夏撃波[暗黒武闘戦線・歌劇派]の独白

2003年12月23日(火) 「二人吉三恋半鐘」

 スーパー一座の師走歌舞伎公演「二人吉三恋半鐘(ににんきちざこいのはんしょう)」を観に行った。物語は、八百屋お七と小堀吉三郎、湯島のおかんと湯灌場吉三を軸に展開。休憩を挟んで三時間ほどの上演であったが、テンポよく決して見飽きることはなかった。とても面白く見応えのある舞台であった。
 なかでも、おかんと吉三の悪役ぶりには色気が感じられ、非常に格好良くもあった。また、義太夫に合わせてお七が人形振りで動くシーンがあったが、「人形遣い」役の役者の動きとうまく連動して、まるで文楽の人形を見ているかのような錯覚にとらわれた(あれは相当な高等テクニックだと思う)。若手の台頭もめざましく、芝居全体がエネルギーに満ちあふれていた。
 今年数多くの芝居を観てきたが、今日のスーパー一座の舞台は私のなかでは1位、2位を争うくらいの仕上がりであった。



2003年12月22日(月) 今宵、ヌードの殿堂へ

 日中は部屋の片付け。少し片付いたけど、まだまだ先は長いね。要らなくなった本が沢山出てきたので、本を引き取ってもらおうと重い荷物抱えて鶴舞の古本屋に駆け込むが、「ほとんど買い取れない」とにべもない返答。しょうがなく、大須の「ブックオフ」で安く買い取ってもらう。それでも1,600円ほどにはなった。でも、そこからまた古本を2冊買っちまった。その後「吉野家」で夕食をすませ、自転車で家路を急ぐが、鶴舞劇場の前を通りかかり、はずみで入場してしまった。
 ストリップ小屋に入るのはまったく初めて。狭い小屋にお客は皆男性ばかり。まあ、ストリップというものが世の男性の性欲のはけぐちのひとつと考えられているわけで、女性には敷居が高かろう。「性の商品化」批判という難問も立ちはだかっている。フェミニストたちの主張にはうなずける部分もあるが、すべてが納得できるということばかりではない。
 確かに、ストリップを観に行く男性は、女性のハダカを見たいがために小屋まで足を運ぶのだろう。でも、ストリップの鑑賞のしかたというのは幾通りもあって、単に女性のハダカを見るというだけでなく、そのプロセスがいかに踊られ演じられるかということ、あるいはそれに対する観客(その多くは男性)の反応や劇場全体の雰囲気を感じるというのも面白い。踊り子によって個性もあって、つたない踊りながらアイドル路線で売り出しているとおぼしき女性もいれば、踊り自体に面白さを覚えた女性もいた。
 踊り子は、舞台と舞台から客席にせり出した回り舞台とで踊り、コスチュームを脱ぎ、観客の前に生身のハダカをさらけ出す。生身のハダカとそれに注がれる視線とがその場の空気を濃密にし、音響と照明がさらに効果を高める役割を果たす。
 むかしむかしアメノウズメが天の岩戸の前でエロティックな踊りを踊ったのが日本最古のストリップとも言われ、それが演劇あるいは芸能の起源とも言われている。そんなことを思いながらも、ステージで踊る踊り子を新鮮な思いでみつめていた。



2003年12月21日(日) テーマは「反戦」

 宿直明けの今日、眠気と疲れを引きずりつつも、「ぽえ茶」(詩の朗読会)に出掛けた。今回は、自分で勝手に「反戦」というテーマをひっさげて、ギター片手に乗り込んだ。参加者が少なかったので、4回発表の機会が与えられ、8編の「詩」を「朗読」した。
 1巡目は、ザ・ブームの「空想の戦場」「帽子の行方」の2曲を、ギター演奏しながら、歌った。
 2巡目では、ボブ・ディランの「風に吹かれて」。まず日本語訳の朗読、その後ギター演奏とともに歌った。
 3巡目は、最初に「凱旋」(先日イラクで起きた日本人外交官殺害事件をモチーフとした、夏撃波自作の詩)を朗読、その後でギターとカズーの伴奏をつけながらブルース・スプリングスティーンの「ボーン・イン・ザU.S.A.」の日本語訳を朗読した。
 4巡目では、山下達郎の「クリスマス・イブ」から発想を得た、これまた「クリスマス・イブ(夏撃波版)」(達郎オリジナルとは全く別物の詩となった)という反戦詩の朗読と、おまけに寺山修司の「力石徹よ」という「詩」の朗読を行った。
 というわけで、今年最後の「朗読会」を心ゆくまで楽しんだ。



2003年12月19日(金) 何だって俺、踊ってるんだ?

