六本木ミニだより
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■転居の連絡を始めたので、ぽつらぽつら、反応がきはじめた。その多くが「お食事しましょ!」で、嬉しい悲鳴。
■なんてったって、観光地だもんな、ここ。それに、みんなが寄りやすくなるように、選んだ場所でもあるのです。ここならずいぶんたくさんの人が、仕事帰りに「ちょっと」寄れる。大江戸線の開通で、新宿方面の人が近くなったのも嬉しい。
■千葉敦子が、六本木近辺に住む利点について「10人以上の親しい友人が、歩いていける距離に住んでいること」と書いてあって、それこそ目からウロコだった。友達の家に歩いていける、なんて、おとなになってからはすっかりあきらめるべきこと、と思っていたから。でも、考えてみたら、おとなになって、住む場所も、つきあう人も、選べる歳になったからこそ、みんなと交流できる場所に住むことができるんだよね。
■やっと仕事再開! で、本日は校正中。でも、年末は楽しい予定で手帳がうまりつつあります。
■今回の引越しで、ずいぶんいろいろなものを捨てた。捨てるのは嫌いなので、なるべく売ったり人に譲ったりしたのだけれど、間に合わないものもずいぶんあった。
■なかでもいっぱい捨てたのが調理道具。14年間使ってきたフード・プロセッサーを初め(14年以上前にそんなものがあると私に教えたのはもちろん千葉敦子)、お菓子作りの道具やら、やっぱり14年前に買ったオーブンやら、とにかく捨てた。オーブンはここ数年はほとんど使わなかったけど、それでも年に1度、クリスマスのときにだけは、鶏を丸のまま1羽丸焼きにして、パーティを開いてみんなで食べるのは、めちゃくちゃうまかった。タルト型だって、前の交際相手とのデートのときに、何度キッシュを焼いて戸外に持っていったっけ。「ものより思い出」というけど、「ものと思い出」はそう切り離せるものではなく、しばらくこの悼みは続きそうです。
■写真に写っているのは、88年に買ったアイスクリーム・メーカー。母がもうガン末期になっていて、何も喉を通らなくなっていたときに、新聞で新製品の記事を見つけて、これでアイスクリームを作っては病室にもっていっていた。ひとり暮しするときに持って出てからは、会社の帰りに夜、駅で降りると、よく、トラックが来ていちごなんか安く売ってますね(あまり甘くないやつ)ああいう果物は加工すればおいしいので、あれと牛乳と生クリームで、いちごがどっさり入ったアイスを作って食べていた。
■このアイスクリーム・メーカー、いかにも技術屋さんが作った、という感じのおしゃれじゃないデザインだけど(日本軽金属の製品で、商品名はその名も「どんびえ」)、この液体金属を使って冷やし固める、というアイディアは、その後、何年もたってから、ウィリアムズ・ソノマに採用されることになります。
■今回、これだけは難を逃れて妹にあげることになった。今日、古い家を掃除に行って、「人にあげるんだからきれいにしよう」と思って、もう一度、洗った。箱をあけたら、ほのかにヴァニラの香りがした。なんか泣けた。
2003年12月16日(火) |
おそるべき電気店、おそるべきホース |
■六本木交差点から飯倉片町方向に2、3軒行ったところに、ノザワ電気というごく普通の電気店があり、大型店の進出で街の小さな電気屋さんがバシバシつぶれていく昨今、「大丈夫なんかいな、このお店は」と、前を通るたびに密かに思っていました。このノザワ電気店が、六本木の夜の文化を支えているおそるべき電気店だったということは、最近になって、テレビで知りました。
■六本木には、いろいろ内装の凝ったお店がゴマンとあるわけで、そうしたお店は照明器具もそれぞれ特殊なものを使っている。で、その、他では見たことがないような電球の、きれちゃったやつを持った店員さんたちが「これと同じ形の電球、ありますか」と、このお店に駆け込むと、どんな電球でも見事に出てくる。脇役に強い電気店なのです。
■そんなことを知っていたので、今日、洗濯機の延長ホースを買いにこのお店に行きました。案の定ばっちり売っていて、しかもメーター600円のところ、70センチでいいといったら、ちゃんとはかり売りしてくれた。取り付け方も親切に教えてくれました。
