楓蔦黄屋
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読ませることを何も考えていない。
日々思っていることをただ吐き出す。 指で言葉にする感覚。 そうするとポエムっぽい。
今までの日記とテイストがまったく違って 恥ずかしいけど 慣れてきた。
なので毎日書けるかと思いきやそうでもなかった。 一日があっというまにすぎていく。 夜になると眠い。きのうは眠すぎて日記のことを思い出さなかった。
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下手したら10年ぶりぐらいにDVDをレンタル。 昔は毎日のようにTSUTAYAに通っていた。 最寄り駅にあったTSUTAYA。 いろんなものを観た。楽しかった。
DVDをわざわざ借りる、という行為自体がエンタテインメントになっている。
口にだすときはエンターテイメント、なんだけど、 指で打つときは指がエンタテインメントにムリヤリしている。
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ジブリの「かぐや姫の物語」。 ずっと観たかった。
めちゃくちゃ面白かった。 そして心にしみいった。
人間の世に生まれたいと願うことが罪。 人間の世に生まれることが罰。
罪と罰の中で、それは罪でも罰でもないと声を大にして叫ぶ。
生きてた。
羽衣を着せられて、言いたいことを遮られるかぐや姫。 だけど言い切ってしまわなくてよかった。 言い切らなかったから、彼女の中に残って、それが地球を振り返らせた。
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筆のタッチ、すごくよかったけど、 一方でときたましりあがり寿っぽい線に見えて、 ギャグ感がすごかった場面がいくつかあった。
それが台無しとかそういうのでなくて、 いろんなものが自分の中にはあって、 感動も笑いも共存してるんだからそれでいいじゃないという話。
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それの他にもうひとつ借りたDVDがあって、 まあ期待はしてなかったんだけど全然面白くなくて、 あああ本当に腐向けは俺には合わないな!と思った。
腐向けだからしょうがないけどだって女の子が全然可愛くないんだもん。
かといってステレオタイプな百合もそんなに興味がない。 自分が描くのも一方的な片想いものが圧倒的に多い。
あくまでファンタジーの話です。
肩だの腰だのが痛くて始めたYouTubeでのエクササイズ。
どのチャンネルでも何の運動でもいいから 毎日10分やろう、と決めてから3ヶ月。 体重も体脂肪もさして減らないが、増えもしない。
2ヶ月半ぐらい経ったところでハデに身体を痛めたものの それが治ってから、また再開できている。
世の中にはほんとに、いろんなことを発信してくれる人がいて、 本当に助かっている。
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書くことがないので窓をあけて外をながめる。 スカイツリーが白と紫で交互に入れ替わって光っている。 きれいだなあ。毎日見ても飽きない。 私はスカイツリーが大好きだ。 東京タワーも好きだけど、スカイツリーのほうが まだ建設途中のときに見に行ったり、そのときスカイツリー型のペットボトルの水を買ったり、 なんだかんだ毎日目にしていたりしてなじみ深い。 里帰りしたあとなんかに東京に戻ってスカイツリーを目にすると、 「ああ帰ってきたなあ」とホッとする。 生まれ育った土地よりもホッとする。
冬なのでとにかくビルの赤い灯りがきれいだ。
空が冬になってきた。 去年の暮れに、この窓から眺めた空に似てきている。
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生まれてきてくれてありがとう。 出会ってくれてありがとう。 お誕生日おめでとう。
「たべる生活」。
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ごはんは大切だ。
そしてごはんを作るというのはとても大変な仕事だ。
人の健康に直接作用する仕事。 人の味覚を喜ばせる仕事。 人に、ごはんの楽しい思い出を作る仕事。
