Leonna's Anahori Journal
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昨日。 リヴァプールがチェルシーに負けて、CL決勝リーグから敗退した。 たがいに4点ずつを入れて火の出るようなアツい試合だったと皆口を揃えて言うのだけれど、私の本音は「今回も負けかよ!負けたらオシマイなんだよ!」と。身もふたもないけど、これが本音。 嗚呼、どうしてこんなときに故障しちゃうのよ、キャプテーン。
だいたい準々決勝の組み合わせが決まった瞬間からわるーい予感がしてたんだ。 プレミア、ビッグ4同士がここで直接対決というのは…。で、マンUはポルトとでしょう。爺さん、ほくそ笑んでたもんなぁ(どんだけ失礼なんだよ、ポルトに)。
しかし変なチームだよね、リヴァプールは。先制して負ける。先制されても勝つ。負けもしないけど勝ちもしない、等々。どこか、強いのか弱いのかわからないようなところがあるな。 でもって美男城。…気をもたせやがってからに! -- 本日。 会社帰りに東京駅のそばで用事を済ます。危険海域航行中、埋没しているかもしれない宝を求めて自ら危険に近づいてしまった。 というわけで、よけきれずに突入した金井書店での購入本。 「ロンググッドバイ」 矢作俊彦(角川書店) 「愛の中のひとり」 F・サガン(新潮社) 「筑摩世界文学大系 79 ウォー/グリーン」(筑摩書房) 矢作俊彦といえば、やっぱり二村永爾ものですよ。「ロンググッドバイ」は昔、NAVIに連載していた小説だと思うんだけど。この本、かなり良い状態で300円だった。 サガンの小説は、これもおなじみ新潮社から宇野亜喜良の装丁で。こういうきれいな造りの本、最近はなくなりました。700円。意外に高いのは、もう文庫でも入手が難しいからか。 さて今回の掘り出し物は「筑摩世界文学大系 79 ウォー/グリーン」。 昭和四十年代に刊行された88巻ものの外国文学全集の一冊で、イヴリン・ウォーとグレアム・グリーンのカップリング。 でもってこの本、なんと(というよりお察しの通り)「ブライヅヘッドふたたび」が吉田健一訳で収録されているのだ。三段組で細かい活字のびっしり詰まった大きな古本の値段は1000円。ありがとうございます、古本の神様! ちなみにこの全集は第一巻が古代オリエント集。ホメロス、プラトンを通って、チョーサー、セルバンテス、シェイクスピアからベケット/ブランショまで古今東西の文学と劇作、詩を網羅。なんたって全88巻ですから。 思うに、金井書店ではこれをまとめては売らず(買う人いない)、ばらして買い手のつきそうな巻だけを出しているのではないだろうか。つまり、私のような買い手をターゲットとしているのだ。
たとえば「80 セリーヌ/サルトル」「81 ナボコフ/ボルヘス」なんか、一冊でひょいと置いてあったら、危ないものなぁ…(出してくださいと言っているようなものか)
2009年03月25日(水) |
勘違いも混ざる、購入本 |
またしても。どうせ素通りは出来るまいと覚悟をきめて行って、その通りになった結果の購入本(八重洲、金井書店にて)。
「火と水の対話」 塚本邦雄/寺山修司(新書館) 「闇の奥」 ジョウセフ・コンラッド(近代文芸社) 「ウォーホール日記」上・下 パット・ハケット編(文春文庫) 「火と水の対話」は1977年刊。一読、塚本と寺山の蜜月時代を今によみがえらせる対談本。 中学生時代、私は寺山修司の詩と文章が大好きで、お弁当の時間には必ず新書館、For Ladie'sシリーズの寺山修司の詩集を開いてうっとりと寺山ワールドに浸りながら食べていた。当時の私は寺山の詩は読んでも短歌は一首も知らなかったし、のちに自分が塚本の結社で歌をつくるようになるなどとは夢にも思っていなかった。そもそも塚本邦雄という名前を知らなかったのだ。 本を開くと、口絵の塚本の写真があまりにも若々しく生気に満ちていて、見入ってしまう。きっとあの超明晰な脳味噌をフル回転させながら、大好きな寺山と語らっているところなのだろう。きっと、いくら話しても話題は尽きなかったに違いない。
