アメリカ・イギリスによるイラク攻撃が始まってしまった。戦争のもたらす悲劇については繰り返すまでもないが、加えて今回はどこを探しても「大義名分」のない戦争である。 アメリカは今回イラクを攻撃したのと同時に、全世界に向けて「アメリカのいいなりにならなければ、イラクと同じ目に遭わせるぞ」というメッセージを送ったことになる。だが、そのことによってアメリカが失うものは大きい。9・11のようなことが再び起こっても何ら不思議ではないのだから。 日本政府にしても、今回は対応を誤ったというべきだろう。小泉首相のコメントなんて、まるで説明になっていない。仮にアメリカとの「同盟関係」の重要性を認めるにせよ、「イラク攻撃反対」の立場からアメリカを諫めることはできたはずだ。独立国であるはずの日本がアメリカに何の意見も言えないなんて、あまりにも情けない。「北朝鮮の脅威」を匂わせ「アメリカとの同盟関係の重要性」を語り「イラク攻撃」を正当化しようとする「論理」は、全くもって論理に欠けている。そもそも「同盟関係」というのであれば、(軍事力などの差はあれ)対等でなければならないはずだ。現実は「アメリカの属国」ではないか(このことを「愛国主義者」はもっと怒っていいはずだ)。こんな調子だと「沖縄の基地問題」の解決はずっと先延ばしのままだろう。 こんなデタラメが罷り通っていいのだろうか。諦めに近い気分にもなってくるが、私は今後も怒りを持ち続けていこうと思う。
| 2003年03月17日(月) |
世界はがらくたの中に横たわり |
今日職場で施設長より人事異動の発表があった。私自身はこれまでの職場で勤めることとなったが、隣の施設に移る人もあり、今後引き継ぎとか業務分担の変更などでバタバタしそうだ。 それと、今月20日が提出期限となっていた書類の提出日が24日まで延びた。その分楽になったとも言えるが、苦しむ時間がさらに増えたとも言えた。しばらくは気が抜けそうにないな。実は、21日にはローリング・ストーンズのコンサートを観に、大阪ドームに行くことになっている。随分前にチケットを入手した(奮発した)ので絶対に行くつもりだ。というわけで20日にはある程度仕事のメドをつけたいのだが、そううまくいくかどうか。
ところで、ブッシュ(アメリカ大統領)、いいかげんにしろよな。小泉(日本国首相)、てめえもだ。別にフセイン(イラク大統領)に肩入れするわけじゃねえ。罪なきイラクの民間人が理由なく殺されることに憤りを感ずるのだ。そんな簡単なことがあいつらにはわからないのだ。 圧倒的な力を背景に気に入らねえヤツを片っ端から始末するってのが、アメリカの「正義」なのか。そんな「正義」の名のもとに悪の片棒かつごうなんて、日本政府だって恥知らずってもんだ。 もうどうすることもできないのだろうか・・・。
| 2003年03月14日(金) |
スウェーデンからの手紙 |
今日帰宅すると、友人からエアメールが届いていた。スウェーデンを旅してるってさ。いいな、いいな。「福祉先進国」などとも呼ばれる彼の地を訪れてみたいものよのう。何事も十分というわけではないと思うが、セーフティーネットがはりめぐらされているという点が「福祉先進国」と呼ばれる所以であろう(だからといってスウェーデンが「理想の国」だなどとは思わないが)。 私は競争社会というものを全否定する気はないが、それには前提条件があると思うのだ。簡単にいえば、「敗者復活」のチャンスが十分に用意されているかということだ。例えば、リストラに遭ってしまった中高年が別の場所で力を発揮できるか、失意のまま暗い日々を送るのか、その違いは大きい。今日の日本の現実からは、一度つまずいた人間を足蹴にして簡単には起きあがらせないような空気が感じられる。それは個人にとっても、日本社会にとっても大きな損失ではないのか。 今日リストラを免れた者も、明日は我が身かも知れぬ。転落の人生が待ち受けているかも知れない。そんなことが気にかかっては元気の出ようはずもない。一人ひとりの元気の欠如が日本経済に与える影響は大きいだろう。私が思うに、今日の不況を抜け出るためには、セーフティーネットをより強固なものとし、あらゆるケースにおいて機能するものにしていかなければなるまい。セーフティーネットがしっかり機能することによって、人々はいざという場合の安心感を得ることにもなる。めぐりめぐって日本経済を活性化させる結果になろう。ついでに成熟した文化が花開くかもしれない。というか、心豊かな生活こそが文化と呼びうるものなのだ。 一通の手紙からそんなあれこれを考えた。