私はごはんを作るのが苦手で、 でも苦手だという自覚がなく、 そして知識も経験も足らず、 ごく最近まで本当に、本当に台所に経つのが苦痛だった。
でも少しずつ、いろいろな失敗や後悔や諦めや再生を積み重ねて ごく最近ではあるが、ごはんを作るということに向き合えるようになっている。
ごはんを作るのが楽しいとか、そういうことではない。 ただ、ごはんを作るということ。 そして食べさせるということ。 それを、知ること。
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この作者さんの本は昔からとても好きなので 今回も楽しく読めると思っていた。
が。
母親がどうのこうの、子どもがどうのこうのという部分で どうしても気持ちがとっちらかってしまう。
「ああ、いるよねこういう人」と思ってしまう。
「こういう、庇護が必要な子どもが好きなだけで、 その母親のことは好きでもなければ興味もない人」と。
昔読んだ、おじいさん医師の育児書を読んだときもそう思った。
赤ちゃんや子どものことはとても好きで、慈しみかたも知っている。 でも母親のことには興味がない。
「他の人には優しいのに、自分の夫にだけきついお母さんがいる。なぜだろう」 というようなことが一行だけ書いてあって、あとはそのことにいっさい触れずにその本は終わった。
そのことが妙にひっかかったし、それ以上その育児書を読む気はなくなった。 何の役にも立たないと思った。 その一行が、実はものすごく根深い問題を抱えているのだと知ったのは、子どもを産んで数年経って、 田房永子さんの本を読んだときだった。 その育児書を頼りにしなくてよかったと思った。
今回の「たべる生活」でも、そのおじいさん先生に感じたことと同じことを思ってしまった。
そういう人は、本当に子ども好きと言えるのだろうか。 子どものことを考えていると言えるだろうか。
だって、年齢を考えれば、そのお母さんこそが彼らの「子ども」である世代なのに。
自分に一番近しい子どもであるはずの人たちを ただ「母親」と呼び、 その行動に頭をひねるだけで、深追いしようとしない。
「母親」と呼ばれた彼女たちだってたしかにかつては子どもで、 そして育てた親は、自分と同じ年代なのだ。 あなたたちが理解できない「母親」を育てた世界を作ったのは、あなたたちではないのだろうか。 それとも、自分は少しも責任がないとでもいうんだろうか。 自分が育てたわけではないから?
ならばあなたたちの書いた本は、ただの子育てのいいとこ取りではないのか。
子育てのいいとこ取りをする人は、結婚出産育児をしているいないに関わらずいる。 子どものためになっている自分が嬉しいのだ。 愛されたいのだ。子どもに。
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…と、余計な憤りを感じてしまって、 肝心の楽しい食の話が何も頭に入ってこない。
私はこの本が求めている読者ではなかったということだ、きっと。
かつて 「見えてる世界がもう違うのよ」 と言った母の言葉がまた心にじわっと広がる。
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おみやげに、自家製の梅干しをもらったので 大葉といっしょに豚肉をあえて、エリンギといっしょに炒めたら美味しかった。
今年漬けたばかりであろう、生梅の感触が残る梅干し。
2020年11月08日(日) |
乙卯・山茶始開・星の子 |
「星の子」を読んだ。
事前にいろいろ情報を仕入れてしまったせいで 自分で読み解くということをせずに ただただ淡々と読んだ。
でもよかった。
優しい世界だった。 ちひろちゃんを芦田愛菜ちゃんで読んだからなおさらかもしれないけど ちひろちゃんがまず可愛かった。
ちひろちゃんが可愛くて、お姉ちゃんのまーちゃんも可愛いから、 両親が娘達を可愛いと思う気持ちに同調してしまって、 両親がひどいことをしているという気持ちにはあまりならなかった。
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「朝が来る」で、子どもがいること、育てられることの幸せを感じる。
でも「おらおらでひとりいぐも」で桃子さんが言った 「自分より大事な子供なんていない」も、ほんとうだと思う。
