今日、職場の行事の一環で「木下サーカス」(於:ナゴヤ球場)を見に行った。サーカスって、あの幻想的な空間とか非日常的な時間の流れとか、何かワクワクさせられるよね。 例えば、大がかりなマジック・ショー。大きな透明な箱のなかに美女が入り、布が被せられる。次の瞬間、布を取り去ると箱のなかにはトラが現れる。え〜っ、どんな仕掛けになってるんだ。考えている間もなく、舞台は転換していく。今度は、空中から吊られた二本のロープを女性二人がつたってある程度の高さまで上っていく。と、片足をロープに巻き付け、宙づりになりながらくるくると旋回を始める。お〜っ、すげえ。思わず口をあんぐりと開けてしまう。 目の前で展開される世界を見ながら、私は空想をどんどんふくらませていく。例えば、こんな芝居があったら面白えだろうなあ、なんてね。オープニング、暗転明けで(檻に囲まれた)舞台上にライオンが登場、咆吼を残して舞台奥に消えていく。とともに、象にのって役者が舞台に入ってくる。物語が展開してしばらくすると、轟音を立てて、球状の檻の中をオートバイが暴走する。そのボルテージのまま、クライマックスへと突き進む。いよいよラストは空中ブランコだ。観客の興奮が最高潮に達したところで暗転。暗転明けとともに満場割れんばかりの拍手、そして、スタンディング・オーべーション。観客は帰ろうともしない。興奮は冷めるどころか、高まる一方だ。劇場全体(この場合、テント公演か野外公演だろうな)が異様な空気に包まれる。なんてね、私たちの舞台も、お客さんの気持ちを思いっきり揺さぶるようなものにしたい。 公演初日まで1週間。もう後戻りはできない。悔いることのないように、あらんかぎりの力を出し尽くしたいと思っている。
| 2002年04月10日(水) |
俺は今怪我するわけにはいかない |
今日は職場でちょっとヒヤッとする出来事があった。施設利用者のIさんらととも少し重たい荷物を運んでいた。Iさんがあまりに重たそうにコンテナをかかえていたので「おろしていいよ」と声かけした。すると、支えきれなかったのだろう、荷物がいっぱい詰まったコンテナが私の足元まで飛んできた。あと数センチずれていたら、私の足を直撃していたであろう。 本番まであと10日を切った今、私は絶対に怪我するわけにはいかないのだ。
そう言えば「ぴあ中部版」の最新号に我々の公演の情宣写真載ったね。思わず同僚に見せびらかした。新規の職員にも見せたんだけど、彼らは、写真に写る私と目の前の私とを見比べて、驚いたようにこう言うんだ。これホントに曽根さんですか、カッコいいじゃないですか。写真のほうがカッコよくて別人みたい、って言うんだよ。う〜ん、確かに職場では疲れた顔してるもんな、きっと。 前回の公演(河童塾との合同公演)を観に来てくれた同僚のひとりは、「曽根さんを見には行きたいけど、内容が恐そうだから一人では行けない」「だから何人かを誘って行く」とのこと。チケット販売も大詰めだ。 とにかく無事に初日を迎えられ、公演が成功裡に終わってくれたら、と思っている。
役者修行、作家志願(この意味はいずれまた)。
| 2002年04月08日(月) |
「チケット代が飲み代に化けた」の巻 |
今日、仕事が終わった後、昔の同僚に突然の電話を入れた。早い話が「公演のチケット、買ってよ」という用件だったわけだが、「夕飯でも一緒にしようか」って話になった。地下鉄の平針駅で待ち合わせて結局飲み屋に行った。アルコール抜きで済むはずもなかったのだ。前売チケット2枚分、しめて3600円の売り上げであったが、それはそのまま飲み代に消えた。
そういえば、昨夜も稽古の後で飲みに行ったんだっけな。菱田さんからは「お前は変だけど、味はあるし、もっと自信持ってやれ」と励まされもした。俺、好きだから芝居やってるわけだけど、うまくいかない時など非常にしんどくなって気持ちがどんどん下降していってしまいそうになる。でも、役者仲間や演出、スタッフの皆さんに助けられながら、今日までやってこられたのだとも思う。 本番までのカウントダウンが始まろうとしている。観客の皆さんには、俺達の出しうるベストの状態を芝居にのせてお見せしたいと思う。
| 2002年04月06日(土) |
君は、障害者プロレスを知っているか |