| 2003年03月10日(月) |
この人の一体どこが「障害者」なの?! |
昔、私は障害を持つ人達と共同生活を送っていました。今晩、そのなかの一人、Kさんから電話がありました。Kさんとは時々電話で話すのですが、開口一番「失業してまった」とのこと。もう少し事情を聞いてみると、どうも勤め先の工場移転のため通勤が困難となり、職場を辞めざるを得なくなってしまったということらしい。Kさんがその勤め先を気に入っており、また張り切って仕事していたことも知っていただけに、どう声をかけたものか戸惑ってしまいました。私が言葉を失っていると、Kさんは「大丈夫だわ、すぐにいい所、みつかるわ」と自分に言い聞かすように言い、明るく振る舞おうとしているようでした。「そうだよ、Kさんならきっといい所に行けるよ」と私は応えました。 今日の日本経済の状況について私は承知しているつもりです。そして、それが障害を持つ者に及ぼす影響についても。おそらくKさんもそのことは身にしみてわかっていることでしょう。でも、どこかで希望を見いだそうとしているのです。Kさんのような真面目な人がバカを見る世の中であってはならないはずです。
Kさんとは6年ほど共同生活を送った間柄ですが、必ずしもいいことばかりではありませんでした。関係がうまくいかない時期もありました。でも、そんなことがありながらも、お互いに認めあえるようになっていきました。知り合った頃のKさんからはどちらかと言うと依存的な面が強く感じられましたが、様々な困難を経験していくうちに力強さを身につけていったように思われました。自信を持っていきいきとしているKさんの姿に、私は驚かされたものです。もともとKさんにはそれだけの力が備わっていたのだと思います。でも、そのことに気づくまでに長い時間がかかりました。 「健常」の身である私には、「知的障害」を持つ人の苦難を実感することはできません。Kさんも、「知的障害」ゆえにバカにされ悔しい思いを幾度となく経験したことでしょう。幼い頃から「バカ、バカ」と言われ続けた人間が自信を持って生きていくのは並大抵のことではないはずです。Kさんは、つつましやかに生活を送り、ささやかな幸せを感じているようでした。そして、自分の仕事に何より誇りを持っているようでした。失業はKさんにとってショックであったことでしょう。でも、懸命に自分自身を支え、希望を持ち続けようという姿勢には、感服します。私は言いたい。そんなKさんのどこを指して世間は「障害者」と呼ぶのか、と。 Kさんをはじめ「知的障害」を持つ人々は、日々あらゆる困難な状況の下に置かれています。この世の中、理不尽なことばかりのようにも思えてきます。でも、まんざら捨てたものでもないはず。最後の最後まで希望を信じ続けていきたいものです。
やらなければならないことはいっぱいあるのに、身も心も疲れてしまって、いまひとつ動きがよくない私であります。特に、今月20日までと期限を切られている仕事があるのですが(決して簡単な仕事ではありません)、それが遅々として進んでいない状況にあります。このことがまず何より気を重くさせています。おかげで「pHー7」アトリエからも足が遠のいてしまって・・・。仕事が年々忙しくなる一方、職員の待遇は逆に厳しくなるばかりで、本当に頭が痛いです。それにまた人事異動もどうなることやら、あと10日ほどではっきりするらしいですけどね。
毎日ニュースを見ても暗い話題ばかり。 それにしても、アメリカの「イラク問題」への対応はどう見たって異常としか言いようがありません。そんなアメリカを支持しようとする日本政府だってどうかしています。無理矢理にでも戦争をしようとしているアメリカ・イギリスこそが「ならず者国家」というべきでしょう。アメリカ・イギリスは、今日の世界の混乱をつくり出している張本人でもあります。その点では、フランス・ロシア・中国だって同じ穴のムジナですけど。もちろん、日本だって偉そうなことはひとことも言えないはずです。 何が真実であるか、常に注意を払いながら、自分の頭で考え行動していきたいという思いをこの間強くしています。
職場の仕事も大変ではあるけれど、世界の情勢にも無関心ではいられない昨今であります。
今年も早2ヶ月が経過しようとしている。職場の仕事は、相変わらず気ぜわしい。今日も会議が長引いた。