親子、ときいて想像するのは、小さい子と手をつないでいる親の姿だけど、 でも実際は、子どもが成人してからの時間のほうがずっと長い。 ならば、いっとき一緒にいるぐらいに思ったほうがいいのではないかと。 その言葉が、やさしい色合いをした白い石のように、心にコトンと置かれている。
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ちひろちゃんは食べることに貪欲で、 何年かに1回の法要のお弁当を楽しみに生きていけるような子で、 両親はもう、ちひろちゃんが何を食べても文句を言わないのなら、 ならばこの先もちひろちゃんは、けっこう強く、うまく生きていけるんじゃないかと思った。
ちひろちゃんがもし、おじさんのお家に行こうと思っても、 両親は反対しないだろうし、 もしそうなって、おじさんのお家で暮らしても、 ちひろちゃんの考え方は、そんなに変わらないんじゃないかと思った。
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むかし、宗教の勧誘にきたクラスメイトがいた。 そのときの、熱に浮かされたようなその子の目を今でも覚えている。
そして大人になってからも、 彼女のような目をした人に何人も出会った。 そしてその人たちはべつに、宗教にハマっていたわけではなかった。
熱に浮かされたような目をした人はいっぱいいる。
私もきっとそういう目をしていた瞬間が何度もある。 覚えがある。 これからもあるかもしれない。
上手に、しなやかに、かわしていきたい。 人のことも。自分のことも。
2020年11月07日(土) |
甲寅・立冬・おらおらでひとりいぐも |
映画「おらおらでひとりいぐも」を観たよ。
爆泣きでした。
いい映画だった。
自分の中に何人もいろんな人がいて、 彼らがいつも話しかけてくる。自分と会話する。 過去の自分も、いつもそばにいる。
私はそれを自分だけがそうなんだとずっと思っていたので、 まえに舞台「愛犬ポリーの死、そして家族の話」ではじめて その現象は他の人にも起こりうることなのだと知って 驚愕して、そしてまるで自分の人生をビデオで観ているような感覚に陥って 爆泣きしたことがある。
だから今回も、桃子さんが同じような人だと知って 「ああ、あるあるこの感じ」と終始こころのなかでうなずいていた。 年をとるとそれが顕著になっていくパターンもあるんだ、と知る。
自分のなかのたくさんの、 きっとはじめは自分をつくる一要素だったものが 年を重ねるにつれてすっかり自分になった、自分たち。 思い出。過去の自分。 彼らがにぎやかに、背中を押してくれて山道をのぼるシーンで爆泣き。
昔、娘のために夜なべして作ったスカートを、本当はイヤだったんだと言われたと 酔っ払いながら言うシーンで爆泣き。
雪の帰り道にマンモスを連れて歩く桃子さん。
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今住んでいるこの場所が終の棲家かもしれないし、そうでないかもしれない。 いずれにしろ、年をとった自分はどんな気持ちで世の中をながめているのだろうと ふと思う瞬間が、やけに多くなった。
不惑を前にして、少しずつ心がおばさんとしての自分を受け入れ始めているからかもしれない。
その矢先のこの映画。 桃子さんには共感する部分が多くて、 鵜呑みにはしないにしろ、この先のヒントをもらったような気がして心強かった。
はじめてつきあった人と、そのまま付き合い続けて結婚できた。 桃子さんの言葉を借りれば「惚れぬいだ」人に、おそらくなるだろう。
どういう別れ方をするんだろうと思う。 自分が先に死ねたらいいけど、とも思う。 でも先に死んだらむこうが本当に可哀想だな、とも思う。
むこうが先に逝ってしまったら、私はほんとうにひとりぼっちで、 誰とももう言葉が通じなくなる。
そのときにどうすればいいだろうと、常日頃思っている。
そのときがきたら、桃子さんのことを思い出せるんだろうか。
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映画があまりにも面白くて、帰りに寄った本屋さんで原作の本を買った。 原作が読みづらそうだったらやめとこうかなとも思ったが、 ぺらっとめくって一瞬で読みやすいものだとわかったので即買う。