 菱田さんに渡したいものがあり、「pHー7地下劇場」に行ったのだが、気がつけば、菱田さんの振付でダンスをしていた(実際には、動きについていくのに精一杯で「ダンス」と呼べる代物ではなかったのだが)。でも、声を出したり、身体を動かしたりするのは、とても気持ちいい。おかげで、後のビールがとてもうまかった。



2003年12月17日(水) 韓国アングラ演劇の夜

 ソウル(韓国)から名古屋(千種文化小劇場)に「劇団チャンパ」がやってきた。今回の上演作品は、ハイナー・ミュラーの『ハムレット・マシーン』。セリフを最小限に絞り込み、韓国の独特の歴史・文化を盛り込みながら、身体表現を前面に押し出す演出が見られた。暗黒舞踏を思わせる動きも随所に見られ、面白く鑑賞できた。「劇団pHー7」の舞台ともどことなく通ずるものを感じていた。
 外国の劇団を観るのも、これはこれで面白く、知らず知らずのうちに文化交流になっているようにも思われた。



2003年12月16日(火) やっと重い腰を上げた

 年の瀬だからいうわけではないけど、部屋の片付けを始めた。今の所に越してから、いろんなものをため込んでしまったんだな。とりあえず、散らかし放題だった本やCDを収納したりして・・・。まだまだ先は長いけど、千里の道も一歩から。年明けにかけて、部屋の模様替えもする予定。年明けとともに、夏撃波の「秘密結社暗黒武闘派」空想空間を開設するぜ!



2003年12月15日(月) 小さな楽器店

 今日は宿直明け。家に帰ってまずはお昼寝。
 夕方に目覚め、自転車で東別院方面のホームセンターに買い物に出掛けた(部屋の片付けにあたって必要なものがあったので、ね)。で、帰り道、荒畑あたりで小さな楽器店を見つけたぜ。ギター、バンジョー、マンドリンが並ぶなか、私の他にお客さんはなく、自然に店長さんと話すことになる。店長さんはブルーグラスがお好きのようで、楽しそうに、それはそれはいい表情でお話しになっていた。素晴らしいことだと思う。私も少しいい気分でそのまま家に帰った。



2003年12月09日(火) 「無題」

 今宵、大須のライブハウス・OYSで「バンドvs詩人」というイベントが開かれた。詩人仲間からのインフォメーションでその情報を得、会場に足を運んだ。
 イベント自体は悪くはなかったのだけれど、不満な点もいくつかあった。ひとつは、ないものねだりだとは思うが、詩人とバンドがコラボレートしてほしかった。めいめいが一切絡むことなく発表していた感じだったからね。もうひとつ、これが実は一番の不満な点なのだが、参加バンドの多くが<詩>とか<言葉>というものをあまりに軽視している(本人達には自覚はないかも知れないが)という点である。まあ、そんなのは今回の参加バンドに限らず、日本のミュージックシーンにおいてはさほど珍しい現象ではない。むしろ、<言葉>をも含めた<音楽>と真剣に格闘しているアーティストのほうが珍しいと言うべきであろう。
 日本には数えきれないほどのバンド(プロ・アマを問わず)が存在している。名古屋・栄あたりでやってる演奏を聴く機会はあるけど、「これはいい」と思えるようなバンドはあまりないね。多くの場合、演奏技術はそこそこあるものだから、逆に「歌詞」が邪魔くさくてしょうがない、加えてボーカルが下手(「楽器演奏だけで勝負しなよ」と余計なおせっかいを焼きたくなっちまう)というパターンだね。
少なくとも「歌詞」で自分たちの価値を落とすような愚にもつかぬことだけはやめてくれ、と詩人の端くれとしてバンド関係者に伝えたい。
 そう言えば、OYSというライブハウス、ステージと客席とが一体感を持ちやすい感じで、なかなかいい雰囲気を持った場所だと思ったよ。