会議が終わってすぐ、私は市内某所に出掛けた。そこでは既に「詩のあるくちびる」という「詩の朗読会」が始まっていた。飛び入りで私も自作の詩2篇(「はずれくじ」「棘はずっと刺さったまんまだ」)を朗読した。芝居と違って、観客の反応はいまひとつ読み取りにくい。それでも司会の方からは「『棘・・・』の詩には感ずるものがあった」との感想が聞かれた。他の人の詩を聞くのも面白い経験だった。
帰宅後、NHK教育テレビの番組で、舞踏家・大野一雄氏(96歳)のドキュメンタリーを観た。脳梗塞とアルツハイマーに苦しむ大野氏と、彼を支える周囲の人々の姿が映し出されていた。生涯現役を貫く大野氏だが、老いや病が彼に多くの困難を強いる。でも、ひとつ思ったのは、舞台ではその人の生きざまが投影される、ということ。そして、また、舞台の上では不思議な力が作用し、演ずる者に力を与えることもある、という点も。もっと言えば、そうした演者の空気が劇場全体を包み、観客の気持ちや身体に変化をもたらす。もっともっと共鳴したいよ〜ん。
おしまい。
| 2003年02月23日(日) |
劇団態変『マハラバ伝説』可児公演 |
ここ1週間どうも体調が思わしくなく、仕事も一日休んでしまった。今日もさほど調子よかったわけではなかったが、大阪の「劇団態変」が可児(岐阜県)にやってくるというのでその芝居(というか身体表現)を観に行ってきた。 今回の『マハラバ伝説』は、1960年代茨城県に実在した脳性麻痺者のコミューン「マハラバ村」のムーブメント(やがて内部崩壊するが、村を出た横田弘氏・横塚晃一氏らが1970年代「青い芝の会」によるラジカルな障害者解放運動を展開)をモチーフとした身体表現である。「劇団態変」自体がひとつの運動とも言えるのだが、その「態変」が「障害者運動」をモチーフに表現を創るというので大いに期待していた。結論から言えば、面白くは観られた。けれども、さらに上の表現を望みたい気持ちも残った。 役者の使い方がうまいとか、音響・照明などが効果的とかいうことはあったが、伝えようとすることがいまひとつ伝わりにくいのではないかとの感想も持った。私は「態変」のような表現形態にも慣れているし、「障害者運動」についてもある程度知っているから、表現しようとしていることがわかるようなところもあった。でも、表現にとって「わかること」が最重要ではないと思うのだ。問題は「何らかの感動が得られたか」ではないだろうか。新鮮な気持ちで観られたシーンも多かったし、面白くはあったが、感動は薄かったな(他の観客がどう感じたかはわからないが)。私自身の期待が大きすぎたかもしれないけどね。 でも、私はこれからも「態変」を見続けていくつもりだし、当分はファンでいつづけることだろう。決して同情の拍手などはしないよ。だけどね、彼らには人を惹きつけて離さない何かがあるのさ。
話はまったく違うけど、2月も終わっちまうんだね。職場のほうも、年度末は忙しい。それで4月以降の人事も気になっているんだが、3月も後半になるまで発表しないつもりらしい。まあ、動くにせよ、残るにせよ、4月・5月あたりバタつくことは間違いない。早いとこ、落ち着きたいよ。森繁さんじゃないが「忙しいは、心を亡くすって書きます」からね。 体がしんどいせいもあるのか、ちょっと楽になりたいな(断じて「死にたい」という意味ではないので、お間違いのないように)。と、ちょっと(だいぶ?)現実逃避した〜い私であった、とさ。
「河童塾」公演を観に、今池芸音劇場に行って来た。一昨年に合同公演で共演したメンバーも出演している。そんなよしみもあって観ておこうと思ったわけだ。今回のテーマは、「自然葬」だそうな。簡単に感想を言えば、比較的さわやかに演じられていたように思われたが、一方で「自然葬」というテーマに対する踏み込みがいまひとつ足りないようにも感じられた。この種の芝居は説明的になりすぎると非常につまらなくなるが、一方でテーマの核心部分に十分に触れられていないと観る側としては物足りなさを覚えるものだ。取り上げられたテーマをどう料理するかという点と、それが演劇表現として鑑賞にたえうるかという点が問われると思うのだ。 私の好きな劇団のひとつに「燐光群」がある。彼らの芝居は「ネオ社会派」などと呼ばれることもあるが、社会的テーマがしっかりと料理されており、それを十分に味わえる仕上がりとなっている。私は、いつも彼らの公演を心待ちにしているし、観に行けば毎回なんらかの満足感を得て帰ってくる。彼らに学ぶものは多い。もちろん、単純に「燐光群」の真似をすればいいというものではない。