「闇の奥」は2001年刊。岩清水由美子という訳者による新訳だ。体裁が少し変わっていて、B5サイズ位のやや大判で薄い本になっている。ちょっと立ち読みしただけでも、その内容の異様さが伝わってくるようでドキドキしながらレジへ持って行った。これが映画「地獄の黙示録」の原作だと気づいたのは家へ帰ってからで、この原作から時代をベトナム戦争下へ移し、あの長大な映画を作ったコッポラも凄いけれど、あの長大な映画の原作になった小説の濃さも凄いもんだと畏怖の念を抱く。これもまた恐ろしそうな小説なので、心身の状態の良いときに読むことにする。 「ウォーホール日記」は上下巻とも700頁近くある大冊で、二冊が一緒に束ねてあった。それはそれとして私はとんでもない勘違いをしていて、店頭でこの二冊組を買おうかどうしようか迷っているとき、この本をデビッド・ホックニーの「チャイナ・ダイアリー」だと思い込んでいたのである。だって、ちゃんと「ウォーホール日記」ってタイトルからしてウォーホールじゃん!と自分でも思うのだけれど、とにかく間違っちゃったんだから仕方ない。 そもそも私はウォーホールのことをあまり良く思っていなくて、たとえば、なぜこの日記の著者がウォーホールではなくパット・ハケットなのかというと、このハケットという人は毎日ウォーホールの電話を受けてその話の内容を記録する、日記係のひとだったからなのだ。こういう、ウォーホールにまつわる、なんだか新しそうだけどその実よくわかんない感じというのに凄く抵抗があるんだな。しかし、お金払っちゃったものは仕様がない。こういう本は(資料として)どこかで何かの役に立つ可能性もあるしね。ふぅ。
金井書店にて。通りかかって、通り過ぎることができなかった結果の購入本。 「不死の人」 ホルヘ・ルイス・ボルヘス(白水社uブックス) 「呪い」 テネシー・ウィリアムズ(白水社uブックス) 「ブエノスアイレス事件」 マヌエル・プイグ(白水社uブックス)
今回はすべて白水社uブックスでした。新書サイズで持ち歩きに便利、気の利いた海外小説が揃っていて、安価に読める。どうも、このuブックスには弱いですなあ。 金井書店さんとしては、ポンと出すとサッと、まるで入れ食いみたいに飛びついて買って帰る、私みたいな顧客をターゲットにしているのに違いない。ああ、くやしい。 それにしてもT・ウィリアムズの短編集、なにも「呪い」なんてタイトルにしなくても。原題は"ONE ARM"(片腕)で、冒頭を飾るこの「片腕」を表題にすればいいのに、なんでわざわざ「呪い」なのか。わからないなぁ。
帰り道、東京駅八重洲地下街の金井書店にて古書購入。
「ロートレアモン全集」 イジドール・デュカス(思潮社) 「三島由紀夫 神の影法師」 田中美代子(新潮社) 「ユリシーズの涙」 ロジェ・グルニエ(みすず書房) 「マーティン・ドレスラーの夢」 S・ミルハウザー(白水社uブックス) えー、今回は、初の購入本なぞなぞというのをやってみたいと思います。 問題:今回買った四冊の古書に共通していることはなんでしょう?(答えは文末に)
-- 「ロートレアモン全集」は白い布張り本が白い箱に入っている。1969年刊。全集本とはいえ、全一巻。その内容はほとんどすべてが「マルドロールの歌」で占められている。ちょっとページをめくってみるだけでもわかるのは、これがかなりヤバい、恐ろしい本だということで、この戦慄、ドキドキ感こそがこの本を買った理由。いつか状態の良いときに読みたい(でないと、底なし沼に引きずり込まれるようなことになるだろう)。イジドール・デュカスというのはロートレアモンの本名だそうだ。 田中美代子の本はちょうど一年前、九州の叔母から譲られた「小説の悪魔 鴎外と茉莉」に次ぐ二冊目。著者は三島由紀夫研究の第一人者であり「神の影法師」は新しく出た三島由紀夫全集の月報に連載したものを加筆修正し一冊にまとめたものだそうだ。対象への有り余る愛情を理知に代えてのエクリチュールに期待。 「ユリシーズの涙」は、グルニエの愛犬との日々の回想と、文学に現れてくる犬についての思索を綴ったエセー集。「ユリシーズ〜」というタイトルは「オデュッセイア」で旅から帰った主人公を迎えた老犬アルゴスのエピソードにちなんで。この短いエピソードだけで、涙ぐみそうになって困る。表紙カバーに使われているのは、犬をつれてパリを散歩する男性を写したドアノーの白黒写真という、みすず書房らしいシックな一冊。 「マーティン・ドレスラーの夢」、訳者は柴田元幸。ピューリッツァ賞を受けた文学作品ということではジュンパ・ラヒリの「その名にちなんで」(←最高の小説。大好きでした)と一緒だけれど、できればアカデミックで立派な小説よりも、奇妙な味わいを求めます。ワクワク。
なぞなぞの答え:すべてのタイトルに人名が入っている。(簡単すぎたかにゃ?)
