Leonna's Anahori Journal
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2006年03月18日(土) |
ヤスケンの置き土産(2) |
こういう衝撃的な事実(流出事件)が明るみに出たからといって、これまで抱いてきたヤスケンの仕事やその他あれこれに関する気持ちを、修正申告する必要もないし、する気もない。若い頃ならちょっと悩んじゃうところだろうけれど、この年になるとこのくらいのことでは動じなくなる。
それで、そういえばあの本どこ行ったかななどと言いつつ、どっこいしょと腰を上げて探したらば、あったあった。1992年、リテレール秋号。特集:私の偏愛書 41人によるジャンル別ベスト10。 この本を買ったのは、まず「短歌」のベスト10選者に塚本邦雄が指名されていたため。そして、その「何を選ぶかより何を省くかに腐心したベスト」の中に女流ではただひとり葛原妙子が入っていたことに感激して、本屋(たしか逗子の駅前だった)で手に取った本が手から離れなくなくなってしまったのだった。
他にも、どんなジャンルでどんなひとがベスト10選者になっているか、ほんの一部を書き出してみると… ■美術書
粟津則雄「画家自身の日記、手紙、手記を中心とした十冊」 丹生谷貴史「或る美術書の誘惑 マルローに寄せて」 ■画集 山本容子「芸術家の生活、仕事ぶりを伝えてくれる偏愛画集」 池田満寿夫「日本で刊行された全集に限ってのベスト」 ■紀行文 高田宏「旅の中で変身し続ける人によって書かれた紀行文」
■ノン・フィクション 海野弘「いつか自分もこんな本を出してみたい」
■ラヴ・ロマンス(世界・古典) 辻邦生「魅力的な女性の登場人物を中心に古典の中から」
■ポルノグラフィー 巖谷國士「偏愛からは遠い「博愛」にもとづいた10冊」 ■幻想文学 荒俣宏「何年経っても変化しないファイナル・ベスト」 ■ノン・ジャンル 尾辻克彦「読書に居眠りは必要である」 岸田秀「なぜかノン・フィクションが多くなったベスト10」 武田百合子「病気のうわの空状態をのりきるための十冊」 …とまあこんな感じで、ほかにも思想書、歴史書、伝記・評伝、写真集、装幀、詩集、アメリカ文学、フランス文学、ドイツ文学、ロシア文学…、と延々と続くのだ。
どのジャンルを誰に頼むのか、どんなふうに頼み込んだのか、依頼の段階で「こういうベストテンならば書いてもいい」というような条件が出されたのではないか(特にノン・ジャンルあたり)などなど、目次を眺めているだけでも興味は尽きない。 -- 数年ぶりにこの本の頁を開いてみると、以前は大した興味もなくサッと眺めて通り過ぎていた頁(書名)に、オオッ!という感じで目が留まるようになっている。こういうのがまた新鮮で楽しい。
たとえばノン・フィクションのベスト10を選出した海野弘は、その筆頭にロラン・バルトの『神話作用』を挙げていて、この本を初めて見たときの衝撃は忘れることが出来ない、と書いている。誰がノン・フィクションの一番手にバルトの名前が来ると予想しえたであろうか。しかし海野さんは、バルトの『神話作用』みたいな本をいつかは書いてみたい!と、この時すっごく思っていたのだ。今月に入ってから、にわかにバルトづいている私としては、これでまた読まなければならない本が一冊増えたことになるし、そういえば海野さんの本も最近読んでいないけれど、どんなのが出てるのかしら?という気持ちにもなる。
また、清水徹による現代フランス文学ベスト10では、そのラスト、十番目にドミニック・フェルナンデスの『天使の手の中で』が入っていて、これは映画監督のパゾリーニをモデルとした長編小説。じつはこれ持っているのだ、私。で、本が厚くて重くて持ち歩くのに不便なため長らく本棚に眠らせてあったのだが、清水さんの、「主人公が、なにゆえカラヴァッジオの『ダビデとゴリアテ』を愛するのかを熱っぽく語る十ページほどだけで、これは偏愛に値する小説」と書かれているのを読んで、鼻息も荒くダメー!こりゃぜーったい読まなきゃダメー!という状態になってしまった。また、楽しからずや(笑) -- さて。このベスト10の日本文学のジャンルを他でもない“スーパーエディター安原顕”(表紙にそう書いてある)が選んでいる。題して「とりあえずの、偏愛小説ベスト10」。
