Leonna's Anahori Journal
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誕生日であった。 少し前にカイロプラクティックのY先生から銀座分院の割引券をもらって、ストーンセラピーの予約を入れておいたのだった。ストーンセラピーは、平たい、すべすべの玄武岩を温めて使うオイルマッサージだ。
お昼の12時から銀座分院でマッサージ。 施術中、少し寒かったり、ちょっと痛かったりしたのだが、それが言えなくて歯を食いしばってがまんしてしまった。マッサージしてくれた女性スタッフはとても感じがよくて、ただ私が「少し寒いです」とか「もう少し弱めでお願いします」といえばそれで済んだのに…。最後に温めた石を敷いた上に寝てうとうとしたのが、とても気持ちよかった。 しかし、やっぱり私に一番あっているのはカイロプラクティックのようで、ストーンのあとの骨盤調整ですっかり凝りがとれて元気になった。事前申告してあった四十肩も若干楽になって、腕がかなり上がるようになった。
マッサージのあと、横浜へお墓のお掃除に行き、それから横浜の友だち(中学高校の同級生)と会ってお茶をして、帰ってきた。 友だちは、突然メールを入れたにもかかわらず、時間を作って駅前まで出てきてくれた。彼女とは去年の暮れにもこんなふうにして会った。その駅は、以前私が二十五年間住んでいた町にあって、彼女と私はこの駅の階段のところで毎朝待ち合わせて一緒に高校へ通っていたのだ。 楽しいことばかりではなく、いろいろな思い出のある場所だけれど、なぜかこの頃は素通りするのにしのびなくて、「実はお墓参りに来てるんだけど…」と友人を呼び出してしまう。
友だちとは一時間ばかり、自分や家族の健康のことを中心に話し込んでしまった。昔、デヴィッド・ボウイやクィーンの話で盛り上がった(洋楽好きの馬鹿娘だった)頃にくらべると、真剣さの度合いが違う。夢見る頃を過ぎても共通の話題は尽きないのだから、これは喜ぶべきこと、なのだろうか?
私はこの数年というもの、自分は孤独には慣れているし、ひとりでいるのが好きなのだと勘違いし続けてきたお陰で、必要以上に「ひとり」になってしまった。要するに、傲慢だったということだろう。孤独というものを甘くみ過ぎたのだ。 それで、たまに友だちに会って顔をみて話したりすると、何か凄く特別な、忘れがたい一日だったように思う。今日、誕生日を迎えた自分にとっての一番のご褒美は、マッサージもさることながら、やはり友人と会ってお茶を飲んで話したこと、なのだ。
2009年12月21日(月) |
メッシ VS ベロン |
FIFAクラブワールドカップ決勝。 レオ・メッシの千両役者ぶりもさることながら、自分の出身クラブであるエストゥディエンテスをCWC決勝に導いたファン・セバスティアン・ベロンの幸福な選手キャリアにため息が出た。
選手生活の最晩年に自国の出身クラブに恩返しをするといって戻って行く選手は少なくないが、ベロンのように素晴らしいコンディションを保ちながら、あと一歩で世界一というところまで行くというのはほとんど奇跡と言ってよいのではないだろうか。
だって、ボカでもリーベルプレートでもないんだよ。エストゥディエンテスをあそこまで連れていったんだから。ほんと、凄すぎるよ、ベロン。久しぶりにみた(実はもう引退したんじゃないかと思っていた)ベロンが、以前と全く変わらない眼光と熱いプレーを見せてくれたことがうれしくて、うれしくて。もーお、本当にサッカーファンで良かったにゃあ!
