Leonna's Anahori Journal
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それでは新しい日々のメモ処へご案内いたします。 エレベーターで3階あがった右側奥です。
2011年12月18日(日) |
日記、引っ越します。 |
冬らしくなりました。 冬生まれの冬好きといたしましては、湯たんぽ抱えて上機嫌、でございます。
9月以降、あれこれあれこれありまして、かつてないくらい悩みました。 悩みに悩んで、もう合理的な考え方ではムリ、回答出ないわというので占い師さん(!)にみてもらったり。 体調もガッタガタでお医者さんにも通ったけれど、いつものことながら私の不調はストレス等の精神的なものが原因で、ココロが身体を引きずり回すのでございます。
このココロのなんじゃもんじゃをどげんかせんといかん!というので、これまでしたことのないことをしてみたり、これまで当たり前に続けていたことをやめてみたり、もうこの三ヶ月ほどは「お試し」満載の毎日でありました。
それがけっこう上機嫌(湯たんぽ抱えて)になったのは、悩んだ結果諸々腑に落ちて、今後の方向性も決めたからで、もう少しのんびりすれば体調も戻るんじゃないかと。 いや、もう少しじゃなくて、これからはよほどのことがないかぎり、ずーっとのんびり暮らそう、出来る限りそうしようと思っております。
そういえば、占い師さんが面白いことをおっしゃっていました。 曰く「あなた韓流スターとか好きじゃない?」。ギクッ。正直に「以前入れあげてました」と告白すると、「けっこうオトメなのよ、夢見る夢子さんなの。そういうところを殺して生きたら元気なくなるの当たり前。いまパワーはほとんどゼロに近いから、身体を休めることが大事ね」ですと。ふはははははは、なーぜか愉快だぞー。
それから、「ライターさんとか出版関係のお仕事されてましたか。ブログか何かやってらっしゃいます?」。 ウェブ日記は開店休業状態、読み書きは好きだけどそういう仕事についたことはありませんと答えると、かなり強い調子で「ブログ続けてください、言葉で何かを発信することはやめないでくださいね」と。これはちょっと嬉しいお言葉。
ほかにもいろいろ興味深いお言葉をいただいたのですが、手相と西洋占星術(ホロスコープ)でここまで見抜かれるものなのか、と。恐るべしフォーチュンテリング。 面白かったのはこの占い師さん(とってもキュートな方でした)、ご自身が韓流ファンだそうで、東方神起が二人になっちゃったことに落胆されてました。お気の毒。 「あー、あれは残念ですよねぇ。SMAPがキムタクと吾郎ちゃんと二人になっちゃうようなものですもんね。それはもう、別物ですよねえ」。チマリス、フォーチュンテラーをなぐさめるの巻、でした。
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長らく親しんでいただきました当ジャーナルですが、タイトルと場所を替えて再スタートすることにいたしました。 ひとつは気分転換。あと、ジャーナルって「日誌」だからねぇ。これだけサボって日誌名乗るのもちょっとどうかと思うんだなぁ。
一両日中にもう一度、新アドレスお知らせのためにジャーナル最後の更新をいたします。コンナアタシデヨカッタラ、新しい場所へもお運びくださいませ。 よろしくお願いちまりす。
残念だ。 なんとか、なんっとかならないかと、祈っていたのだけど。 ずいぶんな仕打ちじゃないか、神様は非情だな。 松田直樹にはプレースタイル以前に、生き方にスタイルがあったんだよ。 男の子だい!ってかんじのね。 そういうところが愛された理由だと思う。
安らかに、いや違うな、、、 えっと、あの世でもたくさんサッカーをしてください。
…てかさぁ、マツダー!!(かわいそうすぎる)
8月か… 7月は、オメデトなでしこバイバイエイミーという感じで過ぎていったのだった。 そうこうしてるうちに、じき夏も終わるな…
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エイミーワインハウスてば、かっけーねえちゃんで衆目の一致するところだろうけど、またきっちりと27歳で、ねぇ…
個人的には「つきあった男が悪かった」感からどうしても離れられないんだなあ。かわいいじゃん、かわいいじゃんエイミーワインハウス、と思うわけだよ。