今日は、「障害者」をめぐる関係について言及しようと思う。 数年前、乙武洋匡君の『五体不満足』という本がベストセラーになった。乙武君個人についてはきっとさわやかな青年だろうと想像するのだが、あの本については批判すべき点が多いと考えている。早い話が、あの本からは「障害者の今日おかれた状況」というものが見えてこない。まるで「障害者差別」など解決済みの問題であるかのような書かれ方がされている。現実に対する分析力、想像力に乏しく、物書きとしては失格だとすら思う。 北島行徳氏の『無敵のハンディキャップ』(文春文庫)を読んでみれば、『五体不満足』がいかに薄っぺらな内容であるかが理解されるであろう。北島氏(健常者レスラー・アンチテーゼ北島)とは若干面識もあるのだが(彼らの名古屋興行のプロデュースをしたので)、障害者プロレス団体「ドッグレックス」(もともとは普通のボランティア団体だった)を旗揚げし、予定調和的な福祉の世界に常になぐり込みをかけている人物である。「ドッグレックス」では当初障害者同士の試合が組まれていたが、やがて「障害者対健常者」の試合も組み入れられるようになった。リング上でむき出しの体がぶつかり合う。健常者レスラーは障害者レスラーに対しても手加減はしない(ルールのうえでハンディを持たせるような工夫はなされているが)。そこでは目を覆わんばかりの容赦ない攻撃も見られる。それを見ている自分自身に居心地の悪さを覚えたりもする。いま目の前で起こっていることを傍観するだけの自分。リング上の光景が現実世界と二重写しになる。北島氏は著書のなかで、障害者レスラーたちの日常の姿についても語っている。それぞれが苦悩しながら現実の生活を送っている。例えば、障害ゆえに職業選択の幅が狭まったり、恋愛や結婚に悩み、日々の生活のなかであまりに多くの不安を抱え込んでしまう。依然として「障害者差別」は幅を利かせているのだ。 「障害者プロレス」について話は尽きないが、レスラーたちがリング上で懸命に闘う姿は非常に感動的である。単にお涙頂戴ではない、素直に感動を呼び起こすだけの力が感じられるのだ。鑑賞にたえうるだけのなにかがそこにあるのだ。 私たちの公演に関しても、観客の側に何かしら感動をもたらすことができたら、この上なき幸福である。
今日の午前中、たまたま仕事で一人配達に出掛けた(車で)。片道およそ1時間、往復で2時間程の行程だ。ラッキー! こんな時ほど芝居の練習にうってつけな状況はない。車内では誰に気兼ねすることなく、セリフを口にしてみる。当然感情も込みで。仕事に何ら支障をきたすことなく芝居の練習が出来て、ものすごく得した気分だ。 午後は職場内での勤務。今日わが職場にいらしたボランティアさんに対して「公演のご案内」をおこなった。私が芝居をやってることについては意外な印象を持たれることが多いようだ。「すごいですね」「そんな一面もあったんですね」などのコメントを聞きながら、心では「そんなこたあいいんだ。とにかくチケット買ってくれ」って思ってる。でも、気がいいばっかりの私は、つくり笑顔で「ふむふむ、よかったら見に来てくださいよ」などと話している.
稽古でも今まで以上にテンポよくなったように感じられた。 あと2週間、いい仕上がりにしていくぜ。もっともっと突き抜けるような芝居をつくっていきたい。
引越のシーズンだ。103号室にも新たな住人がやってきたようだ。 私は、現在「清和荘」というアパート(まるでどこかの老人ホームみたいなネーミングだ)の105号室に住んでいる。106号室に住むおばさま(隣人)は決して悪い方ではないのだが、時折彼女に驚かされることがある。例えば、深夜の12時にだね、ベランダ越しに話しかけてくることがある。「お兄ちゃん、畑(家庭菜園)でとれたんだけど、きゅうり食べるかね」ってな内容だから、TPOさえわきまえていただければ評価は全然違ったものになるはずなのだが。さすがに深夜にいきなりはびっくりする(あの方のなかには「いきなり」という意識は恐らくないのだろうな)。とは言っても、そんなのは可愛いもんだと思えてしまう。 今の住居に越して来る前は、庄内通のほうの安アパートの2階に住んでいたんだけど、住人は結構くせ者揃いだった。一方の隣人はアル中男A(後で詳しく)、もう一方がシャブ中男(「シャブ中」は、私が入居した時にはすでに服役中であった。結局一度も会ったことはない)ときたもんだ。それに、Aのお隣は「暴走族」だというではないか。