で、この第一位が、村上龍『コインロッカー・ベイビーズ』と村上春樹『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』(同列1位)なのだ。そして春樹の“海外逃亡”とそこでひたすら長編小説を書くという職人のごとき仕事ぶりを褒めたうえで、それまでのつきあいや、最近はまったく仕事を受けてもらえなくなったこと等について、いつものべらんめえ口調で書いている。その文章の最後は、
“しかし、おれとしては、「編集者」としてのアプローチはこのへんで止めにして(春樹もほっとするんじゃないの)、今後は、一読者に徹することを肝に銘じた。”
という言葉で締めくくられている。 これ、当時読んだ時には、決していやな感じではなく、いかにもヤスケンらしいなと思っていたのだけれど。「とりあえずの、偏愛」。この、とりあえずのという言葉が、いま読むとなんだか気になってしまうな。もう、十数年も昔の話だ。
2006年03月17日(金) |
ヤスケンの置き土産(1) |
村上春樹の直筆原稿が流出、高値で売買されていたという例の事件には、個人的にかなりグロテスクなものを感じていた。
まず、流した方の安原顕(ヤスケン)が、何故そんなことをしたのかと、そのときの彼の心情を思ってみると、当然のことながら暗澹とした気分になってくる。
これだけでも十分にグロテスクなのに、その後、流された側の村上春樹が書いた文章(『ある編集者の生と死』文芸春秋4月号掲載)のことをネット上で知って、さらに変な気分になってしまった。
特に“実はヤスケンは小説を書いていた、自分も読まされ、感想を求められたのだが、正直あまり面白いものではなかったので、あたりさわりのないことを言ったらヤスケンが激昂した”というような部分。村上春樹ともあろうものが、まさか安易な“仕返し”でもないだろう。それに書かれたヤスケンはもうこの世の人ではないのだ。
しかし、これらの情報はすべてネット上で集めた断片的なもの。やはりここは文春に寄稿された村上春樹の文章、全文を読まなければと思い続けていたいたところ、やっと今日、書店で目を通すことができた。 --
かなり長い文章で、その全体の中に置かれてみれば、前述のヤスケンが書いていた小説について触れられている部分も、ああそうなのかと思えなくはない。それでも、そうとう恐いことには違いなくて(かなりハッキリと、小説の才能はなかったと言い切っている)、村上春樹も意を決して書いたのではないかと思われる。
誤解を恐れず、このことにズバリと触れなければ、この文章自体が中途半端なものになってしまうし、それならば書く意味がない。また、この部分について率直に書くこと、そして、その意図を歪みなく伝えられるだけの筆力が自分にはあるはずだという強い思いがあって書かれたものではないかと、個人的にはそう感じた。 -- どんな理由であれ安原顕が直筆原稿を故意に流出させた(売っていた)ということはとんでもないことであって、これは他に論を待たない。しかし、それがわかった途端にネット上のブログその他で、安原は実は大した仕事はしていない、とか、一度会った時の印象はどうこうであったとか、平気で書くひとがいるのには驚く。
こういうの、最近どこかであったなと思って考えてみたら、ホリエモンが逮捕されたときのマスコミ(外野系)が口角泡飛ばしていた感じに、そっくりなのだった。
あくまでエンドユーザである私のような立場からすると、これはもう「ヤスケン、かましてくれたよなぁ」と、トホホの顔で呟くしかない。アンタ、これ、洒落にも何にもなんないわよ。草葉の陰でウッシッシとか、そういうのだけはゆるされないからね、などと思うしかないのだ。
2006年03月16日(木) |
ハリー・キューウェル |
サッカーを、まったく観ていないわけではないのだ。ただ、スカパーの契約チャンネルを減らして、今まで2つだったのをひとつにすることはした。要するに観たい試合が観られる、最小限の契約に変えたわけだ。おかげで視聴にかかる月額はこれまでのほぼ半分になった。