たとえば「好きになった男がろくでもない男だった場合」ってどうしたらいいんでしょう。それは誰のせいで誰の罪なんでしょう。 このあたり掘り下げていくと相当深いとこまで行ける気がする。 いずれにしても芸術家(敢えてアーティストとは書かない)の所業だわな。世間の目だの口だの、相手にする気まるでなし。生存すらも守れないくらいにピュアになるって、そりゃあやっぱり芸術家だからなんじゃないの、ねぇ…
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と、まぁこんなどうしようもないことを、会社のPCからアップしようとしております。 おとといから家のPC、インターネットにつながらない。ADSLモデムが寿命なのかも。 会社の昼休みに更新て、これはこれでいいような気もする。が、家のネット環境も復旧させないとなぁ。面倒くさいなぁ。
8月は詠嘆ばかり酷暑かな(ちまりす心の俳句)
「マイティ・ソー」を観てきました。 映画に3Dは要りません派の私ですが、飛び出すアサノタダノブを観る少ない機会かとも思い、大きな黒メガネをかけて鑑賞しました。
実際には、アサノはあんまり飛び出しては来なかったのですが、ケネス・ブラナーが綺麗に丁寧につくった、なかなか良い映画でした。アメリカンコミックが原作のヒーローものだけど、そこはかとない品の良さが感じられた、と、私は思うのだけど。
それにしても、ナタリー・ポートマンて良い女優さんになりましたねー。彼女の役を別の役者さんが演じていたら、別の映画になっちゃってたかもしれません。彼女の芝居で映画に箔が付いた。
しかし、それでさっそく「ブラックスワン」を観に行くほど、私は真っ直ぐな人間ではございません。次に観たいのは、史上最悪の二日酔い馬鹿軍団がタイへ行くという、あの映画でございます。 「ブラックスワン」はDVDでもいい、でも馬鹿軍団は大きなスクリーンで観たい、ついでだから3Dにしちゃえばいいのに、なんて思ってみたりもする。
そういえば、シャンゼリゼの映画館でもこの映画、かかってました。 あの看板みたときは、うれしかったなー。トレ・トレ・ビヤン!、思わずにんまりしちゃいました。
やっと画像を編集してアップ出来るようになったので、8日のジャーナルに画像を追加しました。百聞は一見にしかず、です。
そして、これで旅行(パリ)のこともお伝えしやすくなりました。しばらくはパリでのあれこれを書きたいと思います。
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今回はドバイ経由で、シャルルドゴールまで実に22時間かけて行ったのです。 6月9日の夜に成田を発って、10日の午後2時頃CDG着。時間はかかるけど午後の早い時間に着けるのがこの便(エミレーツ)の良いところ! 9日の夜6時過ぎまで仕事をして、6時半東京発の成田エクスプレスに飛び乗りました。クロも一緒に飛び乗りました。 チミと一緒に空の旅〜♪ しかし、しかし。朝3時半にドバイ到着、5時間のトランジットですからねぇ… 深閑とした空港内に朝4時、男の人の声でチャント(多分イスラムの経文だと思う)が響き渡り、それから次第に人の数が増えてあっという間に乗り継ぎのひとでいっぱいになってしまいました。 お金持ちの国らしく、ピッカピカの空港内には免税店はもちろん、スタバもPaul(パン屋さん)も何でも揃っておりました。この空港で、行きも帰りもハーゲンダッツのアイスクリームを食べました。
なかなかパリにたどり着かないなぁ? もうすぐです。あともう少しでパリにつきます。(ドバイからまだあと7時間;;)
2011年07月08日(金) |
地震がきた日のこと(つづき) |
その後時間が経ってしまいましたが、震災の日のことを書き終えてから、その後のこと(6月にパリへ行ったことやなにか)を書きます。 地震とパリへ行ったことは微妙に関係があり、パリでは偶然の出会いから、初対面の女性に地震のさなかに神田の路上で襲ってきた「馬鹿に文学的な思い」を図らずも語ってしまったりしたのでした。
それではまず、地震がきて会社から外へ逃げたりまた会社へ戻ったりして、深夜になって地下鉄と徒歩で帰宅した日の、それからのはなし。
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夜中の1時過ぎに家へ帰り着いてこわごわ玄関のドアを開けてみると、下駄箱の上に載せた本棚から文庫本が四、五冊下に落ちていたが、玄関脇の小窓の桟に載せたガラスの鉢や小さな花瓶は、まったく無事だった。そういえば玄関の外、ポーチの端にレンガを積んだ上へ置いた植木鉢は全部大丈夫だったのだ。