■さて、なんで延長ホースを買いにいったかというと、六本木のたいていのワンルームマンションには、洗濯機置き場がありません。みんな事務所兼用だから、1平米でも無駄なスペースは作れないってことで、ないのが普通みたいなのです。私が住むことにしたマンションは、この部屋だけオーナーが壁に水道管ををぶち抜いて、ベランダに洗濯機を置けるようにしてくれてあり、それが気に入って決めた・・・までは良かったんだけど、昨日使ってみたら、ホースが短すぎて、隣の部屋のベランダの方へ水がどんどん流れていっちゃうの。で、「排水ホースなんて延長できるのかな、そうだ、あそこなら何とかしてくれるかも」と思って買いに行ってみた次第。
視力検査の表ではありません。ノズルとホースを接着剤でとめてくれた。明日完全に乾いてからとりつけます。
■このたび、引越ししました。場所は、かねてからの念願だった六本木です。
■きっかけになったのは、new new woman でした。実は、new new woman の「住生活」の最初のコラムを、「いつかは六本木」というタイトルにしようと決めていて、「じゃあ、それはいったい『いつ』なの?」と自己ツッコミいれたところから、今回の移住計画が始まりました。
■私に「六本木なんて場所に人が住めるんだ」ってことを最初に教えた人はもちろん千葉敦子ですが(彼女はこの近辺に長年住んでいました)、私にとって、ロケーションといい、広さといい、間取りといい、引っ越してみて、こんなに嬉しくて、住むことが「ラクチン」と思った場所はないのです! それはたぶん、自分の「暮らしぶり」と、「すみか」がぴたりと合ったということなんでしょう。住生活でこんなにハッピーになれたのは、私にとって初めてのことで、ちょっと興奮しています。仕事も「頑張ろう!」って気になっています。
■「単身で、都会で、仕事場を兼ねて、豊かに」暮らしていくのに、どんな工夫をしているか。楽しく、興味深いレポートができればいいと思い、エンピツをリニューアルしてみた次第。なるべく更新、がんばりまっす。
ベランダの向うはこんな感じ。植え込みはつつじです。結構イメージと違いません?
2003年09月17日(水) |
バッドボーイズ2バッド/S.W.A.T |
『バッドボーイズ2バッド』
眠かった。ていうか寝た。そして、私はこの映画に寝てしまう自分が好きだ。私を静かに寝させてしまうこの映画も好きだ。 この眠気は、「スナッチ」を見たときに感じたのと同じものだ。あのときも、ガラガラドッカンうるさい中で、私はどうしても船をこぐのを抑えられなかったんだっけ。ミソジニーな連中の物語は、勝手にやっていればよい。全然悪いことじゃない。女嫌いのくせに女に「ステキ!」といわれなければアイデンティティを保てない潜在的ミソジニストの方が(例えばジェームス・ボンドとかさ)よほど困る。画面の中に男しか出てこないミソジニストのやることは、私を挑発さえしない。実に平和的だ。あなたたちは暴れる。私は寝る。ケンカにすらならない。そういうのを「住み分け」というのではないですか?
『S.W.A.T』
面白いような、面白くないような。とりあえずコリン・ファレルは、これぐらいきれいにヒゲを剃っているときの方が私は好きですけど。 「面白い」という見方は新しい敵の作り方。市民が警察に協力せず、犯罪者の「俺を逃がせば1億ドルやる」という誘いの方を選んでしまう、ということ。こうなると、もう誰が敵になるかわからない。一応オチはついて犯罪者は無事連邦刑務所に収監されるのだが、その次の瞬間、刑務官が寝返るかもしれない、というワクワク感がある。つまり、「ちゃんと税金払った分、国家はちゃんと俺たちのために働いてくれてんのかい?」という問いが、彼らの行動の指針となっているように見えるのだ。 「面白くない」という見方は、それに対してマゾヒスティックに任務を遂行してしまうS.W.A.Tの面々。そのいい子ちゃんぶりが鼻につく。この人たち、かなりのワーカホリックである。家族団欒のプライベート・タイムにも携帯一つで呼び出され、それがなんだか嬉しそう。大仕事を終えたあともすぐ指令が下ったりして、「しょうがないな、やるか」の裏に「市民の皆さんが誰もわかってくれなくても、僕たち頑張るもんね」という嬉しいため息が混じる。 というわけで、私はその両方を感じながら見てました。隊員の中に女性(ヒスパニック、シングル・マザー)が混じってますが、現実にはS.W.A.Tにはまだ女性が採用されたことはないんだそうですね。それと、悪役の麻薬王に「運命の女」のオリヴィエ・マルティネス。最近、麻薬王にインテリなイケメン(死語)を使うのが目立ちませんか?
