最近、立て続けに映画を観た。 フランソワ・トリュフォー監督の名作『突然炎のごとく』は、フランス映画の典型みたいな映画っていうのかな。フランス語のリズムといい、物語展開といい、理屈とかじゃなくて感覚に訴えかけてくるような作品だね。 『永遠のマリア・カラス』は、20世紀を代表するオペラ歌手マリア・カラスの生きざまを描いた作品だが、主演のファニー・アルダンがマリア・カラスに憑かれたかのような熱演ぶりであった。蛇足だが、映画中にも出てくる『カルメン』てオペラの中のオペラだね。マリア・カラスを生で聴いてみたかったよ。 河瀬直美監督(1997年に『萌の朱雀』でカンヌ国際映画祭新人監督賞を受賞)の最新作『沙羅双樹』も一見ドキュメンタリーを思わせるような作りだが、古都・奈良を舞台に展開する河瀬ワールドに思わず引き込まれた。 映画って一度見始めると、立て続けに観たくなるものなのね。
話はまったく変わるが、今日早番の勤務が終わってから、思い立って一人でカラオケ・ボックスに行った。3時間も歌い続けてしまったよ。十八番なんていろいろあってこれとは言えないのだが(だからこそ3時間も歌えるのだ)、締めくくりに歌う曲は大抵の場合、私が勝手に「大阪シリーズ」とか「沖縄シリーズ」とか「ニッポンを休もう!シリーズ」などと呼んでいる歌のいずれかになる。ちなみに、今日は70年代フォークを中心に歌い、最後を「悲しい色やね」「大阪で生まれた女」で締めくくった。ちょっと疲れたけど、気持ちよかった。歌には、ホント救われているよ。
人生とは、突然炎のごとく、ってことなんだろうね。つまり、永遠の時のなかでほんの一瞬、光や熱を放って燃える、ってこと。自分のなかにたえず炎を燃やし続けたいと思う今日この頃であった。
今日は休みだったんだが、ちょっとだけ仕事して、歯医者や床屋さんに行ってるうちに夕方になってしまった。 夕方からは、鶴舞の愛知県勤労会館に、鳥肌実の時局講演会「ニイタカヤマノボレ」を観に行った。いわゆる右翼の演説のパロディーだが、そこそこ面白かった。まだ一度も観ていらっしゃらない方には、「一度くらい観てもいいと思うよ」「俺はもういいけどね」とでもお伝えしよう。 帰りに鶴舞駅前の中華料理屋(というかラーメン屋)でワンタンメン食べて帰ってきた。鶴舞は、13年前俺が名古屋に来て初めて住んだ街。よく鶴舞公園に繰り出して、ギターかき鳴らして歌ったり、踊り狂ったりもした。あれからもう10年以上の年月を過ごしてきてしまったとは、俄に信じがたい。 あの頃とは変わったこともいろいろけれど、今も俺は夢を見続けているんだ。
15日、阪神が優勝を決めた。本当に痛快だ。 年々プロ野球はつまらなくなっていると思っていた。その原因は、「札束攻勢」で他チームの主力選手を獲得していた巨人(恥知らずにも程がある)にあると断言する。今年、その巨人がここまでのところ無惨な成績を残している。今のやり方を変えない限り、どこまで行っても巨人はカッコ悪いゼ。 私には贔屓の野球チームはない。敢えて言えば「アンチ巨人」となるのだが、それは好みというよりか思想に近い。札束をちらつかせ手段を選ばずに選手をかき集めてくるそのやり方は、どう考えてもフェアじゃない。どことなく今日の世相を反映していると言うのか、「ルールなき資本主義社会」を見せつけられているようでもあり、気分が悪い。でも、そんなやり方がいつまでも罷り通るはずはないと思っている。 そうした意味では、今期の阪神の優勝は喜ばしいかぎりである。
| 2003年09月14日(日) |
9.11そして9.17 |
2年前のニューヨークでの同時多発テロと、それに続く報復の連鎖。1年前の日朝首脳会談で北朝鮮側が公式に認めた日本人拉致の事実と、その後の過熱する北朝鮮報道。「正義」の名の下に公然と行われる<暴力>は、あまりに見苦しい。いいかげんに目を覚ませ、と言いたいよ。想像力の欠如、そのひとことに尽きると思うよ。 例えば、アメリカがアフガニスタンやイラクに対して行った攻撃によって、アフガンやイラクの罪なき民衆はどれほどの犠牲を強いられたか。「『大義』の前には多少の犠牲はやむを得ない」などと言う人々には、万が一にも自らがイラク民衆の立場と同じ状況に立ち至った時にそれとまったく同じ言葉が言えるのか、と問いたい。だいいちアメリカによるイラク侵攻には「大義」すらない。それなのに「北朝鮮の脅威」におびえ、闇雲に「アメリカ支持」を打ち出した日本政府は見苦しいし、その政府の姿勢を支持する日本国民というのもまったくもって醜悪だ。 でもね、まっとうな感覚を持った人もいるんだな。森達也氏(ドキュメンタリー映画『A』監督)は、その著書『世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい』のなかで、こんなことを言っている。