ところが部屋に入ってみると、うわーっ!買ったばかりの薄型テレビがスカパーのチューナーとDVDプレーヤーをひき連れて高さ70センチのボードから落下、床にぺったりと画面を伏せているではないか。DVDプレーヤーは床に落ち、コードの長さの関係で床まで届かなかったチューナーがボードからぶら下がっている。あわててTVを助け起こし、電源を入れてみたが何も映らず。青くなったが、これはアンテナのプラグが抜けたのが原因だとわかり、すぐに復旧できた。 それ以外にも、仏壇の位牌が倒れ、供えてあった花も倒れて花瓶の水で周囲はぐっしょり。台所の洗剤やまな板、サランラップの箱などがシンクの中へ落下。洗面所でも化粧水の瓶が洗面ボールの中へ落下して、瓶は無事だったがふたにひびが入っており、捻って開けてみたらピシーッと音がして割れてしまった。あと割れたものといえば食器棚の中のお茶碗ふたつだけで、総じて被害というほどのものではなかった。
しかし、二階へ上がって、寝室のドアを開けてみると。えええーっ 140センチの幅で天井までの高さのスチール本棚にぎっしり入っていた本(500冊位?)が寝床の上に落下して山になっていた。この本棚は普段天井に突っ張る状態で固定されているのだが、ドアを開けたときには右端の40センチ幅の棚が天井から外れて斜めに部屋を突っ切っている状態。慌ててふらーっと倒れかかっている棚を壁面へ押し戻したのだが…、しかし感心するのは放り出された本が散乱せずに、きれいな山になっていたこと。要するにそういう揺れ方だったのだろうけれども、それにしても律儀に、一冊残らず寝床のうえにのっかっているではないか。地震が就寝中だったら、降ってくる本の雨あられで、無傷では済まなかったかもしれない。
↓本の上に置いたスチールの棚板だけは、私がひろい集めて置いたもの。本は落ちたときのまま。
呆然と立ち尽くす午前二時、しかしこの本を片付けなければアタシは寝る場所がないのか。あーやれやれ、とつぶやいて本の山を片付け始めた。で、結局寝たのは朝方の五時頃…
そうしてその日から、いわゆる「震災後」が始まったのだった。 津波の被害に遭った地域にはその地域の、原発に近い地域にはその地域の、東京都とその周辺のベッドタウンにもその地域なりの、被害の大きかった場所、そうでもなかった場所、とにかく震災というものに見舞われた日本という国で、震災を意識するそれぞれの人にとっての「震災後」が始まって、それは目に見える形と見えない形の両方で、いまも続いている。
地震がおきたときは都内神田の会社で仕事をしていた。事務所は昭和45年築のビル7階。埼玉にある自社工場と電話中にぐらぐらっときて、結構大きいね、あっこりゃだめだ!いったん切るわ!となった。
揺れは徐々に大きくなって、ちっともやむ気配がない。大きな横揺れが繰り返し何度も来る。 女性社員はほとんどが机の下にもぐりこんでキャーとか恐いーとか言っている。壁際の書類棚からファイルがバサバサ落ちてくる。ついに来たか。もしかしたらダメかもと思う。 ダメかもと思いながら机の上に手をついて、押さえるようにしながら立っていた。 机の下で丸まっているひとを見ると、恐い。あのまま潰されたらどうするんだと思う。 それで、机のうえを押さえて立ちながら、天井や壁面に目を配っていた。机の上のPCディスプレイが倒れても目もくれない。 どうやら、上の階が落ちてきたらそこをよけながらでも逃げるつもりでいたらしいのだ、私は。黙って下敷きにはならないぞ、こうなったら死ぬ前に一暴れしてやるからなという心算で周りをにらみつけていた。いま思えば、立っていられる程度の揺れだったからできたことだとわかるのだが…
揺れが小やみになってきたので、とにかくビルの外に出た。このときもコートを着て、財布は勿論、しっかりバッグを持って出た。入社以来はじめて7階から階段を使って1階まで下りる。落ち着いているつもりだったが、エレベーターの中にいるときにあの揺れに見舞われていたらと思うと考えただけでおかしくなりそうだった。 そして、昨日は幕張メッセで大きなフェアがあり営業はじめ多くの社員が出展者として会場にいたのだが(社内に居残っていたのは7人だけ)、しかし、幕張は海至近の埋め立て地だから地盤の液状化現象なんかおきてたらえらいことだぞなどと考える余裕ができたのは、まだかなりあとになってからだった。