よい知らせ、ではなくて、よい報せ、が正しいのかな。 ともかくも。11月4日より出社されたし、との電話が入った。 おととい面接を受けて、今週中にご返事さしあげますとのことだった。 ということはおそらく、採用ならば電話、残念賞なら郵送(書類返却)で結果を知らせてくるのだろう。 いずれにせよ翌日は執行猶予期間で精神的宙づりの一日だ。ひとりで過ごすのはつらいのでヨーコさんとユミコさんと三人で、葛西のファミレスに集合して情報交換ほか諸々の話をして過ごした。 その二人はもちろん、担任や身内に電話とメールで「よい報せ」を伝える。 みんな「うわぁー!良かったねー!!」と反応がでかい。それだけ心配させていたということの証か(そりゃ、そうだわな)。
感謝と、文字で書けばたった二文字だけど、このきつい、厳しい状態をなんとか乗り切れたのもみなさんのおかげです。感謝、また感謝です。 新しい仕事に対する不安なんて、そんな贅沢なこと感じる余裕ありません。健康に気をつけて勤めたいと思います。
いつもは作らないようなものを作って食べたくなった。 そこで昔々に買った料理の本(上野万梨子『パリのお惣菜屋さんのレシピ』)を見ながら「豚肉といんげんとオクラのカレー煮込み」というのを作ってみた。・・・・・ ・・・・・ハイ、こんな感じで出来上がりましたよ。
クスクスの代わりにインディカ米をバターで炒め、サフランで色付けして使用。玉ねぎも飴色になるまでていねいに炒めたし、肉も約3時間かけて下味をつけた。カイエンヌペッパーもパイナップルジュースもライムも、ちゃんと用意して、書いてある通りに入れたんだ。でもなぁ…これならいっそ羊の肉でインド風のカレーにした方が良かったかもなぁ。もう少し味にメリハリが欲しかった。惜しい。 わが家のダイニングキッチンには、いまだに香辛料の匂いが漂っている。 来週あたり、ダバ・インディア(間違いなく東京一美味しいインド料理店)へカレー食べに行きたい気分。
三ヶ月間同じクラスで勉強したヨーコさんと一緒にボルダリングに行く。ボルダリングは、いろんな色や形の突起を手がかりに壁をよじ登るスポーツ。 学校も終盤にさしかかる頃、しきりに、何か運動してすっきりしたいね毎日毎日机の前に座りっぱなしで、そうでなくてもいろいろストレスたまってるのにー、ほんとほんとー、と、そんな話をしていたら、ユミコさんという同級生のひとが「ボルダリングはどう?」って教えてくれたのだ。 (ちなみにユミコさんは、巻き爪なのでボルダリングできないらしい。小さな息子さんを登らせに行っても見てるだけなのだと言っていた) ごくごく簡単なスタート講習を受けて、さっそく壁登りに挑戦。最初はわずかに向こう側へ傾斜した壁を登る。これはそんなに難しくない。お、結構登れるじゃん!と互いに褒め合いながら、突起の横に貼られた番号に従って難易度を上げて行く。
次の壁は垂直。傾斜なしのまっすぐだ。当然のことながらさっきよりもきつい。しかし、ここまではまだよかった。次の壁は、わずかに手前へ向かって傾斜している。これは、かなりきつい。 それまで突起横の番号にしたがって順調に難易度を上げてきたが、ここへきて文字通り壁にぶつかった。やや手前傾斜の壁の最後のコースがめちゃくちゃ難しいのだ。 あとは数十センチ先の最後(ゴール)の突起に手を伸ばすだけ、というところまできていながら、その手が出ない。いま片手を離したら、落ちてしまう。まさか自分がこんな「ファイト一発」状態を体験することになろうとは。そうして、どうしよう、どうしようと、ひとつ手前の突起にしがみつきながら考えているうちに自分の体重を持ち堪えることができなくなってマットへ落ちてしまうのだ。まるで、絶命した虫のように。または、普段からぼんやりしているナマケモノが、さらにうっかりしてしまったかのように。