その他、1階には、水商売風の女性にヒモ男がくっついて同棲なんかしちゃって。それと、絶滅寸前の「トキ美容室」てな感じの美容院(ここのおばさんもきつそうな感じだった)があったよ。 Aと言えば、酒癖がわるかったよな。安アパートなので隣の部屋から聞こえる声、すごく響くんだ。週に1,2回、酔っぱらったAの声を聞くのがたまらなく嫌だった。気になって夜眠れやしないし。真夏なんかお互いに網戸の状態にしてあるから余計に声が聞こえてくる。「バカ野郎、暑いなあ」なんて言われたってどうしようもねえだろ。別に私に対して言ってるつもりはないだろうけど、気にならない方がおかしいだろ。そういえば、Aのヤツ、アパートの階段(酔っぱらいにはきつく急な階段だ)を登り詰めたまではいいが、力尽きて私の部屋の真ん前で眠りについてしまったこともあった。 Aのことではホント話が尽きないが、もう一点。ある朝なんか、Aの部屋から聞こえてくる目覚まし時計が10分以上鳴りやまないので(結構早い時間帯でセットされていた)Aの部屋のドアをノックした。すると中からAの声が返ってきた。「うるせえ」だとさ。「バカ野郎、てめえ。元はと言えば、てめえが目覚ましをいつまでも消さねえのが悪いんだろ」「ブッ殺すぞ」などと声に出さないまでも、普段は温厚な私めだって我慢ならねえって話さ。 アパートを探すのに、家賃や間取りはチェックできても、「どんな隣人が住んでいるか」などといったデータはまずない。その点は運任せだ。隣人しだいで生活が楽しくもなり、きつくなったりもするのにね。 住居選びにせよ、仕事選びにせよ、私たちは人生のあらゆる局面で何かを選び取る行動に出る。だが、選んでいるようでいて、実は選べない事柄のほうが多い気がする。人間関係においては特にね。まあ、それが人生ってものなのかもしれない。 偶然の産物ってやつさ。と同時に偶然から出発して必然を生み出すってこともある。人生、何があるかわからない。でも、それだからこそ、楽しいわけでもある。
| 2002年04月02日(火) |
毎年この時期には・・・ |
この時期になると、俺はエヌ・エイチ・ケーの外国語講座を、何かやろうかなって必ず思うんだけど、これまでのところモノになったためしがない。単に三日坊主と言ってしまえばそれまでだが、ちょっと言い訳させてほしい(ホントに言い訳でしかない)。 まず、英語。「世界共通語」的地位を手中に入れようとしているこの言語。俺って結構あまのじゃくなんで、それだけでもかなり気にいらねえんだ。じゃあ、他はどうかって言うと、スペインもフランスも植民地を拡大していく中でその言語が伝播していったわけで、その過程では先住民の言語も文化も破壊されていったわけだ。人々の誇りを踏みにじる形で広められた言語、という歴史的側面はどうしてもある。ロシアにしろ、中国にしろ領土を拡大していく過程で他民族を蹂躙していったことに違いはない。もっと言えば、日本語だって方言(豊かな生活言語)を軽視した結果、地域固有の文化を失わせた歴史を負ってやしないだろうか。そんなこと(余計なことかもしれないが)を思うと、外国語を覚えようという気持ちは萎えていきそうだ。 関係性のあり方によっては、例えばいわゆる共通語よりも方言のほうがコミュニケーションをとるのに適した場合も多いであろう。その地域、あるいはその生活に根ざした言語があり、文化がある。もちろん、他の文化と交わるなかで、相互に活性化し、そこに新たな文化がもたらされることもあろう。詰まるところ、個々人の関係性の一点に収斂されるのではなかろうか。 俺、こんなふうに話しながら、実は演劇に関係することしゃべってるつもりなんだ。わかるかな。 まあいいさ、じゃあな。おやすみ。
もう4月になってしまったんだね。今日からバスのダイヤも改まったんだけど、本数が減ってるよ。特に朝が不便になった。平針駅から職場へと向かう朝8時台も14分を逃すと30分までないという状況だ。俺、今まで21分のバスに乗って行ってたのに。今までより10分近く前に家を出ないといけないなんて、あんまりだよ。ただでさえ低血圧の俺は、起きてからエンジンがかかり始めるまでにだいぶ時間が必要だというのに。 それにしても今日日中の天気は最高だった。ちょっと汗ばむくらいだったけど。 今日は勤め先(知的障害者施設)の行事で花見に出掛けたんだ。