鶴舞「K.D.Japon」に「百鬼どんどろ 岡本芳一ソロ公演 卍(まんじ)」を観に行ってきた。信州伊那谷を拠点に等身大人形・仮面等を使った独自のスタイルの舞台表現で世界各国のフェスティバルに招待されるなど、高い評価を受けている岡本芳一さんによるソロ公演である。 これが私にはとても面白かった。岡本さんは人形遣いであると同時に自らも演者となって、倒錯したエロスと情念を思わせる舞台を展開。人形や仮面は岡本さんの手によって命を吹き込まれ、妙にリアルに感じられた。それが岡本さんの身体表現とあいまって、独特の世界を作り出していた。現代風の文楽のようでもあり、仮面劇のようでもあり、また暗黒舞踏を思わせる場面もあった。おどろおどろしさの点では「劇団pHー7」とも共通するが、日本の古典的な物語世界をも思わせる展開は「スーパー一座」の「ロック歌舞伎」とも通ずるものを感じた。私は、それを「ロック文楽」と名づけてみたいと思った。
2006年05月02日(火) |
詩「嵐を呼ぶ男〜山本秀雄の場合〜」 |
「うんこ、出んのだわ」 「えっ」 「うんこ、おとついからずっと出んのだわ」 山本秀雄さんは私の顔を見るなり、 「おはよう」のあいさつもないままに、 「うんこ、出んのだわ」 その後も立て続けに、 「うんこ、出んのだけど、大丈夫かな?」 ご丁寧に食事の時にも、 「曽根さん、うんこ出んもんだで、食べれえせんのだわ」 などと言うものだから、 同じ食卓を囲んでいた和子さんが怒り出す。 「山本さん、みんなが食べているのに、なんで『うんこ、うんこ』言うの。気分、悪いわ」 「そんなこと言ったって、出んから『うんこ、出ん』言っとるんだわ。そんな怒らんでもええがね」 「何言っとりゃ〜すか、このおたんちんが」 「おたんちんじゃにゃ〜わ」 「おたんちんだわ。おみゃ〜さんみたぁのがおるもんで、世界はいつまでも平和にならんのだわ。たいがいにしとかないかんわ」 その時こらえきれずに二郎がケタケタ笑い出す。 「何がおかしいんじゃ、二郎。人がうんこ出んで苦しんどるのがそんなおかしいんか。もう、ええわ。みんな、どっかいなくなってまえばええんじゃ」 そう言って自分の部屋に入ったまま、出てこようとしない山本さん。 和子さんが山本さんの部屋の前に行き、ドア越しに、 「山本さん、わし、言いすぎたわ。ごめんな。許したってもらえんかね」 ドアがガラッと開いて、 「まあ、ええよ。和子さんがそこまで言うんなら、曽根さんに免じて許したるわ」 私は笑いをこらえながら、心のなかで突っ込みを入れる。 「『曽根さんに免じて』って、わけわからんわ」 結局その日、山本さんは、うんこが出ないままに夜を迎える。 「おやすみ」 「おやすみ」 「おやすみ」 「おやすみ」・・・
夜中に、目がさめて、トイレの前まで行くと、中から山本さんの弾んだような歌声が聞こえてくる。
おいらはドラマー、やくざなドラマー おいらが叩けば、嵐を呼ぶぜ
水洗の流れる音が聞こえたかと思うと、ガラガラッと戸が開いて、山本さんのゆるんだ顔がのぞいた。 「うんこ、出たよ。たくさん出たで、具合ええよ」 「よかったね、山本さん」 「みんなにも報告してくるわ」 「え〜っ、山本さん、まだ夜中だからみんな寝てるよ」 「おっ、そうか。じゃあ、朝ごはんの時でもええか」 「それもやめたほうが・・・」と言いかけたが、何となく言いそびれてしまった。 「山本さん、まだ朝まで時間あるから、眠ったらいいよ」 「そうだな。じゃ、おやすみ」 「おやすみなさい」
おいらはドラマー、やくざなドラマー フン、フン、フン、フ、フン、フン、フン、フ・・・
窓の外、真夜中の空にぽっかり浮かんだ、まあるい月。 山本さんの歌声が、楽しげにいつまでも響いていた・・・
