」と「エルトン・じょん」を平気で言い間違えます。「エ」しか共通点ないし。「トン」も同じか・・・。ともかく。人名あたり致命的な恥じを欠きかねません。というか、もおやっちゃったよ・・・・・どうする?オイ。速攻打ち消してくれる友に恵まれたことのみしか救いようがありません。 銀が最近観ているらしい「おにいさまへ・・・」は遥か昔、それは「日出処の天子」を読んだころに同じ「濃い少女漫画」という意識のもと読んだ記憶があります。そしてなぜかアニメが夏休みにやっていてそれを観た記憶があります。確かに「真理ミテ」より笑えるしツッコミどころ満載で、引き込まれるものがありました。初めよく理解できなんだが・・・。あそこまで来るとすがすがしい。ちょっと「ウテナ」入ってると思う。印象的なのが、学園の選ばれし人々みたいな集団・・・「薫の君よ〜!!」というコマ。ナゼに・・・。爆笑の渦だったからかもしれん。なんにせよ、あそこまで世界観あると「おかしい」ものも「オカシイ」といわせない説得力があるあたり巨匠はやはり違うと言わざるを得ませんね。 それにしても・・・・銀ってば又濃い少女マンガのイメージが付いたね! 愛読書はドスと「濃い少女マンガ」という誤解とネタに包まれるね!! 「ベルバラ」といえば、小学校2年のときだっけ?アニメやってたよね? 小2でもベルバラはモノスゴイ感動したし、豪華版?のベルバラ漫画を友達が持ってるのを見てモノスゴイうらやましかったなあ〜。 原作ももちろんですが・・・アニメは演出とかがいちいち素晴らしかったと思います。小2ながらいつも胸の締め付けられるようなエピソード満載だったなあ・・・。
はい。自分の軽薄さを感じない日はありません。勤勉って何?みたいな・・・。ヤバイ・・・ヤバイよね。 ダ・ビンチとミケランジェロだのの伝記っていうかなんやらな20世紀初頭のロシア人らしき人間の書いた小説をよんでしまって・・・。上下巻もあったり・・・字も案の定モノスゴイ細かいのに・・・読んでしまって・・・。何だか落ち込んだ。図書館でビンチさんとミケランジェロの別個で書いてるものとかも読んでたんですが・・・。ミケさんは、生意気で自信満々だけど小心だったり家族に振り回されたり、実際であったら「愛されない」とか書いてる人間にまでいわれていてさ・・・天才に違いないだろうけど生活はそれほど理解できない人間でもないというのが世の中の流れのようでした・・・。親兄弟の金の無心やら親がボケて「息子に追い出されたじゃ〜」と街であることないこと叫んだり、そんな被害妄想を自分もオヤジから受け継いでいたり・・・容姿にコンプレックスがあったり・・・人間してるんだよなあ・・・。ひねた性格なのに男女とわず美人が好きで中身を見ようとしなかったり・・・。詩をかいたり、ラテン語やギリシャ語も解するとかも自慢だったらしい・・・文型か・・・。その逆でビンチさんはラテン語もギリシャ語もできなかったらしいよ。発明王だし解剖学の先をいってるとかとあわせると超理系?この人はホントなんなんでしょうかね。コレが欠点ですよってのは、物事を完成できないくらいで、あと無いんじゃないですか?どいつもこいつも嫉妬でもしないかぎり彼はステキだと褒めちぎってやんの。やることなすこと正直いって不気味でちょっと怖い・・・いやかなり怖いと絵を見ても発明や解剖のスケッチを見ても思うんだが。今、現代ならさ〜別に怖いとか言われる筋合いない事も含まれてますが、ビンチさんの時代かと思うと相当じゃありませんか?でも、その不気味さがたまりませんね。昔、ビンチさんは実は魔女である母親がつくったモムンクルスだっていう短編を読んだことがあるんだが・・・スゴイイカシテタ!!と今なら思う。もお、記憶すごい曖昧。初期ルネサンスの錬金術師パラケスス?だとかいう人がビンの中に小さな人造人間を作りましたよって話があるらしく、ルネサンスとか錬金術とかあながち時代がごちゃごちゃという事もなかったのだなあ〜と思ったり。ビンチさんは私生児でビンチ村の良いとこの息子さんが田舎娘に生ませて子供だけ引き取ったという子供らしいんですな。時代やら考えたらそれほど気にするもんでもない出生(むしろ父方では可愛がられてたみたいだからいいんじゃ・・・)なわけですが、どこか謎めいてるというふうにかけなくも無いという。そして、ビンチさんはボッティチェリのなんだかの絵でモデルだとか言われてたりするぐらい美しかったそうで・・・。それはもお、みんな褒めちぎりすぎで。亜麻色の髪(と、ヒゲ)で水色の瞳をしており背が高くすばらしい体格なんだとか。顔も女性的な美しさを持っており手もほっそりとして美しかったらしい・・・。子供のときから冷静でその冷静さが常であり対象を無機質に見つめることができる。とか妊娠五ヶ月の胎児のスケッチってのが有名らしいですが、生命の誕生に興味深深だとか。あんなに美しかったのに在るときから急速に老けておじいちゃんになるのが早かった。といった要素をオカルトに味付け変換してたホムンクルス版。それこそ上下巻くらいの量で読みたい。 ロシア人?が書いたと思しき小説もそうとういかれてましたがね〜。みんなビンチさんが好きすぎてどうかしてしまう話だと思った。弟子達が先生に振り回される話というか・・・先生の内面が語られると言うよりは弟子があれやこれや勝手に惚れたり、反キリストだ!!とビビったり、好きすぎて逆らわずにおられない弟子とか、ソイツを先生の悪口いうから嫌いだ!とか思ってるのに一緒にのみに行って又いじめられる弟子とか色々いました。先生の晩年まで二人の弟子はついて行き遺品も譲り受けるんでした。その点でも弟子視点で正解だし、ダ・ビンチの考えてることなんで書けるかコノヤローというところでしょうか。話それますが、それにしてもダ・ビンチの秘密ノート・・・ビンチさん死後しばらくはそっくりそのままあったらしいんですが、妙なやる気を出したやつに「整理」され、原稿がいくらか処分されてるらしいですね・・・・・。ここにもシンドラもどきが!!!!
はい、こんにちわわ。祖母がそうとうボケてきたらしく、痴呆というまだ見ぬ恐怖にちょっとガクブルぎみです。 いろいろ事情があり、家に来る可能性もあるので〜どうなるかなあ。 まあ、自分の祖母なので見られる限りはなんとかしたいものです。いや・・・すごい不安だけどさ。 ますますプー太郎なんてしている場合ではありません。 仕事に就かなければ逝けませんね・・・。 あはは・・・。 オヤジの方は長生きでも妙に頑健でボケたりもしないし80づらいでも自転車乗り回して島を横断しますが・・・母方はボケる・・・!! もお、母も自分もボケるだろうなあ〜・・・。という人の哀しみにガクブル気味です。まあ、順番ですよね。はい、そうね。
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