1度目に見たときからまったく無視していのですが、どうもこの映画、「ドリス・デイのラブコメのパロディ」みたいなこといわなくちゃいけないみたいなんですね、「プロ」の映画ライターとしては。でも、「そんなの、知らないもーん」という開き直りこみで、私はこの映画が大好き。オチを気にする人の気持ちもわかるけど、私はあまり気にしていない。 昔見たTVドラマだったか少女マンガだったか、「強いフリをして生きていれば、いつか本当に強くなれるのよ」というセリフがあった。そのセリフを聞いたのは、ずいぶん前(たぶん10代)のことだ。私はそのときそのセリフを「残酷だなあ」と思ったし、ここ数年間はとくに、「そんなの、健康に悪いだけだよ」とかなり否定的な目で見てきた。でも、最近、改めて思うようになった。そうじゃないかもしれない、と。 本来の顔とは違う自分を生きようとしたバーバラが、実はそれこそ本物の自分の顔であるかもしれない、と思い始めたとき、この映画は、フェミニストの思想をさえ超越してしまう。多くの心に残る物語がもっている「あるアクシデントに主人公が巻き込まれ、それによって主人公が成長する」ストーリーと同じように、それは、決してアクシデンタルではないのだ。その「事故」は、起こるべくして起きたものなのである。それを、一部の人々は「霊の導き」と呼ぶ。 過去の私のように、強いふりをして疲れちゃった人は、まだ本当に「なりたかった強い自分」に出会えていないだけだと思う。そして、なりたかった自分の姿は、「自分の努力」と、「一見偶然に見える霊の導き」という両親が揃わなければ生まれない。私は、それを感じさせてくれる物語が好きである。
試写状を見たときから、「におう、におうぞ〜、この映画は私を呼んでいる!」と思った映画です。最近ちょー忙しいのに、どうしても書かずにはいられないぐらい、私にとっては問題作です。
作品終了後、宣伝会社の方に、「どうでしたか?」といわれて、「ケイティ、おいしくないですかあ〜?」と叫んでしまったんです。(担当者さん(女性)も、「たしかにそうですね〜」といって笑ってましたが)。ケイティというのはこの映画の主人公の名前で、この映画はいわゆる「ラブ・サスペンス」で、詳しく書くとネタばれするのでそれ以上はかけませんが、ケイティはあまり幸せな女の子ではありません。でも! やっぱり! ケイティはおいしい! 「わたしは鬱依存症の女」の映画評で週刊金曜日にも書きましたが、ときどき、映画には、私の嫉妬をかきたてる女が登場します。ケイティは、そういうタイプの女の子(女子大生)です。 「私の嫉妬を呼ぶタイプの女」の条件、その1、その女は必ず正反対のタイプの男をふたりボーイフレンドにしている。その1っていうかそれがすべてだな(恥)。「私は鬱依存症の女」で主人公のリジーは、「ハンサムでちょっと危険なにおいのする男(ジョナサン・リース・マイヤーズ)」と、「ハンサムだけどちょっと朴訥とした感じで確実に守ってくれそうな男(ジェイソン・ビッグス)」のふたりと付き合ってました。しかし、くだらない指摘ですが、この二人はどちらもブルネットでした。今回は、かたっぽがブロンドでかたっぽが黒髪です。これ、例えば007シリーズでボンド・ガールが二人出てくるときに使われるキャラ分けです(最新シリーズでもハル・ベリーは黒髪でロザムンド・パイクは金髪でしょ)。ルックスにも正反対をもってくる心憎さです。「片方は危険な男、片方は安全な男」っていう図式は変わらないんだけども。(これ、男の「妻は聖母マリア型、愛人はマグダラのマリア型」っていうのと変わらないかもしれない) 危険な方はケイティの大学の同級生で、1年前に失踪した天才、エンブリー。これを、イギリスのティーンに大人気の新人、チャーリー・ハナムが演じ、安全な方は、エンブリーの失踪を探るうち、しだいにケイティにひかれていってしまう刑事、ウェイド。こちらは「デンジャラス・ビューティ」でもサンドラ・ブロックに対して「見守る王子様」(こちらも刑事だったね)をやっていた、黒髪のベンジャミン・ブラッド(苦みばしってますねー)が演じる。ふたりは年齢差もかなりある。ますますおいしいぞ、ケイティ。
