| 2003年12月19日(金) |
何だって俺、踊ってるんだ? |
菱田さんに渡したいものがあり、「pHー7地下劇場」に行ったのだが、気がつけば、菱田さんの振付でダンスをしていた(実際には、動きについていくのに精一杯で「ダンス」と呼べる代物ではなかったのだが)。でも、声を出したり、身体を動かしたりするのは、とても気持ちいい。おかげで、後のビールがとてもうまかった。
| 2003年12月17日(水) |
韓国アングラ演劇の夜 |
ソウル(韓国)から名古屋(千種文化小劇場)に「劇団チャンパ」がやってきた。今回の上演作品は、ハイナー・ミュラーの『ハムレット・マシーン』。セリフを最小限に絞り込み、韓国の独特の歴史・文化を盛り込みながら、身体表現を前面に押し出す演出が見られた。暗黒舞踏を思わせる動きも随所に見られ、面白く鑑賞できた。「劇団pHー7」の舞台ともどことなく通ずるものを感じていた。 外国の劇団を観るのも、これはこれで面白く、知らず知らずのうちに文化交流になっているようにも思われた。
| 2003年12月16日(火) |
やっと重い腰を上げた |
年の瀬だからいうわけではないけど、部屋の片付けを始めた。今の所に越してから、いろんなものをため込んでしまったんだな。とりあえず、散らかし放題だった本やCDを収納したりして・・・。まだまだ先は長いけど、千里の道も一歩から。年明けにかけて、部屋の模様替えもする予定。年明けとともに、夏撃波の「秘密結社暗黒武闘派」空想空間を開設するぜ!
今日は宿直明け。家に帰ってまずはお昼寝。 夕方に目覚め、自転車で東別院方面のホームセンターに買い物に出掛けた(部屋の片付けにあたって必要なものがあったので、ね)。で、帰り道、荒畑あたりで小さな楽器店を見つけたぜ。ギター、バンジョー、マンドリンが並ぶなか、私の他にお客さんはなく、自然に店長さんと話すことになる。店長さんはブルーグラスがお好きのようで、楽しそうに、それはそれはいい表情でお話しになっていた。素晴らしいことだと思う。私も少しいい気分でそのまま家に帰った。
今宵、大須のライブハウス・OYSで「バンドvs詩人」というイベントが開かれた。詩人仲間からのインフォメーションでその情報を得、会場に足を運んだ。 イベント自体は悪くはなかったのだけれど、不満な点もいくつかあった。ひとつは、ないものねだりだとは思うが、詩人とバンドがコラボレートしてほしかった。めいめいが一切絡むことなく発表していた感じだったからね。もうひとつ、これが実は一番の不満な点なのだが、参加バンドの多くが<詩>とか<言葉>というものをあまりに軽視している(本人達には自覚はないかも知れないが)という点である。まあ、そんなのは今回の参加バンドに限らず、日本のミュージックシーンにおいてはさほど珍しい現象ではない。むしろ、<言葉>をも含めた<音楽>と真剣に格闘しているアーティストのほうが珍しいと言うべきであろう。 日本には数えきれないほどのバンド(プロ・アマを問わず)が存在している。名古屋・栄あたりでやってる演奏を聴く機会はあるけど、「これはいい」と思えるようなバンドはあまりないね。多くの場合、演奏技術はそこそこあるものだから、逆に「歌詞」が邪魔くさくてしょうがない、加えてボーカルが下手(「楽器演奏だけで勝負しなよ」と余計なおせっかいを焼きたくなっちまう)というパターンだね。 少なくとも「歌詞」で自分たちの価値を落とすような愚にもつかぬことだけはやめてくれ、と詩人の端くれとしてバンド関係者に伝えたい。 そう言えば、OYSというライブハウス、ステージと客席とが一体感を持ちやすい感じで、なかなかいい雰囲気を持った場所だと思ったよ。