 「バンドvs詩人」に向かう少し前、私は名古屋市美術館にいて、素晴らしい芸術作品と対面していた。いま「フリーダ・カーロとその時代」展が開催されている。フリーダ・カーロをはじめとするメキシコのシュルレアリストたちの作品は、鮮やかな色彩に彩られ、生命力が満ちあふれ、幻想的な美をたたえている。現実と非現実がないまぜになったような不思議な光景が描き出され、観る者を神秘的な世界に誘っていく。言い表しがたい感動にうち震えた私であった。期間中にもう一度ぜひ観に行こうとさえ思った。
 実は、私、この展覧会を観るにあたって、お金を一切払っていない。と言っても、決して不正を働いたわけではない。美術館の入口で見知らぬおばさまに呼び止められ、「チケット(招待券)1枚余ってますから、よろしかったら使って下さい」と手渡されたのだった。とても得した気分だったな。あっ、実際に得してたね。
 この展覧会、本当にいいからさ、ぜひ観に行くことをおすすめするよ(今月21日まで開催)。



2003年12月08日(月) (WAR IS OVER)

 今日は、23年前ジョン・レノンが凶弾に倒れた日(古くは、日米開戦の日でもあるが)。街角ではクリスマス・ソングが流れるこの時期、ジョン・レノンの「Happy Xmas(War is over)」(「Imagine」と同じく反戦メッセージがこめられた名曲)も定番のひとつになっている。ジョンは、この歌のなかで、「戦争は終わる みんなの力で 戦争は終わる 今すぐ」と歌っている。

 先日、イラクで日本人外交官2人が殺害される、痛ましい事件が起きてしまった。2人の無念さ、遺族の悲しみは想像するにあまりある。だが、この間の政府の対応などを見ていると、2人を「国家の英雄」として美化し、2人の死をこの際最大限に利用しようと目論んでいるようにしか見えない。2人の外交官は小泉政権の失政(「ブッシュの戦争」に荷担した)の被害者であると、私は認識している。

 それから、イラクへの「自衛隊派遣」問題について。「イラクは危険だから行くべきではない」という「慎重派」の論調(それに対する「推進派」のごまかしも含めて)には少し違和感を覚えてしまうのだ。いや「危険・安全」の論議はもちろんあっていいのだが、その前に「イラク復興」ということに対する思想とか姿勢の部分を第一に問題にすべきではないかと思うのだ。
 「支援」を行う際に最も必要とされるべきは、「支援される側」の心情に想像力を働かせるということではなかろうか。そして「支援される側」が本当に必要としているのは何かということを突き詰めて考えたうえで、「支援」の方法・手順等についても最適なものを選択し「支援」を行うべきではないか。つまりは、それが「誰のための支援」なのか、常に出発点に戻るべきなのだ。
 その点から言えば、いま小泉首相が推し進めようとしている「自衛隊派遣」が、イラク民衆への「支援」などではなく、「イラク支援」に名を借りたブッシュ、アメリカへの「支援」でしかないのは明白であろう。イラク民衆の目線に立った「支援」という発想から論議を積み重ねた結果が「自衛隊派遣」という結論に結びついたとでもいうのなら、小泉首相はそれを国民にしっかり説明すればいい。まあ、説明できないからごまかすのだろうけどね。反対する側にしたって、論点がずれているんだよ。
 結論的に言ってしまえば、「自衛隊派遣」はイラク民衆にとっても日本国民にとってもマイナスの結果しかもたらさないということだ。そして、悲しいかな、犠牲になるのは、為政者などではなく、名もなき人々だ。これ以上、犠牲を増やさないためにも、他の「支援」のあり方を模索すべきなのだ。



2003年12月06日(土) 京都、ふたたび

 またまた京都までダンス公演を観に行っちゃった。今日は、麿赤児(まろ・あかじ)率いる大駱駝艦の公演だ。先月同じ劇場(京都芸術劇場)で観た笠井さんのダンス・ソロとは(同じ舞踏とは言っても)印象が違ったね。笠井さんの場合、もちろん演出されてはいるのだが、彼のダンス自体に魅了されるところが大きいと感じられる。一方、大駱駝艦は個々人の踊りそのものというよりは集団全体が醸し出す雰囲気に圧倒されるとでもいうのだろうか、演出力によって質の高い舞台になっているという印象を持った。麿さんの踊りにしても、踊りそのものというよりは彼の
際立った個性に圧倒されるという感じ(麿さんからは、「ダンサー」というよりは突出した「役者」という印象を強く受けた)。どことなく「pHー7」の美意識とも通ずるような感じを持ったね。
 せっかく京都まで行くのならということで、観劇前に京都観光を少し。今回は、三十三間堂(千一体の千手観音像が一堂に並んでいるのは壮観だね)とか詩仙堂(枯山水の庭園は時の流れを忘れさせてくれる)とかを観てまわった。
 日帰りとはいえ、よい休日を過ごすことができた。


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