外へ出てみると、周りの建物から出てきたひとと停車中のクルマとで大通りが埋まっていた。みんな建物を見上げている。歩道にいると建物が崩れてきたときに直撃されてしまうので車道に出ているのだ。きっと多くの人がクライストチャーチを襲った地震のことを思い出していたのだろう。 隣のビルのエントランスのところで地面を指差しているひとがいて、覗き込んでみたらエントランスの敷石と地面の境目に亀裂が入って隙間があいていた。 外へ出てからも繰り返し余震がきて、足下が動いているのがわかる。寄りかかっているガードレールも揺れている。見渡す限り、ビルも信号機も街路樹もすべてが揺れているという非現実的な眺めが広がっていた。揺れるというよりも、視界の中に在るものすべてが震えているのだ。 (このとき、バカに文学的なある考えが稲妻のように体内を駆け巡ったのだけれども、それはまた別のときに書こうと思う)
小一時間ほど外にいてそれからまた階段で会社へ戻った。あれだけ大きな揺れが来てしまったのだから、さすがにもうあそこまでのものは来ないだろうという判断だ。 親会社からは今日はもう帰ってよしとの連絡があったが、電車はすべてストップしているのだから「よし」と言われても帰れない。しかたなく仕事をしていたが、間断なく余震が来るので船酔いみたいになって、気持ちがわるくてしようがない。昨日までは震度3くらいでも恐かったのが、いまや「気持ち悪いなー、仕事出来ないじゃんよー」なのだ。われながら驚く。 この頃になると都内と近県は携帯メールで連絡がとれるようになり、会社へも連絡が入ってくるようになった。幕張は、地震が来た時点で設営作業中止、明日以降はJRの運行次第(動かなければ催し自体中止)、社員は全員無事、帰る足については「なんとかやってみる」とのことだった。 埼玉の工場からは、倉庫の蛍光灯が落下したがケガ人はなし、ただし群馬工場と連絡がとれない、どうやら停電しているらしい、との連絡が入った。
6時過ぎに派遣で経理の仕事を手伝ってくれている女性が、徒歩とバスで行ってみると言って帰って行った。家は豊洲にある高層マンションの35階だという。当然、エレベーターは止まっているだろうからマンションまでは帰り着けてもどうやって家に入るのかはわからない。でも、飼い犬が二匹いて、心配だから帰るとのことだった。彼女によると、最近増えたタワーマンションは、災害時に備えてすべて屋上にヘリがおりられるようになっているのだそうだ。地震などでエレベーターが止まったときに上層階の住人を助けるために。なるほど。しかし、彼女は無事35階の部屋まで帰り着けただろうか。
7時頃、夕飯を確保しにコンビニへ行こうとしたら、表通りは歩いて帰る人の波、だった。みんな脇目もふらずにけっこうな早足でのしのし歩いて行く。どこまで帰るのか知らないが、そんなに皆さん、便利な場所にお住まいなのだろうか。特筆すべきは、何人かにひとり防災用のヘルメットをかぶっているひとがいたことだ。以前から震災に備えていたのだろうか。まったくもって正しい行いではあるのだが…改めて非常事態であることを思い知らされる。
結局会社には夜11時頃までいた。 インターネットテレビを観ている同僚に「都営新宿線は復旧したかしら」ときいてみる。JRは早々と運行を断念したが、地下鉄、特に都営線はほとんどが動いていた。ならばJR一駅分と、駅から家までバスに乗っている分を歩けば帰れる。何十キロも歩くくらいなら会社に泊まった方がましだが、それくらいですむのなら帰りたい。ずっとイスに座りっぱなしで腰が痛くなってきている。自宅で身体を伸ばして休みたい。
「無理そうだったら戻ってきます」「気をつけてね」と言葉を交わして会社を出たのが11時、すし詰めの電車でいつもの三倍の時間をかけて(時速25キロ制限で走行)隣駅まで来たときには12時半をまわっていた。そこから歩いていつもの乗降駅まで30分。そこからまた30分以上かけて家まで歩く。駅から駅までの国道は、東京ほどではないけれどやはり人通りが多かった。まるで夏祭りの夜のような賑わい。しかし、ここでもヘルメットをかぶって歩いているひとが何人もいた。
ところがバス通りに入るととたんに人が消えて、歩いているのは私ひとりになった。住宅街の中を通る近道もあるのだけれど人もクルマも通らず暗いので、せめてクルマの通る表通りを選んだのだが、これほどまでに人影がないとは思わなかった。考えてみたら夜中の1時なのだ。この時刻、だいぶ冷え込んできていて歩いていると耳が痛くなってくる。すでに棒になりかけている足を無理矢理動かしながら歩いていると、狐にでもつままれているのではないか、大地震もなにもかも狐に悪さされている私個人の見ている幻なのではないかと思えてくる。あれだけ歩いていた人が忽然と消えたのがその証拠だ。
けれども、当然のことながら幻などではなかった。 家に帰り着いて中へ入ってみると確かに地震はあったのだとわかったし、TVを点けてみてからはさらに色々なことを知ることになった。 (長くなったので、この先、日を改めて書きます)
