先週、急性虫垂炎で入院してました。 最近は強力な抗生剤ができ、「盲腸なら手術」は一昔前の話とか。 激痛で苦しみました。
さて、私の嫌いな清原選手が、私の大嫌いな長淵とタッグを組んで 引退セレモニー。嫌がらせかと思ったら、結構客が入っている。
マスコミもなぜか悪口をかかないが、 清原選手は高卒一年目から、成績は右肩下がりである。 つまり努力のあとがないのだ。指導者に恵まれなかったことも あろうが、若くして大金を手にして、世の中を舐めたままの 生活態度は、プロ野球選手としては最低だ。 身なりも不潔で常識がない。三振が全打席の25%を占めており チームプレーヤーとしての片鱗もない。自己満足のフルスイング は、もっと非難されるべきと思うが。
長淵は、書くのももったいないが、薬で捕まった前科者である。 さらに異様な東京コンプレックスをもっており、それが彼の 原動力になっている、みたいな笑えない(笑える)ような存在。 私の大好きなサザンの桑田とケンカしたことがあったが、 歌のウマいサル、そのものである。 やたらと説教臭いのも、ますます怪しいオヤジである。 特に湘南地方では、ダサい(死語)の代名詞。
この二人が、大球場の真ん中で、歌い挨拶するシーンを 公共の電波に乗せるとは冗談にもならない、教育に悪い。 この二人にはどこかの田舎で、「トンボ」でも歌っていてほしい。
なぜ、こういう批判がでないか、客さえはいればいいのか?
普通にサラリーマンなんだけど。
会社サボッって、退社した人妻とランチして セックス。夕方は、少し反省の気持ちで 上野で日光・月光菩薩を鑑賞。
ある日は、またまた会社サボッて また違う人妻と昼からワインと鮨。
またある日は、またまた別の年上女性(これは独身) と丸の内コットンクラブへ、梯子し午前様。
またまたある日は、これまた違う女性と 青山のジャズクラブへ。ここでは本気に口説くが 途中で酔い過ぎ、意識不明。
と思えば、休日はテニスでちょっとしたトーナメントに 出場し優勝。
止まらない、止まらない、この世は夢か現か。。。。
長野で聖火リレーが行われた。 それはスポーツと平和の祭典の祝福とはかけ離れた 歪なナショナリズムの誇示の場であった。
世界で最も大きな影響力を持とうとしている中国。 実は、世界の嫌われ者である。 なぜかと言えば、平気で嘘をつき、決して謝らず、 なんでも他国のせいするからだ。
そして、環境問題から見ると、地球そものもが この厄介な大国のせいで危機的状況に陥っている。
櫻井よしこ著「異形の大国 中国」(詫びず、認めず、改めず) は、一読価値あり。中国の「やり口」に気分が悪くなるような 事実が、客観的事実と取材を基本に丁寧に書かれています。
第一に、中国には「人権・平等・民主主義・環境」といった 21世紀の大国として世界共通の基本理念となる理想が すべて欠落している。あるのは軍事力と人海戦術による 狡猾な国家戦略のみ。歴史事実の歪曲、事実の歪曲(最近では ギョーザ事件など)、人権の蹂躙、一党独裁の言論統制、 野放しの公害など、それらを一切改めず歪なナショナリズムを 煽ることで、自国民も欺く。。本当にいやな国だ。
人生の敗残者になるのは、負けたからではない。
負けたあと、挑戦をあきらめたときに敗残者になるのだ。
・・・・・少し頑張ってみよう。
2月に入って、とても調子が悪かった。 鬱状態だった。
日記を書くこと自体、自分を客観視できる心の余裕が 必要な行為であり、儘ならなかった。
体も動かしたくないし、仕事にも身が入らない。 欠勤も多かった。
人間失格の十字架を背負ったようで、自己嫌悪と 倦怠感で’灰色’な毎日だった。
自分の持病とか、性癖とかに正面からまともに 考えてみたところで、何も解決しなかった。
そもそも人生は’悪しき冗談’みたいなもので 自分はそこに何を求めているのだろうか。
とても’欠乏’しているわけではない。 金も決してたくさんではないが、暮らすには十分ある。
美人?な妻がいて、出来のいい(親ばか)こどもがいる。
これ以上なにが必要なのか?
苦痛・病苦・老い・落胆・喪失などは、避けることができない。 また、自分だけでなく、多くの人が経験することである。
いつまでも足踏みはしてられない。したくない。 深刻なことを、深刻に受け止めても、ユーモアをもって 取り組んでも、大した差はないのだ。
苦悩を突き抜け、歓喜に至れ!
・・・・躁転か?・
寒いのはいや
10歳の息子が塾へ通っている。 私の子供時代と違って、彼は勉強が苦痛 ではないらしい。
塾の無い日は、予習復習を夜10時過ぎ までやっている。
文武両道ということで、テニスも習っている。 こちらも半端ではない。 コートでの練習前に1時間くらい走りこみ をして、ようやくラケットを握り、コーチの球出しボールを 何百球と打つ。
勉強もテニスも、なぜやるのだろうか?
そもそも親である私は、何故働いているのだろうか。 いまでは、自己実現とか社会への奉仕とかの理想は 彼方に消え、生活のために、なんの達成感もなく 働いている。
そういう親が子に向かって、勉強とは、スポーツとは 説くことは可能だろうか。
努力は裏切らない、とか 可能性は無限だとか、塾では何と言っている のだろうか? 競争で勝たないとだめだ、とか。
いまの自分に言えるのは、 一生懸命やったなら、勝利が手に入るかは 保証されないが、何かが残る。
その何かは、はっきりやってみないとわからない。 だから、本当に嫌いなものはやらないほうがいい。 こんなところかな。
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