そして「朝が来る」と「星の子」も買った。 ふたつとも観たくてまだ観られていない映画の原作で、 もしかしたら上映期間が終わってしまうかもしれないなと思っていたので がまんしきれず買ってしまった。
群ようこの新刊らしき本があって、 私はさいきんになってようやく「ごはんをつくる」ということに 興味が出てきたのでそれも買った。
ひさびさにたくさん紙の本を買った。
子どもへのお土産にこれまたたくさん本を買って、けっこうな額になってしまった。
自分の本は、家に帰ってあとで電子で買ってもいいかなと一瞬思ったのだが、 いんや待ちきれない!と思ってそのまま買った。
この「待ちきれない!」が満たされれば 紙だろうが電子だろうが、媒体はどっちでもいいと思う人間なんだな私は、とつくづく思う。
バスを待つわずかな時間で読む。 外で読むなら意外と紙のほうが読みやすいんだな。
私の職業を知った、知り合いの人からこないだ 「紙の本はやっぱりなくなってほしくないですよねえ」と言われた。 社交辞令だなーとわかったので、「いや正直どっちでもいいです」とは言えなかった。
木板でも石板でも、黒板でもホワイトボードでも、 どっかの道や壁にかかれてても、 面白ければ私は読むし、それでいい。
紙の本を求める人は、自分の人生の一冊がほしい人であり、 特にこだわらない人は、そこに書いてある情報だけがほしいんだと とある本で読んだ。
うるさいな。と思う。人の楽しみに水さすな。と思う。
しかし出す側の立場だと紙のほうが嬉しい。まだ、紙が嬉しい。
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原作の桃子さんは、映画よりももっと根深い問題を抱えていて、 これをもし映画でも描いていたら、印象がずいぶんちがっただろうな、と考える。
この映画のいいところは、桃子さんを外側から眺める視点が多いところだ。 いわゆる「よく見かけるお年寄り」感を出しているところ。 何も考えずにただ生きているという雰囲気を漂わせておいて、 内側は、若い皆さんよりももっともっと多層になっているんだよ、というギャップ。
私の中のたくさんの人たちはもっと増えるのかと思うと楽しみになった。
これを映画にしてくれた、すべての人にありがとうを言いたい。
エンドクレジットで「監督:沖田修一」の文字をみて、あれっと思った。 調べたら「南極料理人」の監督でビックリした。 私の一番好きな邦画の監督だった。
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桃子さんは、地球46億年の歴史に想いを馳せる。 猿から人間になろうとした生き物の、その最初の歩みが 自分にも宿っていることを感じている。
私もたまにほんのちょっとだけ馳せる。 でもふだん馳せるのは、せいぜいが江戸時代あたりまでだ。
自分の遺伝子に刻み込まれている、顔も知らない自分の祖先の人格が ときおり顔を出しているのかもしれないと思う。
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一人称のあり方も、ああそうだな、と感じるところが多かった。
私は、自分の考えや感情を的確に相手に伝えたいとき、 その内容によって口調を変えたほうがしゃべりやすいのだが、 その口調によってさらに一人称も変える。
「私」のときもあるし「あたし」もあるし、 「僕」にもなるし「俺」にもなる。 すべて口調が変わる。
そのほうが頭の外にでてきやすいから変わる。
でも、変えて話す相手はこの世でただ一人だ。 他の人には正直、伝わろうと伝わるまいとどうでもいいと思っている。
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その勢いで「朝が来る」も読む。
爆泣き。
子どもを産めたこと。子どもを育てていること。 それがこんなにも得がたく幸せなことだと、心の底から実感する。 贅沢すぎるほど私は贅沢なのだ。
これの映画、しかも監督は「あん」の河瀬直美さんだ。 (だからプライムに出てたのか) 映画を観たらきっと、件のつまんない映画の古くささなんて風の前の塵に同じだ。 観たいな。
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「星の子」はこれから読む。
楓蔦きなり
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