*先日、夜中に目が覚めると、不意に「うんこ、出んのだわ」という言葉が浮かび、そこから一気に詩を書き上げた。最初は『うんこ、出んのだわ』という題名を仮につけていたのだが、何となくしっくりこなかった。二日ほど間をおくと、新たなアイデアが浮かんだので、修正を加え、『嵐を呼ぶ男〜山本秀雄の場合〜』と改題した。 福祉の仕事に従事するようになって通算すれば約15年。その経験のなかから今回の『嵐を呼ぶ男〜山本秀雄の場合〜』という詩が生まれたと言っていい(現実の出来事をつなぎ合わせてデフォルメしている。また、登場人物は私=曽根を除いてみな実在しない人物、と考えていただきたい)。とりわけ、「知的障害」をもつ人数人と送った共同生活の日々は、私の心に多くのものを刻み込んだ。 気がつけば、私もいつの間にか、名古屋弁を自然にしゃべっているではないか。予想すらしなかった事態に、私自身、とても驚いている。
2006年05月01日(月) |
「水俣病公式確認50年」 |
水俣病公式確認50年にあたり、犠牲者慰霊式(5月1日)が行われた。式において小池百合子環境大臣が被害者に対して謝罪を行ったが、結局小泉純一郎首相の参列はなかった。これまでも慰霊式に首相が参列した例はない。だが、水俣病関西訴訟最高裁判決(04年10月)で国の責任が認められ、しかも公式発見50年という節目の年である。小泉首相に水俣に来てほしいと願うのは、被害者のみならず地元の素朴な思いであろう。 「公害問題の原点」などとも言われる「水俣病問題」だが、実のところは「地方の一地域で起きた不幸な出来事」ぐらいの認識でとらえられ、黙殺され続けたのではなかろうか。しかし、同じような過ちが繰り返されぬ保証はなく、次なる被害者は自分自身かもしれないのだ。 ニュースで報道された小池環境大臣の謝罪の言葉が空々しく聞こえてしまうのは、たぶん私だけではあるまい。
2006年04月30日(日) |
「続・ぽえ茶」&「ち〜One」 |
今日の昼下がりは、毎月恒例の「続・ぽえ茶」(熱田「coffee TOSHI」にて)。今回は関西からみきさん、関東からあしゅりんさんも参加。人数も多く、いつも以上の盛り上がりを見せた。 私は、沙羅双樹ふたたびの連詩「続・梅林バラード」、夏撃波最新作「うんこ出んのだわ」(後に改稿し、「嵐を呼ぶ男〜山本秀雄の場合〜」と改題)を発表。
「続・ぽえ茶」終了後は、藤が丘「WEST DARTS CLUB」にて開催の「ち〜One」なるイベントに出演。15分の枠内で、音楽、演劇、詩の朗読、ダンス、お笑い、パフォーマンスなど表現方法は自由、とのこと。弾き語りが多かったが、バンド&タップダンス、ポエトリー・リーディングなどの表現も見られた。 私は、まず挨拶代わりに自作詩「うんこ出んのだわ」を朗読。次いで、オリジナルソング「星ヶ丘ロケンロール」、ゴスペルの名曲「アメージング・グレース」を演奏。初めての場所でもあり、非常に緊張したが、いつもと違った客層を相手に刺激的な時間を過ごした。やはり何事もマンネリ化を破ってこそ、進歩があるんだよね。身体は疲れたが、一方でとても気持ちよかった。
2006年04月29日(土) |
「Birdー5 そこを越えて」 |
夕方、鶴舞「K.D.Japon」へと出かけた。ポエトリー・リーディングのイベント「Birdー5 そこを越えて」が開催されていたのだ。 加久裕子、若原光彦、ツバキ嬢、鈴木陽一レモンといった、おなじみのメンバーに加えて、弾き語りの平林明生、そして現役中学生のこうみれいが出演。みんながそれぞれにメッセージを伝えるべく工夫したステージングを展開。平均年齢23.5歳と伝え聞いたが、若々しさがいい形で現れたイベントだった。 私自身は、オープンマイクで参加。ミンミンを演奏しながら、自作詩「雨の柳ヶ瀬」を朗読し、続いてスタンダード曲「アメージング・グレース」を歌った。
2006年04月28日(金) |
連詩「続・梅林バラード」(by沙羅双樹ふたたび) |