「バンドvs詩人」に向かう少し前、私は名古屋市美術館にいて、素晴らしい芸術作品と対面していた。いま「フリーダ・カーロとその時代」展が開催されている。フリーダ・カーロをはじめとするメキシコのシュルレアリストたちの作品は、鮮やかな色彩に彩られ、生命力が満ちあふれ、幻想的な美をたたえている。現実と非現実がないまぜになったような不思議な光景が描き出され、観る者を神秘的な世界に誘っていく。言い表しがたい感動にうち震えた私であった。期間中にもう一度ぜひ観に行こうとさえ思った。 実は、私、この展覧会を観るにあたって、お金を一切払っていない。と言っても、決して不正を働いたわけではない。美術館の入口で見知らぬおばさまに呼び止められ、「チケット(招待券)1枚余ってますから、よろしかったら使って下さい」と手渡されたのだった。とても得した気分だったな。あっ、実際に得してたね。 この展覧会、本当にいいからさ、ぜひ観に行くことをおすすめするよ(今月21日まで開催)。
| 2003年12月08日(月) |
(WAR IS OVER) |
今日は、23年前ジョン・レノンが凶弾に倒れた日(古くは、日米開戦の日でもあるが)。街角ではクリスマス・ソングが流れるこの時期、ジョン・レノンの「Happy Xmas(War is over)」(「Imagine」と同じく反戦メッセージがこめられた名曲)も定番のひとつになっている。ジョンは、この歌のなかで、「戦争は終わる みんなの力で 戦争は終わる 今すぐ」と歌っている。
先日、イラクで日本人外交官2人が殺害される、痛ましい事件が起きてしまった。2人の無念さ、遺族の悲しみは想像するにあまりある。だが、この間の政府の対応などを見ていると、2人を「国家の英雄」として美化し、2人の死をこの際最大限に利用しようと目論んでいるようにしか見えない。2人の外交官は小泉政権の失政(「ブッシュの戦争」に荷担した)の被害者であると、私は認識している。
それから、イラクへの「自衛隊派遣」問題について。「イラクは危険だから行くべきではない」という「慎重派」の論調(それに対する「推進派」のごまかしも含めて)には少し違和感を覚えてしまうのだ。いや「危険・安全」の論議はもちろんあっていいのだが、その前に「イラク復興」ということに対する思想とか姿勢の部分を第一に問題にすべきではないかと思うのだ。 「支援」を行う際に最も必要とされるべきは、「支援される側」の心情に想像力を働かせるということではなかろうか。そして「支援される側」が本当に必要としているのは何かということを突き詰めて考えたうえで、「支援」の方法・手順等についても最適なものを選択し「支援」を行うべきではないか。つまりは、それが「誰のための支援」なのか、常に出発点に戻るべきなのだ。 その点から言えば、いま小泉首相が推し進めようとしている「自衛隊派遣」が、イラク民衆への「支援」などではなく、「イラク支援」に名を借りたブッシュ、アメリカへの「支援」でしかないのは明白であろう。イラク民衆の目線に立った「支援」という発想から論議を積み重ねた結果が「自衛隊派遣」という結論に結びついたとでもいうのなら、小泉首相はそれを国民にしっかり説明すればいい。まあ、説明できないからごまかすのだろうけどね。反対する側にしたって、論点がずれているんだよ。 結論的に言ってしまえば、「自衛隊派遣」はイラク民衆にとっても日本国民にとってもマイナスの結果しかもたらさないということだ。そして、悲しいかな、犠牲になるのは、為政者などではなく、名もなき人々だ。これ以上、犠牲を増やさないためにも、他の「支援」のあり方を模索すべきなのだ。