すぐそこにゴールが見えているのに、なすすべもなく落下するのは内心かなり口惜しいのだが、結局これを三回繰り返し、とうとうそのコースは登りきることができなかった。この壁へ来るまでの小一時間で体力を消耗してしまったことが敗因だろう。悔やしいけれど仕方ない。普段これといった体力作りもしておらず、年齢並みの筋力しかないのだ。バランス感覚だけではこのあたりが限界だろう。 「落ちる」「ゴールできない」「限界」等、いまの私たちにとってはNGワードばかりなのだが、しかし、ボルダリングはボルダリング、就活は就活である。 帰りにヨーコさんと一緒に食事しながら「あたしたち初挑戦にしてはかなりガンバッタほうよね」「そうよそうよ、この歳でいきなりあそこまではできないわよ、ふつう」と互いをほめ讃え合ったことはいうまでもない。こういうときにネガティブな考え方をしても何の益にもならないことを知っている私たちは、オトナなのだ。たとえ見かけは、図々しくて反省のないオバサンと区別がつきにくいとしても。 パスタをお腹いっぱい食べた後「明日からまたがんばろうね!」「うん、絶対にあきらめない!」と励まし合いつつ別れた。明日からまた職探しだ。
きのう。 朝、めずらしく未明に行われたミラノダービーの録画をチェックしてから学校へ行く。 ジョゼ・モウリーニョがどんなに優れた通訳、じゃなかった、監督かしらないが、このダービーにそう簡単に勝てると思われたら困るんだな、などと思いつつ。この頃じゃミランの試合一応録画だけはする、という冷めた状態が続いているのに、新参者+ダービーとなると途端に肩をいからせるという、どうにかならないかこの性格。
ところがですね、勝ったですよ。ミラン。 アレッ?! ダービーに、勝っちゃった!!(アレッ?!て…) ブラジリアンコネクション、ロナウジーニョのヘッド一閃でありました。 うはははははは、ポルトガルからきた通訳にミラノ式の洗礼をほどこしてやったぜぃ。 やたらいい気分! -- 本日。 三ヶ月間通った学校の修了式でありました。 選考だけは通って入学したものの、気分的には底値の鬱々状態。そこへ夏の暑さが追い打ちをかけるという、個人的にはかなり厳しい三ヶ月間でした。 朝、どうしても起き上がれずに欠席の連絡だけして夜まで何も食べずに寝ていたり、学校でも一言も発せずにじーっと座ってるだけなんてこともあった。あまりにも体調が悪いので今月初めには市の健康診断を受診。「もう手遅れかも」と覚悟を決めていたのに、結果は、コレステロール値がちょこっと高かっただけだった。あら。(ま、安心しましたけれども…)
終盤になってクラスの人たちと一緒にランチ行くようになったり、やっと楽しくなってきたところで迎えた修了式。こんなことだったら、もっとみんなと色んな話すればよかったなあ。 特に同年代で、来し方や行く末、身体の不調や将来に対する不安を聞いて励ましてくださった何人かの人たち。本当に感謝しています。ありがとう。 式の後、クラスの数名と最後のランチ。存分に食べ、かつ語らいました。 さて。明日からは授業がないので、すべての時間を就職活動につかえます。めげずにがんばるぞー
購入した美恵子本に目を通しているうち、驚愕の事実に遭遇した。 「小説論 読まれなくなった小説のために」の一番最後に「小説とフットボールの過激な関係」というインタビューが載っていて、どうやら金井美恵子はマンチェスターユナイテッドファンであるらしく、「ルーニーのコンディション、心配していただけに、ほんとうによかった」とかなんとか書いてある。…なんだよ、なんなんだよ、おれに黙ってまた何はじめてくれちゃったんだよ、えっ、ミエコ!! インタビュアーは田口賢司。で、このひと何してる人だかすぐにはわからなかった。編集者かなとも思ったのだけど、しかしそれにしては「来週のチェルシー戦、マンチェスターに行ってきます」なんて、素敵に身軽な感じの発言が。で、調べてみたらスカパーのクリエイティブプロデューサーにして小説家、なのだそうです。あらまー。私、E.N.G(English News Gathering)いつも観てます、お世話になってます。 しかしこのくらい洞察深くて口の達者なひとたちが好き勝手にサッカー語ると面白いですよ。 クリスティアノ・ロナウドのことを「ポルトガルの路上で日本人観光客のハンドバッグを引ったくって凄いスピードで走って逃げて行く少年みたいな顔」と言ってみたり、負けが込んできたときのチェルシーの選手の顔を、「暗い。解決しない事件を三つも四つも抱え込んだ刑事みたい」と言ってみたり。 