ところが。驚いたことに、最小限の契約でほぼ不自由なく、いままで通り英・伊のサッカーを観ることができるのだ(CLはもともと視聴契約を結んでいない)。ならば、今まで私が払い続けてきたあの(余分な)お金は、一体何だったのだろうか。むぅ… -- この頃はほとんど、ミランとリヴァプールの試合しか観ていない。ほかにも色々録画するのだけれど、結局面倒くさくなって観ないまま消してしまうことが多い。
リヴァプールの試合は、ハリー・キューウェルが目当てだ。大物とか大天才とかいうのではないけれど、今年に入ってからのキューウェルのきれっぷりには「コレ、みておかなくちゃな」と思わせるものがある。それに彼、ハンサムだしね。
それでリヴァプールの試合をみていると、いやぁ、出てくる出てくる、キューウェル以外にも、ジェラード、モリエンテスにジブリル・シセ! 眼がよろこぶとでもいうのか、実にいいチームなんだなぁ、リヴァプール。
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そういえばこのまえ、マンU×ニューカッスルの試合をたまたまライヴで観ていたら、オールドトラッフォードは粉雪が舞って、すっごく寒そうだった。ウワーと思っていたらその翌日うちの近所でも雪がちらついたので吃驚してしまった。
で、そうして驚いているうちにもすぐに次の週末がやってきてしまうものだから、とてもじゃないけれど追いついていかれなくて結局、いいやハリー・キューウェルさえ観られれば、ということになってしまうのです。ま、これはこれでそんなに悪くないですが。
昨日。当ジャーナルへ“イケメンの洗髪映像”なるキーワードでいらした方がありました。ほほぉ〜、またなんというロマネスク(この言葉、最近のマイブーム)なキーワードで! -- 本日。ヒヤキントス、支柱(割箸でつっかえ棒)してやったにも拘らず、末っ子の茎がグニャリと曲がり、花が真下を向いた状態に。 他に致し方もなく、断腸の思いで茎を切り、花瓶に挿してやりました。
(あ、あ。洗髪じゃなくて斬首、こっちの方がもっとロマネスクかもー)
朝。風の音で目が覚める。
ヒュウっと鋭い悲鳴のような音がして、二階のベランダに何か当たるような音がしきりにする。おそらく隣家のベランダに洗濯物が干してあるのだろうが、ベランダそのものに使われている透明の強化アクリル板を風が直撃しているのか、風の強い日には、何かよくわからない大きな音が、かならず聞こえてくるのだ。
寝ていたい。寝ていたいけれど、音が気になる。ただ風がうるさいというばかりではない。私の頭の中では庭の植木の根元に置いた草花の鉢が倒れ、京成バラ園から届いた大苗(90センチのはずが180センチもの丈だった、つる薔薇)がひっくり返り、赤玉土の袋に被せておいた特大の水受け皿がフリスビーのように空を飛んでいる。
外の様子が気になって居ても立ってもいられなくなり、布団からわが身を引き剥すようにして起き上がる。階下へ下りて、おそるおそる雨戸を開けてみると、鉢も大苗も水受け皿も、昨日置いた場所からびくとも動いておらず、それでも、突然の風に倒れんばかりに体を傾がせながら、それが吹きやむとまるで起きあがりこぼしのように姿勢を正してみせる黄の花(名前は知らない。二年草)の健気さに、胸がいっぱいになる。
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訃報につぐ訃報。歌人の山中智恵子も。
わが家にある現代歌人文庫は、葛原妙子、塚本邦雄、春日井建、寺山修司、山中智恵子、村木道彦の六冊。つまりこれら六人の歌人は私にとって、メジャー歌人の中でも特別な存在といえる人たちなのだが、これで村木道彦を除く全員が鬼籍に入ったことになる。
村木道彦は、現代歌人文庫中の「愛誦歌」という文章で“わたしには一首これといった愛誦歌はない。斎藤茂吉からはじまって塚本邦雄にいたるまで、主義・主張・流派はこえて、いいものはどうしようもなくいいので、そこに甲乙つけるなどとてもできないからだ”と書いている。