施設利用者と職員の総勢40名での大移動とあって、ただボーッとすごしているわけにはいかないのが残念だったけどね。でも、春の日ざしを浴びながら桜舞い散るなかを歩くのって最高な気分さ。月並みだけど、桜の散りぎわの美しさにちょっと感動したよ。でもさ、そういう日本人的な心情ってともすると危ういよね(一歩間違ったら「神風特攻隊」を無批判に賛美することになっちゃうからね、と思わず政治的・思想的発言をしちまったぜ)。 日本人的には桜になんらかの意味を持たせようとするのだが、そんな人の世の流れとは関係なく桜は毎年花を咲かせ、そして散ってゆく。俺は桜ふぶきを一身に受けながら、夢のような世界にいざなわれてゆく。明日にはもう存在しないであろう一瞬の美しさに陶酔するのさ。 俺も、舞台で狂い咲きしちゃおうかな。へっへっへっへっへ。
今年度のお勤めは、今日で終わり。職場を去る人たちとの別れを惜しんだ。それにしても桜がきれいで、いっそう悲しい思いにさせられた。 桜の花は、はかなげでそれゆえに美しく、悲しい。そして、忘れかけてた思い出を運んできたりする。その思い出は、琥珀色に輝いているよ。 満開の桜といえば、鶴舞公園。俺、昔、鶴舞に住んでたんだ。桜の季節には、満開の桜の下で、ギターを奏で、即興で歌ったもんさ。類は友を呼ぶってやつでI君(今は九州の大学で社会調査論を教えている)なんかとよくそんなふうにして遊んだよな。あれからもう10年もたっちまったんだな。鶴舞、俺にとって、あの街は「青春を置き忘れた街」なのさ。 いくつもの季節を過ごし、思い出をいくつも重ねていく。人も、人の世も、日々変わっていく。でも、花は毎年同じように咲き、宇宙は悠久の流れのなかにある。 人間なんてホントちっぽけな存在だよな。でも、俺は、俺が、俺として、俺らしくあるように、精一杯生きていこうと思うんだ。今は今しかないし、今この時を逃したら再び戻ることはない。一回限りのこの瞬間を、しっかりつかまえたいと思う。
| 2002年03月28日(木) |
曽根君は宮沢和史(THE BOOM)の親友か? |
「曽根君はブームの宮沢和史(ボーカルであり、バンドのリーダーでもある)の親友なの?」 ある人からそんなふうに聞かれたことがある。 皆さんはTHE BOOMというバンドをご存知だろうか。「島唄」「風になりたい」「帰ろうかな」等のヒット曲があるんだけど。彼らは山梨出身であり、そのうち宮沢さんは私の母校(甲府南高校)で、私の1学年上だった。関係としてはそれ以上でも以下でもない。そのことを誇張して他人に語ったこともない。ところが人から人に伝わるうちに話はねじ曲げられ、冒頭の質問を投げかけられるようになった。 向こう(宮沢さん)は恐らく私のことを知るまい。 でも、私のほうでは彼についての記憶がある。彼は、高校の学園祭でギター片手に松山千春の「青春」という歌を歌ったんだ。とにかくうまかった。でも、その彼が数年後メジャー・デビューを果たすことなど、その時は思いもよらなかったな。 もし、彼とあの頃何らかの接点を持てたとしたら、違った人生があったかも知れない。 甲府南高校ってとこは一応進学校ではあったけど、結構音楽好きな連中もいたもんだ。田舎の中学校出身の私からすれば、楽器できるヤツが多かったのには驚いたなあ。私自身は当時フォーク・ギターを持ち始めたばっかりで、何らかの曲が弾ける人間がまぶしく見えたものさ。 学園祭のこと、今でも思い出すけど、私には演劇発表の場でもあり(演劇部に所属してたからね)、音楽表現の機会でもあった。今日は音楽の話をしたいのだが。 クラス対抗で自作自演の音楽を競う合うイベントがあって、私は作詞とボーカルを担当することが多かったよ。あの時のタイトル、覚えてるよ。「白い黄昏」(歌詞を見た女の子に「曽根君、オフコース好きでしょ」って言われた)、「心の旅立ち」(チューリップ「心の旅」のパクリと言えなくもない)、「赤い傘」(後年友人から「ルビーの指輪」のパロディーみたいと指摘された)・・・。今から思い出しても楽しかったな。もちろん、あの頃はあの頃で悩みもあったけどね。 あの時の自分と今の自分との間に落差はあるかもしれないけれど、でもどちらも自分であることに違いない。これから私自身どう変わっていくのか、楽しみでもある。どこかにワクワクした気持ちを持ち続けたいと思う。それをひとことで言えば、夢、ということになるんだろうね。
|