2010年12月17日(金) |
今年の後半を振り返ると… |
今年はサッカーW杯があったのでしたね、南アフリカで。もう、遠い昔のことのような気がする。 6月にW杯があって、7月8月はやたらに暑くて夏バテ。 で、9月にローマへ行ったのだけど、行く前と帰ってきたあとがとにかく忙しくて参った。出かける時点で実はすでにへとへとの状態だったのです。
それで、ローマから帰って10日ほど経った日の朝、出勤途中に自転車にはねられてしまったのですよ。 雨の日で、渋滞で動かないバスに乗るのをやめて駅まで歩いて出ようと、普段は通らない道を傘をさして横切ろうと足を踏み出したとたんに、ぽーん!と。猛スピードで緩いカーブを曲がってきた自転車はブレーキを効かせるひまもなく突っ込んできました。「はねられる」という言葉の意味を身を持って知りました。
気がつくとアスファルトの道に倒れていて、傘も鞄も持っていなかった。起きようと思うのだけど腕だの膝だの打った場所が痛くてなかなか起きられない。口からは勝手に「痛い、痛い」って言葉が出てくるし。早く起きないと、もうすでに洋服が路面の雨を吸ってびしょびしょなのに…。 自転車に乗っていた女の人が呼んでくれた救急車で搬送されたけれど、骨折はなく打撲ですみました。どうやら自転車の前カゴにぶつかって飛ばされてしまったようなのですが、警察のひとに「自転車はどちら側からぶつかってきたか」と聞かれても咄嗟に答えられなかった。気がついたら飛ばされていたので、はっきりこうだったと説明できるような記憶がない。頭は打ってないんだけれど、起きたことのスピードに認識がついていかない。
翌日はひどい筋肉痛に見舞われました。打撲の痛みではなくて、全身が筋肉痛。きっとはねられた瞬間のショックに全身の筋肉がぎゃっと仰天した、その後遺症(反動)だったのだと思う。 いろいろと新しい発見の多い経験だったけれど、しかし、あれが自転車じゃなくてバイクかクルマだったら、私、助からなかったかも。
事故に遭ったとき、私はうまく行っていないある仕事のことを考えていて、心ここに在らずという状態でした。ただ考え事に没頭しているだけではなくて、会社の仕事環境(人的環境)に対する不満も抱えていたし、締め切り時間に対する焦りもあった。要するに個人的にあまりよい状態ではなかったのです。 で、自転車にポーン!って、こんなのダメでしょう!(←だんだん自分の愚かさに気がつき始める。)絶対にダメだよ、こんなことしてたらほんとに死んじゃうわよー。もー、バカじゃないのーあたしー。
それ以来少し考え方を改めまして、忙しいのは相変わらずですが、とにかく粛々と仕事をする、周りを悪化しない、そして夜は出来る限りたくさん寝る(よくばってあれこれしない)ことにしました。 それで、その後の3ヶ月、10月、11月、12月に何をしていたか、覚えていない。とにかくひたすら仕事して、帰って寝る、の繰り返しの日々。これ、地味だけど悪くなかったですよ。充実感はあった。
そんなこんなで、かつてないくらいにガリガリ仕事した今年、明けて新年は東北の温泉で過ごすことにしました。もう持って行く本も買ってあります。今年もあともう少し、雪の中の温泉を楽しみに、ガリガリ頑張るのです。
と言う訳で、行ってきましたよ、ローマへ。…って、もう今年も終わるじゃん!
ええっと、ご無沙汰いたしました。仕事ばっかりしているチマリスです。 仕事ちゃんとやってるという意味ではまともになったのですが、やりすぎちゃって逆にチョット変というか、なんというか。
ええーっと、ローマへ行ったのは9月です。 ローマは、古くて小さくて汚くて、ちょっとガラが悪かった。でも写真うつりだけはやけに良くってね。 バチカンは良かったですよ。日曜日に行ったので、サンピエトロの地下からミサを終えた僧侶さんたちがぞろぞろぞろぞろ出てきてね、わー、これ映画と同じだ、まんま『天使と悪魔』だー!って軽く興奮しました。でもクーポラのてっぺんまで登ったときはさすがに苦しかった。終盤、せまい螺旋階段を上りながら、うー、ここでリタイヤか?!って何度も思ったもん。 システィーナ礼拝堂では、キリストの磔刑像(十字架)のまえへ転がるように走り出て、しゃしゃっと十時を切って跪くひとを目撃。礼拝堂の中は超混雑状態で、ディスイズ観光地。とても天井画どころじゃないよって感じだったのですが。
日本も残暑厳しかったけど、ローマもけっこう暑かったな。 …ローマのことはまた思い出したら書きますね。
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