(沢田研二「TOKIO」より) 空が飛ぶ 街が飛ぶ 雲を突き抜け 星になる 火をふいて 闇を咲き スーパーシティーが舞い上がる TOKIO TOKIOが二人を抱いたまま TOKIO TOKIOが空を飛ぶ
(みおよしき) むにゃむにゃと言葉をかわす二人 「あれって、ジュリーだよね」 「僕、知らない」 「私、知ってるけど。ごめんね、年上で」
(双樹) 「だいぶ歩いたね。どこかで休もうか」 「どこかって?」 「えっ、何か誤解してない? 別にホテルとかじゃなくて、どっかベンチにでもって・・・」 「そうね。私、[くたくた]だし、この辺で[お花見]するのもいいよね」
(沙羅) 「ねえ、あれ見て。すごくきれい」 「ああ、いい色だね」 「何て言うんだろう」 「ハナミズキだよ」 「あ、そうそう。・・・あれ? なんだか去年も同じ事きいた気が・・・」 「ん? 去年の今ごろはまだ、僕たち、知り合ってないよ」 「・・・」 彼女は[びくっと]した。
(双樹) でも、彼のほうはさほど気にとめるふうもなく、[がさごそ]とかばんから[野球]のグローブふたつとボールを取り出した。 「あなたと心のキャッチボールをしようかと思って」 などと言った後、顔を赤らめる彼。
(沙羅) 彼は、物事を悪い方向には決して考えない人だった。それは、想像力に欠けるという見方も充分に可能ではあるが、人の悪意を「悪」とはとらえず、「弱さ」としてまずは許容する力を無意識にも秘めているのだろうと、彼女は感じていた。時々、会話の途中でふと黙り込む彼は[ぽーっと]した顔を見せたかと思うと、とんでもない方向に話を切り出す。友人は「テンネン」と密かに呼んでいるらしい。つまり[認定書]発行済みのキャラらしい。 「私のミットめがけてボールを投げてよ。これ、キャッチボールの基本でしょう」 彼女は心の中で突っ込みを入れる。だが、それは言葉にはならず、必死でボールの行方を追う彼女。 「こう見えても運動神経はいい方よ。のがさず取ってみせようじゃないの」
(双樹) 彼女のほうは何かしら彼を[ぎゃふん]と言わせてやろうとおもっているふしがあるようだが、彼のほうはどこ吹く風。彼の手を離れたボールは、彼女を高く飛び越えて、どこまでもどこまでも飛んでいく。ボールの行方を追ったが、ついに見失い、二人して空を仰ぎ見る。
(沢田研二「TOKIO」より) 空が飛ぶ 街が飛ぶ 雲を突き抜け 星になる 火をふいて 闇を咲き スーパーシティーが舞い上がる TOKIO TOKIOが二人を抱いたまま TOKIO TOKIOが空を飛ぶ
*5つの擬態語・擬音語(「くたくた」「びくっと」「がさごそ」「ぽーっと」「ぎゃふん」)と3つのキーワード(「お花見」「野球」「認定書」)を用いて、連詩『梅林バラード』(3月26日の日記を参照)の続編を沙羅さんと一緒に作ってみた。その結果できあかったのが、上記の作品である。
2006年04月21日(金) |
山本竹勇ライブin国分寺 |
新幹線で東京へ。津軽三味線奏者・山本竹勇さんのライブを聴きに、国分寺「cafe giee」まで行って来た。ついでに、宝塚の「ベル・バラ」も観たかったのだが、そちらはチケットが取れず、断念。 それにしても、太棹の三味線の音色はとてもいいものだ。今回は、津軽民謡の他、北海道・東北地方の民謡も演奏された。お弟子さんの手塚勇月さんとの三味線二重奏もまたよかった。休憩時間には、私が持ち歩いていたミンミンを竹勇さんが見事に演奏。 今回の上京は何ともせわしなかったのだが、ほどよいストレス発散になった。
2006年04月19日(水) |
スローブルースに春が来た!? |