で、その暗さというのが、モウリーニョ監督を反映しているんだって。「何か『父』がいるという感じですね。フットボール選手はやっぱり孤児じゃないと」by 美恵子。 とどめに「でも、モウリーニョはバルセロナへ行くたびに観客から『通訳』って馬鹿にされてる」by 賢司。(しかしこりゃ貴重な情報だよ、通訳つーのは!) 面白過ぎて食傷する、などと言いつつも、さっそくモウリーニョを「通訳」と呼ぶ事にした私であります。美恵子にしろ堀江敏幸にしろ、言葉でご飯食べてるひとたちってのは、スポーツの肉体性、特にサッカーの持つ単純さや選手の幼児性(筒抜けになる人間性)みたいなものに惹かれてしまうものなのかもしれません。
先週末amazonから届いた本。
「目白雑録(ひびのあれこれ)」 金井美恵子(朝日文庫) 「小説論〜読まれなくなった小説のために」 金井美恵子(朝日文庫) 「競争相手は馬鹿ばかりの世界へようこそ」 金井美恵子(講談社) 「むずかしい愛」 イタロ・カルヴィーノ(岩波文庫)
『競争相手は〜』はユーズド。美恵子本まとめ買いのそのこころは、毒舌に鼻まで浸ることで最近少々不足気味のアドレナリンを分泌してやろうという、そういう魂胆である。 そして、書店ではあまりお目にかかることのないこれら刺激的な本の表紙を眺めているうち、久々にブックオフへ行きたい気分になり、ファミレスのデザートを餌にげんこつ山にクルマを出してもらった。ブックオフでの購入本は以下の通り。
「人間とは何か」 マーク・トウェイン(岩波文庫) 「不思議な少年」 マーク・トウェイン(岩波文庫) 「嵐が丘」 エミリー・ブロンテ(新潮文庫) 「ロンドン旅の雑学ノート」 玉村豊男(新潮文庫) 「スペイン、とっておき!」 中丸明(文春文庫) 「しかたのない水」 井上荒野(新潮文庫) 「夢十夜 他二篇」 夏目漱石(岩波文庫) 「恋人たちの森」 森茉莉(新潮文庫) 「自伝の人間学」 保坂正康(新潮文庫) 「嵐が丘」「夢十夜」といった古典中の古典を、チマリスは読んでいない。「夢十夜」、最近作られたオムニバス映画(傑作!)は観てるんですけどね。それから、アーヴィング、辻邦生などの長編小説、その祖である19世紀本格小説の代表作「嵐が丘」をそろそろ読んでみようかな、と。 ところがこの「嵐が丘」、新潮文庫から新旧二つの訳で出ており、ブックオフにはその両方があった。二冊の書き出し部分を読みくらべて、旧訳(田中西二郎訳)を選択。新訳は字も大きめで読みやすかったのだけれど、、、これはもう日本語に対する感覚の問題としか言いようがない。
森茉莉「恋人たちの森」は文庫化された昭和五十年に一度買っている。これには「恋人たちの森」のほかに「枯葉の寝床」「日曜日には僕は行かない」「ボッチチェリの扉」という初期森茉莉の傑作がきっちり収録されているのだが、これらの単行本も家の本棚にはすべて揃っているのである。 昭和三十年代に出版された森茉莉の単行本の元々の持ち主は、いまは大分に住んでいる父方の叔母なのだが、蔵書をうちで預かっているうちにいつしかその一部は私の本のようになってしまっていた。 そして、ずいぶんと昔のある日、文庫版「恋人たちの森」は「あの本(古い単行本)はあげるからその文庫本を譲ってもらえないかしら」という叔母のもとへ二つ返事とともにもらわれて行ったのだった。そのとき叔母は「今でもたまに頁をパラパラッとめくりたくなることがあるのよね。どうしても森茉莉じゃなきゃだめってときがあるじゃない?」というようなことを言っていたように思う。 ブックオフ店頭でとても状態の良い文庫本の、茉莉独特の漢字使いを出来る限りとどめおいて律儀にルビをふった頁を見たとき、これを買わずに帰るわけには行かないと思った。たしかに単行本は古びて、あまり頻繁に書棚から出し入れしたら壊れてしまうかもしれないけれど、それは言い訳で、要はただ買って帰りたかったのだと思う。 森茉莉が死んでもう二十年以上になるけれど、この人もまた私の中ではちっとも死んでやしないのだと思った。
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