ところで。
12月から姓を旧姓に戻した。 正確には去年の9月に改姓の申し立てをして二ヶ月ほどでOKをもらっていたのだが、そのOKの手紙が役所(家裁)から届いたのが今の会社に入社して二日目。いくらなんでも、間が悪すぎる。 それで、一年くらいしたら改姓して、仕事場でも元々の名前で呼んでもらうようにしようと思っていたのだった。
今年8月に三日間夏休みをとって、その三日目に市役所へ改姓手続きに行った。 家裁から改姓許可がおりても、そのままでは姓は変わらない。許可書類を持って市役所の戸籍課へ行き、改姓手続きをしてはじめて姓が変わるのだ。 休みでも取らない限り平日の昼間に市役所へ行かれる機会なんてそうはない。ここで重い腰を上げなければ、また名前を戻すチャンスが遠のいてしまう。それで、残暑厳しい夏の午後に革サンダルをつっかけて出かけて行ったのだった。
しかし。戸籍課での改姓手続き自体は簡単なものだけれど、いったん姓を変えるとなると、その後には、面倒くさーい手続きが山をなして待っている。 銀行口座、クレジットカード、社会保険、生命保険、入院保険、電気ガス等の公共料金、NTT、携帯電話、プロバイダー、スカパー、生協、楽天、amazon、免許証、パスポート、etc、etc… これらすべての名義変更を優先順位をつけて片付けて行かなければならない。実際、これが面倒で改姓を一日延ばしにしてきたようなものなのだ。
それで、8月下旬に戸籍上の改姓が済んだあともしばらく会社にはそのことを言わずに、銀行口座から始めて、その他諸々の名義変更を粛々と進めていたのだった。何しろ給与振込口座の名義変更が済まないうちに会社へ改姓を届け出てもかえって話がややこしくなる。 結局11月(入社二年目)から社内でも呼び名を変えてもらうつもりが、年も押し詰まった12月からになってしまった。最後の最後は、どのように社内に伝えるかということで軽く悩んだのだったが、さらっとした挨拶文を作って一斉メールで済ませることにした。いつも顔をあわせている上司と同僚には事前に根回ししておいたので、困るような反応にも出会わずにすんだ。 --
で、その後の展開。 私の旧姓は漢字二文字で、その最初の字は動物のなまえなのである。たとえば、「猫田」さんとか「鹿内」さんという名前と同じパターンだ。でもって、猫田さんは「ネコちゃん」とか「ネコさん」と呼ばれ、鹿内さんは「シカちゃん」とか「シカさん」と呼ばれるケースが多いと思う。
今、わたしは会社で、この、動物のなまえ+ちゃん付けパターンで呼ばれているのだ。 内線電話をとると「あ、○○ちゃん?」と言われ、直接話しかけるときも「ねえねえ、○○ちゃん!」と呼ばれる。これがなかなか嬉しい。 旧姓には生まれた時から慣れ親しんできたけれど、この、ちゃん付けのニックネームで呼ばれるというのは子供の頃にもなかったことで、とても新鮮な体験である。嬉しいのでニコニコしながら返事するからか、徐々にちゃん付けで呼びかけてくれる人が増えてきた。
ニックネームで呼ばれるようになるというのは予想外の展開だったが、このことだけとっても名前を元に戻してよかったな、と思う。おかげさまで、この年末、いつになく明るい気分で過ごしている。
2009年12月14日(月) |
決してこの手を離してはいけない |
きのう。 渋谷、NHKホールで矢野顕子ライヴだった。恒例のさとがえるコンサート。
中盤頃、アッコちゃんが唐突に 「きよしくん、嗚呼、良い歌だねぇ〜」と繰り返し歌い出した。咄嗟に身構えたのだが、わずかに遅かったらしく、頭からは湯気が、目からは水分がドバドバと噴出した。
もちろん、初めて聴く歌なのでうろ覚えなのだが、 「派手にお洒落して遊びに行こう」とか「新しいブーツを作ってもらおう」とか。そして「決してこの手を離してはいけない」と。そうして、最後には「どうしたんだい、Hey Hey Baby」って、消え入るような声で…。 こころの整理がつかないままに、こころを込めたというような歌で、参った。実に参った。