オウムの信者のほとんどが善良で穏やかで純粋であ るように、ナチスドイツもイラクのバース党幹部も北 朝鮮の特殊工作隊員たちも、きっと皆、同じように善 良で優しい人たちなのだと僕は確信しているというこ とだ。でもそんな人たちが組織を作ったとき、何かが 停止して何かが暴走する。その結果優しく穏やかなま まで彼らは限りなく残虐になれるのだ。でもこれは彼 らだけの問題じゃない。共同体に帰属しないことには 生きてゆけない人類が、宿命的に内在しているリスク なのだと思っている。つまり僕らにもそのリスクはあ るのです。
人間とは悲しいかな、本当に弱いものである。被害者にだって、加害者にだってなりうるのだ。むろん犯した罪は裁かれるべきものであろう。だが、加害者を断罪してすべてが解決するわけではない。人間は、善も悪も併せ持った存在である。もっと言えば、大なり小なり(その大小の違いが非常に大きな差であるとは思うが)その加害者性を発揮せずに生きられる人間など存在しないのではないか。問題を他人事とせずに、常に自分に立ち返って考えてみることが必要だと思うのだが・・・。
| 2003年09月07日(日) |
友川かずき・福島泰樹ジョイント・ライブへ |
今池のライブハウス「得三」で友川かずき(「伝説のフォークシンガー」)と福島泰樹(絶叫する歌人)のジョイント・ライブがあるというので、出掛けて行った。 福島の「短歌絶叫ライブ」は以前観たことがあり、「まあ、一回観れば充分やな」という程度の内容だったので、今回のお目当ては友川だったのだが。特別悪かったわけでもなく、それなりに楽しんではいたのだが、だからといって特に感想らしきものもない。福島の単調な感じに比べれば断然友川のほうがよいのだが、数日前に観た友部正人のライブに比べてしまうと感動が薄くなってしまうんだな。 休みはアッという間に終わり、明日からは仕事。今はただただアンニュイ。
今夜、名古屋クラブ・クアトロにて友部正人ライブが行われた。「日本のボブ・ディラン」などと呼ばれることもある孤高のフォーク・シンガーの演奏は詩情にあふれ、想像を大いにかき立ててくれた。 昨今ちょっとした「フォーク・ブーム」でもあるようだが、その実情は「ホンモノの和製フォーク」から「フォークもどき」(例えば「19」とか)まで玉石混交の状態にあると言えよう。ホンモノを見抜く力はぜひとも養いたいものである。友部は「売れないアーティスト」の部類に入るのかもしれないが、素晴らしいアーティストだ。その魅力を十分に伝えられないのがもどかしい。 詞は演奏されてこそ「完成品」と言えるのだが、詞の一部を紹介することで友部の魅力の一端が伝えられればと思い、以下引用してみた。
大道芸人は路上をめざす けっして舞台になど上がらない 炎天下だって氷点下だって 衣装はいつだっておんなじだ 赤い着物で踊り狂えば 世界中の車が交差点でブレーキを踏む (「大道芸人」より)
父のいない子は、愛について考え続ける 夫のいない母も、愛について考え続ける 愛について考えることで、ふたりはむすばれている (「愛について」)
そう言えば、友人を介して最近知り合った友人と偶然にライブ会場で会った。彼は友部のライブを20回くらい見ているらしい。「違いがわかる男」やな。たとえ少数でも「いいものはいい」と熱狂的なまでに評価する人がいるってことだね。 うまい酒を飲むか、まずい酒を飲むかによって、人生の楽しみは大きく変わってくる。音楽だって同じ事さ(何という喩えであろうか)。何事も出会いが大切ということでもあるのかな。 まあ、このいい気分のまま、今日は眠りに就くとしよう。おやすみなさい。