さて、この映画でとってもキモなのは、ケイティが、すごく苦労人だってことです。彼女は大学4年生なんだけど、80年代のキャリア・ウーマンが乗り越えてきたような、「他人からの差別も自分の実力で何とかしてきた」みたいな優秀な学生である。名門大学でも合格率は数十倍といわれる、経営コンサルティング会社への内定を、実力で手に入れようとしている。でも、頑張りすぎのケイティの精神は、すでにボロボロになりかかっている。「才はあるのに色はない(映画中では You have no grace オマエはダサい、と訳されている)」というセリフは、自分がその通りだと思っているケイティをいたく傷つける。きっとケイティは、こんなにハンサムな男ふたりを手玉にとった自分は、ちゃんと「grace」もあるってことに、気づいていないのだ。彼女は幸せを認知する力が弱すぎるんです。それが映画の中で悲劇を招いていきます。
……バレバレでしょ、この映画のオチ。私も宣伝会社さんに「オチは見えるような宣伝でいいから、彼女の心の闇に共感したい女性が見に来たくなるような宣伝の方が良かったのでは?」といってしまった。(彼女も納得げであった)。私は、単に謎解きを楽しむだけの観客がこの映画を見にきて、「ケイティって、嫌な女」と思って帰られるのがイヤなのだ。主役を演じるケイティ・ホルムズ、「フォーン・ブース」にも出てますけど、ちょっと内向的な感じがぴったりなんだよね。
アル・パチーノ主演、くたびれた映画監督が理想の女優をCGで作っちゃったら、その女優が大人気になっちゃうお話。 この映画は、たぶん、今の現実とリンクしすぎている。いうなれば、地下鉄サリン事件が起きた後に、『空前のスケールで描くサスペンス超大作! カルト毒ガス殺人事件』を見ても、イマイチ盛り上がらないじゃありませんか。現実の方が超えちゃってる。バーチャルとリアルの境目のなさがもたらす危険に、多かれ少なかれ私達はぶち当たっちゃってる。映画の中で追体験しようという気にはならないのです。 ただし、この映画を救っているのは、バーチャル女優シモーヌを操作して右往左往する監督役のアル・パチーノです。彼が人間臭さを丸出しにした情けない演技がすごくうまい。この人間くささがあってこそ、シモーヌのロボットくささが引き立つ。(シモーヌは本当のCGではなく、スーパーモデル出身のレイチェル・ロバーツが演じていますから)。あと、完全無欠の美、シモーヌに対抗する「トウのたったワガママ女優」をウィノナ・ライダーがやっているのもいい(ぴったり?) ウィノナも人間臭いですからね。ウィノナはいい役見つけたなあ(いや、イヤミじゃなくて)。頑張れウィノナ!
2003年07月24日(木) |
『歌追い人』/『パイレーツ・オブ・カリビアン 呪われた海賊たち』 |
『歌追い人』
「カントリー・ミュージック」といえばディズニーランドと『ブルース・ブラザース』しか知らなかった自分にとって、この映画は衝撃的でした。カントリー・ミュージックの原点。ちゃんとスピリットがある。黒人霊歌ならぬ「白人霊歌」だなあと強く思いました。 100年前のアメリカのお話。音楽学博士なのに大学の象牙の巨塔の女性差別のおかげでなかなか教授職につけない主人公・リリーが、妹を頼っておとずれたアパラチアの山の中で、スコットランドやアイルランドから持ち込まれた民謡(バラッドという)がそのまま残っているのを見つける。歌とのめぐり合いは人とのめぐり合いでもあり、その中で彼女は世界観を変革させていく。「山の民」の中の生活に息づいている音楽がすばらしい。 突然ですが、わたしはこの映画の中でうたわれているバラッドを聞いて、盆踊りで使われる「炭鉱節」を思い出しました。あの悲しい音楽。「月が出た出た、月が出た、あんなに煙突が高いので、さぞやお月さん、煙たかろ」とノーテンキに歌いながら、あれは、過酷な炭鉱労働者の一種の突き抜けた感情吐露なんですよね。自分が炭と熱にまみれているのに、月を思いやるそのやさしさが悲しい。カントリー・ミュージックもそれと同じで、あのノーテンキさは背景を無視してそこだけ切り取ってしまったらわからないものなんですね。「詞書(ことばがき)」が必要、というか。AFNで、日曜日の昼間のカントリー電リクが不滅なわけがわかりました。