またまた京都までダンス公演を観に行っちゃった。今日は、麿赤児(まろ・あかじ)率いる大駱駝艦の公演だ。先月同じ劇場(京都芸術劇場)で観た笠井さんのダンス・ソロとは(同じ舞踏とは言っても)印象が違ったね。笠井さんの場合、もちろん演出されてはいるのだが、彼のダンス自体に魅了されるところが大きいと感じられる。一方、大駱駝艦は個々人の踊りそのものというよりは集団全体が醸し出す雰囲気に圧倒されるとでもいうのだろうか、演出力によって質の高い舞台になっているという印象を持った。麿さんの踊りにしても、踊りそのものというよりは彼の 際立った個性に圧倒されるという感じ(麿さんからは、「ダンサー」というよりは突出した「役者」という印象を強く受けた)。どことなく「pHー7」の美意識とも通ずるような感じを持ったね。 せっかく京都まで行くのならということで、観劇前に京都観光を少し。今回は、三十三間堂(千一体の千手観音像が一堂に並んでいるのは壮観だね)とか詩仙堂(枯山水の庭園は時の流れを忘れさせてくれる)とかを観てまわった。 日帰りとはいえ、よい休日を過ごすことができた。
| 2003年12月03日(水) |
イラクに始まり、イラクに終わるのか? |
2003年も暮れようとしている。今年は、イラク問題に始まり、イラク問題に終わる1年だったとも言えそうだ(もちろん、紛争地帯はイラクだけではないのだが)。幾千万もの反戦の声を無視してブッシュが始めた戦争を小泉は支持したけれども、いったいどこまでついていくつもりなのか。過った方向に進もうとしているアメリカにブレーキをかけるということも、友好国たる日本の役割のはずではないのか。それなのに現状は、混迷するイラク情勢に対して、思考停止・判断停止に陥っているとしか思えない。 ブッシュも小泉も「テロとの闘い」などと口にするが、「ブッシュの戦争」のどこを探しても大義などない。むしろブッシュや小泉の言う「テロリスト」の側にこそ大義があるのでは、とすら思えてくる。 戦争はいつ終わるとも知れず、死者は増えていくばかり。今日も戦争による犠牲を目のあたりにして悲嘆に暮れる人々がいることであろう。ブッシュや小泉らにはこの責任をとってほしいものだが、戦争を止められるのは彼らなどではなく、反戦市民の声でしかないように思う。
先日、熊本のホテルがハンセン病の元患者に対して宿泊拒否していた事実が報じられていたが、またしても徳島県市場町の宿泊施設が盲導犬同伴の宿泊拒否していた事実が明るみに出た。「差別」ということをあまりにわかりやすい形で表している2つのケースだ。人権感覚の希薄さにはただただ呆れるばかりだが、こんなことは氷山の一角にすぎないのかもしれない。差別というものはなかなかに手強いからね。
今夜、久しぶりに「pHー7地下劇場」に行ってきた。 そこでは、来年春の「舞踏劇」の公演に向けての取り組みが始まっていた。劇団員一人ひとりに与えられた「ひとり舞踏」の課題発表の場に居合わせることができた。これから公演まで出演者にとっては(演出も)苦闘の連続になるのだろうが、参加できない私にとっては、そんな彼らがうらやましく思えた。 <演劇>は、<俳優>と<観客>と<劇場>があってはじめて成立するものだが、私はいま「観客」の側に身を置いている。観る楽しさというものは確かにある。けれども、演ずる楽しさには代え難いのだ。そのことをいつもながら感じさせられる。
家に帰ってから、ビデオの録画チェック。私は、連ドラというものを観るタイプの人間ではないのだが、月曜10時の「ライオン先生」(日テレ系)と、金曜10時の「ヤンキー、母校に帰る」は欠かさず観ている。録画された「ヤンキー、母校に帰る」を観ていると、校長先生役で唐十郎が出演していた。このドラマの主役・竹ノ内豊もなかなかいい感じだと思うんだけど、唐さんの存在感(異物感と言ってもいいかも)は格別だね。「何か美味しいところ全部持っていくよな〜」って思うんだけど、彼なら仕方ないかとも思わされるんだよね。私もいつかそんな役者になりたいな〜。
「pHー7」地下劇場。普段はゴタゴタしている稽古場だが、それが本番の舞台を迎えると見事に<劇場>に変わるんだよな。スポットライトを浴びる快感、あのエクスタシーは経験した者でなければわからないであろう。
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