矢野顕子という人は「あったかいクリームシチューを食べよう〜」という、CMにも使われてよく知られた歌にさえ、「ぼくの傷をみるなよ/ぼくに、あやまるなよ」などという恐いフレーズを平気で忍ばせるような人なのだ。 油断をすると(しなくても結局)、ザクザクと心の深奥を攻められてしまう。
しかし、頭から湯気が出たその曲のとき以外は、私は半分眠ったような状態で椅子に沈み込んでいた。開演前にあまり美味しくない中華料理を食べ過ぎたせいかもしれないけれど、それはそれで非現実的な、ある種気持ちよい時間と言えなくもなかった。
今回はバンド(外国人のギター、ベース、ドラムス)が一緒だったけれど、私はピアノ一本、アッコちゃんひとりという最小単位のライヴが一番好きだ。最初に観た「たったひとりのさとがえる」が結局、いつまでも忘れられない。
-- 昨日は実は忘年会を兼ねた社員旅行の日で、多くの同僚は函館へ出かけていたのだが、私は矢野顕子のチケットを買ってあったので欠席したのだった。 欠席するにあたり、なぜかあまり残念な気がしなくて、北海道へいくなら別の時がいいなと、ふと思ったのだけど、本日おみやげのホワイトチョコレートをもらって現地でのドタバタぶりを聞くと、勘は当たったなと思った。 でも、次の旅行には行きたいな。温泉ならば、絶対だ。
先週末。amazonからのEメールでジョン・アーヴィングの本が新しく文庫になっていることを知り、またしても分厚い上下巻を買ってしまっていたのだった。 またそれとは別に、倉橋由美子の本も何冊か、amazonで買ってしまっていたのだった。 そしてまたそれとは別に、「サトラップの息子」に感激した私は、トロワイヤの本(ユーズド)を一冊注文してしまっていたのだった… そんなわけで本日、相次いで届けられた購入本。 「サーカスの息子」上下 ジョン・アーヴィング(新潮文庫) 「あたりまえのこと」 倉橋由美子(朝日文庫) 「よもつひらさか往還」 倉橋由美子(講談社文庫) 「酔郷譚」 倉橋由美子(河出書房新社) 「石、紙、鋏」 アンリ・トロワイヤ(草思社) アーヴィングと倉橋由美子の小説については、読み始めたのが比較的最近(まだ十年にならない)で、そのことについてひとから「えー、意外!どうしてー?」と言われたことがあるという共通点がある。 両者とも私好みの作家と思える、ということなのだろうけれど、しかし倉橋由美子に関してはいまひとつわからないところがあった。エッセイの類ならばともかく、それ以外で私の好みそうな作品てどのあたりなのだろうか?
その答えは恐らく「よもつひらさか往還」「酔郷譚」、つまり、慧君あたりにあるのではないだろうかとヤマを張っての購入本。果たして予想は当たるのか? それにしても、どの本から読もうか。迷うところであります。
父の命日であった。 二、三日前から、そのことを考えるとつらくて、四年前のあの日のことは思い出さないようにしていた。 しかし、つらいと同時に一方で「まともになった。これでいいのだ」という安堵感もあるのだ。これまでは普通に悲しむことすらできないような状況が長く続いていたので、やっと柔らかいこころを取り戻したのだと思うと、これはもう嬉しくすらある。
駅裏の、いつもは通らない道を通ったら、店じまいをしかけている小さな花屋さんがあって、そこで仏壇へあげる花を買った。何しろ小さくて、ちっともお洒落じゃなくて、少々不思議な店だったけれど適正価格(安い)だった。頭にバンダナを巻いたお姉さんに「あ、花が痛むから私が取ります」と叱られたりしながら蓮にも薔薇にも見える変わったダリアを選び、でも、叱られたわりにはたくさんおまけしてもらって、店をあとにした。 店も変わっていたけど、あのお姉さんも今どきめずらしい、変わった感じのひとだった。またお花を買いに行こう。