『パイレーツ・オブ・カリビアン 呪われた海賊たち』
わたしは、J・ブラッカイマー製作の映画で、久々に面白いと思いました。説教ゼロ。メッセージ性ゼロ。ひたすらに娯楽。『カントリー・ベア―ズ』のときも書いたけど、ディズニーは純粋な娯楽を作らせたら面白いの。説教入れるから臭くなるの。つまり、家族連れの観客に対して子どもの方を向いて作るか大人の方を向いて作るか、っていうことだと思うんです。 呪いをかけられたために死んでも死にきれないゾンビな海賊がたくさん出てくる。殺しても殺しても立ち上がってくるハエみたいな敵、というのは、いつも、J・ブラッカイマーの頭にあるんだろうけど、それを日本軍にしたり、ソマリア・ゲリラにするからおかしくなるんですよ。18世紀のカリブの海賊にすれば、誰もイヤな思いしなくてすんで、みんなで楽しめてハッピーじゃありませんか。彼はこういうところに彼の「うちなる子ども」としての才能を発揮すればいいのでは? イギリス人同士の対立だしさ。呪いの元凶を作ったのは欲深いコルテスだった、ってはっきりいってるしさ。 あのジョニー・デップが「子どものために出た」なんていっちゃって、あーあ、と思っていたけれど、ジョニーは子どものためになんかこの役をやっていない。自分のためにやっている。彼は完全に子どもに返っちゃってます。ジェフリー・ラッシュもかなり返ってるね。ヒーローとヒロインの若いふたりの方が、まだそこまで突き抜けていないだけに力入ってよっぽど大人。作るほうがこれだけ恥ずかしげもなく子ども返りしているのですから、見るほうも、子どもに戻って楽しみましょ。
2003年07月19日(土) |
西本智実さんと松本大さん |
この日記はますますわからなくなってきましたね。とりあえず、生活の中で印象に残った備忘録ということで…
7月19日、「国際女性ビジネス会議」というものに参加しました(グーグル検索で出ると思うので、リンクめんどくさいのではりません)。昨年初めて参加して、すごく楽しかったので今年も申し込んでいたのですが、午前中は祖母の納骨だったので、午後からの参加になりました。 午後の分科会第2セッション「自己ベストを更新する」というのに出た。パネリストがロシア・ボリショイ交響楽団主席指揮者の西本智実さん(女性ですよ)と、、アネックス証券代表取締役社長の松本大さん、司会は実行委員長の佐々木かをりさんだった。 西本さんは芸術家、松本さんは実業家と、職業的にも対極、「自己ベスト」へのアプローチもすごく対極なのが面白かった。西本さんは「自分はコンプレックスの塊で、肯定的な自己を認識したいという渇望から自己ベストを更新していく」、松本さんは、「僕は、人間というのは弱いものだと思っているので、完全肯定から出発する。弱い自分でいいじゃない、というところから出発して、自分がどこまで歩けるかを確かめたい」というお答え。 また、西本さんは、「芸術というと芸術的に聞こえますが、現場で実際にやっていることは算数です。ドレミファの音符を作ったのはピタゴラスです」。松本さんは、「お金の動きは、実は心の動きです。今ここに百人の人間がいるとして、『全員に80万円あげるか、80人の人に100万円あげて、15パーセントの人はなし』というと、ほとんどの人は前者を選ぶ。ところが、『全員がそれぞれ80万円払うか、85パーセントの人が100万円払って、15パーセントの人はチャラ』というと、なぜか後者を選ぶ。確率的には80万円払ったほうがいいんですが。人間というのは、買っているときには安定を選び、負けているときには不安定を選ぶという傾向があります」といっていた。 わたしには、西本さんの「芸術というのは算数です」というのが身にしみた。つまり「技術点」がクリアされなければ、芸術点というのはどうにもならん、ということなんですね。 松本さんの話は具体的には思い浮かばなかったんだけど、「お金の動きは人の心の動き」うん、そりゃそうだよね。もしかして、自己肯定感の弱い人間はバクチを打ちたがる、不安定を求めるっていうこと? ……おーこわ。
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