今夜、「スローブルース」の「生音くらぶ」に参加。店のドアを開いたとき、ステージ側の机を数人のうら若き女性たちが囲んでいるのが目に入った。いつになく華やかな店内、演奏する男性陣が浮き足立っているように感じられた。いや、何のことはない、私だって十分すぎるほど浮き足立っていたのだ。格好良く見せようと、変に力も入っていた。それでも、一応はノーミスでできたんじゃないかな。 「星ヶ丘ロケンロール」(オリジナル)にオフコース・メドレー(「さよなら」「Yes-No」「時に愛は」)を絡ませたバージョン、初お披露目の「なぜか御器所」 (オリジナル)、そして最後はスタンダード曲「アメージング・グレイス」をギター&ミンミン&カズー&ティン・ホイッスル&サウンド・ホースで演奏。 他の方々の演奏もよかったはずなのに、女性陣の演奏以外はあまり覚えていない。健忘症か?単なるスケベおやじになっちまったか?もしかして、その両方、つまり「色ボケ」だったりして? とにかく春を感じさせる今宵のライブだった。
名古屋に越して来てはじめて君に出会ったのは 御器所交差点、信号待ちの時
君をひとめ見た時、 僕のなかを電流がかけぬけた 思わず君を追いかけて、アパートを突き止めた
それからは毎日、 君の家のそばの「サークルK」で、 君の帰りを待ちわびる まるで夫のように
そんなある日のこと、 レンタルショップの「TUTAYA」で、 DVDを探していたら、 君と鉢合わせ
ドキ、ドキ、ドキ、ドキ、ドキ 胸がたかなる 勇気を振り絞り、 君の前に歩み出た
(セリフ) あの〜、こんにちは。 実は、その、あの、 僕は、あなたを、つまり・・・
それから、なぜだか二人は付き合ったけど、 君はもういない この街に君はいない
それでも、僕は忘れない きっと忘れないよ 君と交わした 「スガキヤ・ラーメン」キスの味
*名古屋に来て約15年、御器所に住み始めて6年が経過して、この街にも愛着を感じるようになった。そこで、ご当地ソングを作ってみた。たぶん名古屋圏に住んでいない人にはピンとこないだろうな。名古屋の一地域でしかない、しかもさほど有名でもない「御器所」を題材にしているからね。でも、「伊勢佐木ブルース」(青江三奈)なんて曲は、横浜の一地域が舞台になっているんだよな。そう考えれば、別に悪くはないのかも。あまり深くは考えないでおこう。
2006年04月07日(金) |
ノー・ディレクション・ホーム |
今日、仕事を早めに切り上げて、今池の映画館「シネマテーク」に急行した。目当ての作品は、マーティン・スコセッシ監督がボブ・ディランの貴重なライブ映像・インタビュー映像を交えて構成した映画『ボブ・ディラン「ノー・ディレクション・ホーム」』。上映時間は3時間30分にも及んだが、全く退屈しなかったどころか、非常に面白かった。ディランのファンならば泣いて喜びそうな映像の連続だからね。 ディランはマスコミ嫌いなどと言われ、ファンに対しても決して愛想良く振舞ったりしない。でも、映像に出てくる記者会見シーンなどを見ると、ディランに同情したくなる。だって本当にくだらない質問のオンパレードだからね。 時代的な背景もあるのだろうが、ディランは最初「メッセージソング」の代名詞的存在として、人々の前に登場した。ディランがアコースティックギターからエレキギターに持ち替えた時、コンサート会場はブーイングの嵐。でも、ディランは音楽をやりたかっただけなんだよね。ディランに言わせりゃ、「僕の歌は、すべてメッセージソング」だ。音楽を愛する人にはその意味が十分にわかるはずだ。結局、今日に至るまで活躍し続けているディランの実力は突き抜けている。 ディランは、ローリング・ストーンズとは違った意味で、多くの名曲を生み出していると思う。何年か前に海外のコンサート会場で(詳しくは知らないが)ディランとストーンズが一緒に「ライク・ア・ローリング・ストーン」を歌ったことがあったそうだ。「その場に立ち会えた人がうらやましいよな〜」と、ディランと誕生日を同じくする男は思うのだった。
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