昼、ブロードウェイ・ミュージカル『ウェスト・サイド・ストーリー』(ミラノ・スカラ座バージョン)の来日公演を観てきた。芝居好きの私も、実はミュージカルが苦手。今まで観てきたミュージカルの代表が「劇団四季」。「四季」のミュージカルって、「地に足がついていない」というか「身の丈に合っていない」というのか「押しつけがましい」という印象が強くて、それがそのままミュージカルへのアレルギーにつながっているんだろうな。 で、今回の『ウェスト・サイド・ストーリー』だが、「劇団四季」のミュージカルなどとは違い、ごく自然な感じで演じられているとの印象を持った。この「ごく自然な感じ」というのは難しいことではあるが、「自然に」演じられることにより観客の側も物語に入り込めるのだと思う。ブロードウェイ・ミュージカルの最高傑作の魅力を損なうことなく演じられていたかが、おそらく成否の分かれ目であろう。 今回、『ウェスト・サイド・ストーリー』がよく出来た作品であるとの認識をあらためて強く持った。シェークスピアの『ロミオとジュリエット』を下敷きにしながら、設定をニューヨークのウェストサイドに置き換えたとされるミュージカルだが、その面白さはシェークスピア作品に決してひけをとっていない。ギャング同士の抗争のはざまに揺れる男女の恋の物語がメインであるが、背景にアメリカの社会病理、とりわけ人種問題が浮かび上がってくる。大上段に構えて「社会問題」を訴えるタイプの芝居と異なり、ステージそのものの面白さと相まって心に何かを残してくれるのだ。まあ、今回はホンの力が大きかったと思う。少なくともホンの魅力を損なわない舞台であったとは言えるが、演者に対してはもっと多くを注文したかったな。
夕方、今池「TOKUZO」にて「シカラムータの突然変異」ライブを楽しんだ。「ソウル・フラワー・ユニオン」などにも参加していた大熊亘(クラリネット奏者)をリーダーとした「チンドン・パンク・ジャズ」集団のライブは楽しかった。でも、「ソウル・フラワー」の中川敬のボーカルを聴きたいという思いにとらわれたな。
それにしても、もう8月も終わり、夏は去りゆこうとしている。それとも、まだこれから暑さが到来するのかな? やれやれ、時が過ぎゆくのは早いものよのう。
| 2003年08月29日(金) |
映画ってホント素晴らしいですね! |
今日は、映画を2本(?)観てきた。ひとつはアメリカのドキュメンタリー映画『デブラ・ウィンガーを探して』(矢場町・ヘラルドシネプラザ)、もうひとつは山村浩二監督による短編アニメ集(今池・シネマテーク)。
前者は、自らも映画女優であるロザンナ・アークェット監督が同業の女優へのインタビューを通じて、ハリウッドの風潮(「女優の場合、40歳代を迎えると突然お払い箱になってしまう」)や、家庭と仕事の両立とか今後の生き方などの悩みを抱えながらも力強く生きようとする女優の生きざまをとらえている。映画女優は一方において憧れの的であり特異な存在ではあるが、他方でごく普通の女性が持つのと同様な悩みを抱えながら生きている。「若さ」に高い価値を求める社会にあって、特に40歳代を迎えた女性は生きづらさを感じずにはいられない。 そこでは、女性に向けられる社会のまなざしが浮き彫りにされるが、同時に社会が個人というものをどのように見ているのかという点にも気づかされる。男性=加害者、女性=被害者という構図は一面においては紛れもない真実ではあるが、一方で加害者と被害者の関係というものは決して固定的なものではなく、加害者であったはずの男性が被害者に「転落」することだってあるし、女性の間だけでも加害・被害の関係が存在したりもする。つまり、何を言いたいかって言うと、「女性問題」と思われていることが、実は男性にとっても本来は切実な問題ではないかってこと。 性別の違い、年齢の違い、「民族」「国籍」等の違い、障害の有無、などと人間は一人ひとり違い、そのことこそが素晴らしいことなのだ。そうした価値観を共有できたなら、素晴らしい世界が生まれるに違いないのだが・・・。なかなか壮大なテーマに行き着いてしまったようだ。
ヤマムラ・アニメーションにも触れておこう。宮崎駿監督の登場により日本のアニメの歴史が大きく変わったことに違いはないが(今年、『千と千尋の神隠し』がアカデミー賞・長編アニメ部門の栄光に輝いた)、その陰に隠れてしまった山村浩二監督の活躍を見逃してはならない(『頭山』が今年のアカデミー賞・短編部門にノミネートされた)。多彩なアニメ技法と意表を突く展開で観る者をヤマムラ・ワールドに引きずり込んでしまう。一つひとつの作品が数分で完結するのだが、短いなかにぎっしりと詰まった中味は十分に味わい深く、満足のいく内容である。宮崎アニメの素晴らしさは今更言うまでもないが、それとはまた別の才能が日本アニメ界に存在することを認識したのであった。 うまく言い表せなくてもどかしいのだが、初めて寺山修司の映画作品に出会ったときの鮮烈な印象、それに似た感動を味わった。おわかりかな? ますますわからなかったりして。まあ、ぜひ観てみてよ。