何も特別なことはないけれど、普通に、良い命日だったと思う。 何が良いって、こころの在りようが、柔らかくて平静だった。 妹に電話をかけて久しぶりに声を聞いた。
2009年12月10日(木) |
今年最後と言い聞かせつつの購入本 |
またまた会社帰りに、八重洲古書館にて。 これが今年最後、と自分に言いきかせつつ、古書漁りした結果の購入本。 「魔法の庭」 イタロ・カルヴィーノ(ちくま文庫) 「城の中のイギリス人」 マンディアルグ(白水uブックス) 「バーナム博物館」 スティーブン・ミルハウザー(白水uブックス) 「緩やかさ」 ミラン・クンデラ(集英社) 「永遠の故郷 夜」 吉田秀和(集英社) とにかく今年は、uブックスを買っては読んだ年だった。しかし「城の中のイギリス人」は問題作中の問題作で、帰りの電車で買った本を確かめていときに「あっ、これ買っちゃったのか」と気がついた。訳者が澁澤龍彦であることもこのときに気がついた。 何故か澁澤龍彦に対して批判的になっている(この件については詳しくはふれない)今日この頃であったので「むむむ…」と唸る。 しかし、ほかの作家ならともかく、マンディアルグだもんな。もしかしたら強すぎる毒(常識の埒外の小説)で、却って正気に戻るってこともあるかもよ、と思い直す。
「永遠の故郷 夜」は以前、新本で買おうと思っていてそれきりになっていた本だ。 吉田秀和は大好きな、尊敬できるお爺さんだ。1913年生まれだそうだから、もうじき百歳になられるわけだけれども、精神的に近いところにいる方という気がしてしまう。あこがれが起こさせる錯覚なのだろうけれど、こういう勘違いが人生を力づけてくれることもまた確か。 こんな本にばったり出会えるなんて、今年は最後(の古書漁りのはずです)までついていたなぁ!
2009年11月27日(金) |
「砂中の金」的購入本 |
会社帰り、久しぶりに八重洲古書館に立ち寄る。 買い過ぎなければ、本当に良い本ならば、今日は買っても良いと自分に許可を与えたにもかかわらず、こういう日に限って買いたい本が見つからない。 半ば意地になって棚をなめるようにみて掬いあげた、砂中の金のような購入本。 「東方綺譚」 マルグリット・ユルスナール(白水社uブックス) 「サトラップの息子」 アンリ・トロワイヤ(草思社) 「ゴシップ的日本語論」 丸谷才一(文藝春秋社) いつもながら、出ていればつい買ってしまう白水社uブックスではありますが、本日はその中でも白眉といえる一冊に遭遇。出ましたよ、マルグリット・ユルスナールが。村上春樹『東京綺譚集』はユルスナールのこの作品名のもじりなのだろうけれど、やめておけばよかったのになぁ。アジア、オリエントに材を取った短編集はタイトルと書き出しだけでも上質な幽玄を漂わせており、この時点ですでに武者震い。比較的薄い本なので、大切に大切に読みませう。
「サトラップの息子」は書名だけは(そして評判の片鱗も)耳に届いてはおりましたが、今日初めてページを捲ってみると、どうやらトロワイヤの半自伝的小説、「我は如何にして作家となりしか」という内容であるらしい。しかも第一章のタイトルは『ヴェネツィアに一陣の風』、その書き出しが『ヴェネツィアに到着早々、父がポーターに勧められて選んだ巨大ホテルのコンシェルジュは…』となっていて、来ましたよ来た来たー!とばかりに購入即決。さすが砂中の金、煌めき方が違います。
この二冊で、もう今日はあきらめて帰ろうとお勘定を済ませて店を出かかったとき、未整理の本の山に丸谷才一の名前を発見。2004年の出版で、『日本語があぶない』から始まって、『文学は言葉で作る』『泉鏡花の位置』『人間の時間といふものを』等々の内容、さらに対談では『新しい歌舞伎の時代』『思想書を読もう』他、書き手(話し手)が丸谷才一だからこそ読みたい(逆に他の人のなら読みたかない)内容満載だった。 清冽な毒で我が身を清めん、てな気分でがっしとその一冊を掴みもう一度お勘定場へ取って返した。