芝居のスタイルは何通りもあるわけだからね。ただ、いかなるスタイルを選択するかは問われてくると思う。 何だかんだと言ってみたが、何を表現したいのか、どうすれば他者に伝えられるのかについて十分に吟味してみる必要はある。そして、それが演劇的表現として成立するかということも。 「河童塾」の方々とは合同公演での共演以来、私たちの公演にも観に来ていただくなど縁もあり、個人的にも好感の持てる人たちだ。だからこそ、いい意味で競争しあい刺激しあっていきたいと願ってもいる。「今回は負けたと思ったよ」「でも必ずリベンジを果たすから」、そんな言葉を言い合える関係になりたいとも思う。その点では率直に言って不十分であったし、もっとがんばれとも言いたい(がんばっていないとは思わないが)。もちろん、脚本・演出の問題もあろうが、役者の身体を通して観客にメッセージが投げかけられていくわけだからね。役者として力量がないわけではないと思うから。 とまあ、他人様のことを言っているようでありながら、私自身の課題でもありえるわけよ。一日も早くまた舞台に立ちたいものだ。
| 2003年02月15日(土) |
ワクワク、ドキドキしたい |
スーパー一座の原座長からお誘いを受けて、数名の方々と可児市創造文化センター(もしや「和泉元弥ダブルブッキング事件」の現場のひとつではないか?)に地歌舞伎公演のリハーサルを見に行ってきた。 歌舞伎と言えば、御園座などで上演されるものを想像する向きが多いと思うが、日本各地に「地歌舞伎」(素人が仕事の合間を縫って稽古し上演する、各地域独自の歌舞伎)なるものが伝承されている(その数300とも言われる)。プロの歌舞伎役者が演ずるのとはまた違った味があって、なかなか面白いものがある。とはいえ、芝居の質はピンからキリまであり、実ははずれも多かったりする。 今回の可児の地歌舞伎に関して言えば、個々人の力量の差が随所に見てとれた。 その差とは、「観客の立場から見ていて気持ちいいか否か」という一点に尽きる。例えば、「役者の動きがなめらか」で「止まるべきところでピタッと止まり」「キメるべきところでしっかりキメる」といったことがなされていると、気持ちよく観られる。これは何も伝統芸能に限らず、現代演劇でも同様であろう。
実は、数年前に長野県に「大鹿歌舞伎」なる地歌舞伎を観に行ったことがあるのだが、これはなかなか面白かった。地域の神社で上演されたのだが、お祭り的な色彩が濃く、村全体でそれを支えようという意識も強く感じられた。知り合いが舞台に出ているということもあってか、観客の掛け声も御園座あたりでは決して聞かれない類のものばかりだった(「よっちゃん、がんばれ」「熊谷、よくやった」等)。それに応えて役者の方も熱演していた。舞台と観客の一体感も楽しい体験であった。
ワクワク、ドキドキするような芝居に今年まだ出会っていない気がする・・・。
| 2003年02月12日(水) |
面白い芝居を観たいだけさ |
昨日は、一日寝込んでいた。今日はだいぶ回復してきた。 今日の夕方、「宝塚歌劇団・月組」を観てきた。 感想? 当分は宝塚も観ることもないかな。まあ、ある程度予想してはいたんだけど。一方で、私の事前の予想を裏切ってくれるんじゃないかって、微かな期待もあった。だけどね、1部のミュージカルは何だか安っぽいドラマだったし、2部のレビューもラインダンス以外はいまいちの感は否めなかった。 終演後、劇場から出てエレベーターでビルの1階に下りていくと、宝塚の追っかけとおぼしき人々が道をあけて両側にズラリと並んでいるではないか。その中央を私はスターのように颯爽と駆け抜けていったよ。まあ、世間では宝塚を支持する人は数多いってことなのね。 私は、ジャンルを問わず面白いものは面白いと思える人間だが、同様にジャンルを問わずつまらないものはつまらないとしか思えないのだ。今日の「宝塚」は率直に言ってつまらなかった(「劇団四季」よりはマシかも)。あと、「宝塚」とファンの関係も異様に映った。が、「小劇場系劇団」とそのファンの関係も似たようなものかもしれない、とも思った。芝居に真剣に取り組む人間なら、ファンと馴れ合うだけの関係はやめるべきだと思う。また、ファンの側も、つまらないものをつまらないと言うべきだ(それこそが、真の意味でのファンというもの)。 私自身、もっともっと向上していかなければなるまい。
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