と映画三昧の一日だったが、明日はミュージカル『ウェスト・サイド・ストーリー』を観に行って、夜はライブを観に行くぜ。 で、明後日はまたお仕事。いやいや、今は楽しいことだけかんがえようっと。 では、さよなら、さよなら、さよなら。
| 2003年08月22日(金) |
太陽が身を焦がすぜ〜 |
今日は、本当に夏らしい一日だった。 午前中はウダウダしてたけど、午後からは出掛けたよ。
日中は、今池・シネマテークで映画『蒸発旅日記』を観た。漫画家・つげ義春のエッセイを山田勇男監督が映画化したものだ。山田監督は、かつて寺山修司主宰の演劇実験室・天井桟敷の団員であり、寺山映画のスタッフでもあったという人物。10年ほど前に劇場公開された山田作品『アンモナイトのささやきを聞いた』は面白かったし、評価も高かったようだ。だから、その山田監督がつげワールドをどう見せてくれるのかと楽しみにしていた。予告編も面白そうだったし・・・。 でも、実際本編を観てみるともの足りない感じがした。予告編の方がよっぽど面白かったよ。寺山修司の影響はところどころ感じられたが、何か中途半端に映った。それとつげ義春の魅力がほとんど引き出されていないように感じられた。原作はとてもいいはずなのに残念だった。 「蒸発」というのは潜在的な願望としてあるんだよな。人は社会生活を送るなかで知らず知らずのうちにあらゆることに拘束されるようになる。そうした拘束が時として非常に窮屈に感じられ、現実に自分が置かれた状況から逃げ出したい衝動に駆られることもある。現在の場所とは違うどこかで、今とはまったく違う何かをつかみとれるのではないかと思ってみたり。人間てやつは漠たる不安を内に抱え込んでいる存在なんだろうな。時々思い出したかのようにつげ作品に触れてみると毎回違った感じ方をするのだが、どこかで共鳴するんだよね。
夕方、名古屋ブルーノートで行われたセルジオ・メンデスのライブに行った。セルジオ・メンデスと言えば、ブラジル音楽界のスーパースター、「マシュ・ケ・ナダ」の世界的ヒット(1966年)で知られる。私、ブラジル音楽も好きなんだ。とか言うと節操ないみたいに聞こえるかもしれないけど、でもね、いいものはいいのだからしょうがない(ジャンルは関係ないんだ)。「マシュ・ケ・ナダ」は特にノリがよくていいよ。 o oooo aria aio opa opa opa〜 それにしても、名古屋ブルーノートに初めて行ったけど、私がよく行くライブハウスとは雰囲気がまったく違うね。チケット代も飲食代も高いし、そのためか年齢層高いし、ちょっとハイソを装った雰囲気だったよ。私みたいに軽装(チノパンにTシャツ)で来ている人は見かけなかったからね。
ブルーノートを出て雑踏を歩いていると、向こうから和服美人が手を振って微笑みながら私のほうに寄って来るではないか。一瞬気がつかなかったが、スーパー一座の女優Yさん(主演級)ではないか。10分ほど立ち話。こんな時にも私たちの会話のほとんどは、芝居の話だ。でもね、同好の士とはよいものだ。お互い、どこかで通じ合うものがあるんだよね。年末にはスーパー一座のロック歌舞伎、観に行くぜ〜。まだ、しばらく間があるけどね。
今夏めずらしいくらいの暑い今日一日だった・・・。
| 2003年08月19日(火) |
ジャグリングに初挑戦! |
今日、仕事はお休みだったのですが、午前中は歯医者さんへ。毎度のことながら口を開けて診てもらうのですが、うら若き女性の歯科衛生士さんに私めの汚い口の中を見せるなんて、恥ずかしくてしょうがないです(男性の歯科医師相手なら平気)。うわべだけ繕ってみたところで(別に繕っていないか)、恥部は隠しようもないのですから。まあ、自意識過剰になるよりは、人間なんてそんなものよと開き直ってしまいましょ。気にしたってしょうがないし、すべてはなるようにしかならないのだから。
で、午後はお楽しみ、遊びの時間。クラウン(道化師)のパフォーマンス集団「プレジャー企画」が、ジャグリングやバルーン(風船)のパフォーマンスを手ほどきしてくれる、そんな体験講座が今日行われるとの情報を得て行ってまいりました。 時間は1時間半ぐらいで短かったのですが、もうちょっと練習すれば何とかなりそうなくらいまで(?)上達しましたぜ(私は、「シガーボックス」に挑戦してみました)。こんなことも芸の肥やしにでもなればいいなあ、なんてことを思っていますけどね。まあ、単純に楽しかったです。
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