リの字のつくチーム、CL敗退が決定いたしました。 あーそうなの、そりゃあそうでしょうよ、ねぇ(これ以上何も言いたくない)。 …いいんだよいいんだよ、これでもう十二指腸の心配しなくて良くなったんだから。
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最近チマリスが注目しているのは、フランス人プレーヤー。 進境著しい、カリム・ベンゼマとフランク・リベリーなんだな。 シセとマルブランクはいまいち不発弾ぽかったけど、この新世代仏人選手はやってくれそうです。
そんなこんなで、ここから先はレアルとバルサ、どっちが上行くかに注目だなー。 英国勢にはちょい食傷気味、チェルシーだアーセナルだ言われてもなんだかその気になれません。
三連休は家でのんびり過ごした。 土曜日は午前中、インフルエンザの予防接種へ。 朝風呂に入って髪も洗ってから、近所の内科へ出かける。先生は入浴しても大丈夫と言っていたけれど、一応夜はお風呂パスするのだ。大人になってからインフルエンザの予防接種をうけるのは初めてなので、ちょっと緊張。
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午後、借りてきたDVDを観て過ごす。ゾエ・カサヴェテス監督「ブロークン・イングリッシュ」。メルビル・プポーが出てるやつです。
結婚できないかもしれない症候群で、男運の悪さを嘆きまくる美人の女主人公。かなり神経症的になっていて、酒か薬がなければ眠れないこの女性は、ニューヨークに住むアメリカ人。 かたやムッシュプポーが演じるのは、7歳にして父親から「たった一度の人生を楽しむことさ」と諭されたフランス人。なにやら胡散臭くみえるくらいの軽やかさ(いるね、こういうフランス男)、自然体で生きている。勝ち組になりたい(世間体と戦う)アメリカ人対個人の自由を謳歌するフランス人という、実にわかりやすい構図。
主演の女優さんが、とーっても上手。これじゃあ駄目だと思いながら、ますますドツボにはまって自分で自分を痛めつけてしまうという、ああいうナイーブな演技、どうしてできるのだろう。 さらにさらに、メルビル・プポーの優男っぷりが出色。だってさ、別に自信があるわけでもモテモテでもなんでもないわけ。とにかく自分に正直に、あと、相手の自由を侵さないという、その二つだけは律儀に守って、後ろ髪引かれても泣かずにがんばるよ、だって男の子だもーん、なわけよ。 だから、アメリカ人の彼女が混乱して自分の心を偽ると、怒ってるのか悲しいのかわからない目で黙ってじーっと見つめるのだなぁ、彼女の顔を。
別にこういう芝居自体はありふれたものだと思うけれど、プボーのジーッ(眼差し)はアメリカ人俳優のジーッと違う、全然違う。「ふはー、こういうの久しぶりー」と目尻を下げてくにゃくにゃになるチマリス!ワクチンの効果が出てきたみたいよ(何打たれてきたのさ、病院で)。 メルビル・プポーにはもうしばらく、フランス男特有のチャラさ健気さで、ぜひぜひ頑張っていただきたい。間違っても貫禄たっぷりの大御所風になんか振る舞わないでね。たのむわん!
この映画、他にもジーナ・ローランズ、ピーター・ボグダノビッチ等々がご出演、脇もなかなか豪華です。端役で出ていたもう一人のプポーさん(髭面)は、メルビルの兄弟かも。 タイトルの「ブロークン・イングリッシュ」は、フランス人の話す下手くそな英語(例:ハングリーをアングリーと発音。Hは仏語では発音しない故)という意味なのだろうけれど、しかし、マリアンヌ・フェイスフルにも同名の曲があったよなぁ、と思っていたら。エンドロールにかぶせて、フェイスフルの「ブロークン・イングリッシュ」のカバーが流れてきました。さすが、カサヴェテス一家のお兄ちゃん、エンディングまで手抜かりないのでございました。
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