しごく当たり前に思える言葉かもしれないが、短歌の世界である程度の評価を得たひとが、こういうことをこんなふうにさらっと言い切るのは結構むずかしいこと(らしい)。この村木道彦の言葉に、大いに心を明るくしながら、短歌ミーハーでしかない私が、ただ好きでノートに書き抜いたりしていた山中智恵子の歌を、ここに書きつけておくことにする。 声しぼる蝉は背後に翳りつつ鎮石(しずし)のごとく手紙もちゆく
水甕の空ひびきあふ夏つばめものにつかざるこゑごゑやさし 絲とんぼわが骨くぐりひとときのいのちかげりぬ夏の心に
ロラン・バルトの『偶景』を読んでいる。実に身につまされる。うら寂しい感じがそくそくと迫ってきて、タイヘンダ、タイヘンダと大声で叫びながら走り回りたいようでもあり、動悸を抑えつつ、がっくりと膝をついて泣き出したいようでもある。あるのだが、しかし、その手はもう村木道彦のときに使ってしまったので、ただため息などつきながらじぃーっと瞑目してみたりしている。
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バルトを読みながら座っている椅子の背に、タオルで包んだゴム製湯たんぽを置いている。4、5日前に雑貨店でみつけて買ったものだが、英国製で税込み630円という安さだった。一体型になっている栓まですべてがゴムでできており、軽便。とても使いやすい。
なぜもっと早く、寒さの一番厳しかった時期にこいつと出会えなかったのかと悔やまれる。手軽で暖かく、暖房費も節約できる。直に肌に触れるあたたかさというのは精神的にも安心させるものなのか、ベッドの足もとに入れるようにしてから寝つきが格段に良くなった。
湯たんぽの勧めという頁がみつかったので、リンクを張っておく。頁の一番下、「日仏の湯たんぽ」というところをクリックすると、故朝吹登水子さんのコレクション、日本とフランスのアンティーク湯たんぽなども見ることができる。
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enpituのリファを見ると昨日来“木立玲子”のキーワードで普通ではあり得ない数のアクセスがあり、もしやと思って調べてみると、やはり訃報に接することになってしまった。場所はパリ。乳がんだったそうだ。
2006年03月10日(金) |
“松浦的なるもの”との遭遇 |
きのう。**農園で鉢を買ったあとのこと。 --
ヒヤシンス用に白っぽい素焼き鉢を買い、カフェに入ってコーヒーを注文。出てくるまでの間、テラスから庭へ出て園内を歩きまわっていた。すると、農園の門を入ってすぐ脇、植木の苗や素焼きの鉢がやや雑然と置かれている場所から、クェ、ケケケケというかすかな鳴声が聞こえてくる。近くに鴨やオシドリなど、水鳥のたくさん来る大きな公園があるので、鳥の声だと思い込んでいたのだ。それで鳥の姿を探しながら、並んだ鉢のかげを覗いてみると…
鳥ではなくて蟇蛙だった。しかも、交尾中の。
暗い色をした大きな蟇に、少なくとも二匹以上の小さな蟇がへばりついて団子状になりながらズルズルと移動している。小さい方の蟇は白っぽい茶色なのだが、全体が一塊になっているため、どこからがどの蛙の体なのか、よくわからない。限界まで近づいてみると何やら黒い点がうごめいていて、目を凝らすと、それは大きな蟇にへばりついている蟇の、二つの目玉だということがわかった。
さすがにゾッとしてその場所を離れようとしたとき、そばにあったプラスチック製の池のなかで、表面を覆った水草を押し上げながら何かがゆっくりと大きく動いた。ぐーっと水草が持ち上がって、うわぁと思っているうちにソイツは姿をみせることなく、また水の下へと潜って行った。雲形をした池の大きさに比して何か大きすぎる生き物がいることだけは間違いなさそうなのだが、それ以上の詮索を自分に禁じて、後ろも見ずに、カフェまで駆け戻った。
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あとから、あんな場所であんなものを見てしまったのは、松浦寿輝の本を読みすぎたからではないかと思った。いや、自分でも、根も葉もない雑言だというのはわかっているのだけれど。 だって、だって、松浦サンの小説ったら、やたらと湿度が高くて、日照不足。やめてぇってまでに、ぬめぬめぶよぶよしているんだもん。
あ、そうだ、あの雲形池の怪物(やや小振り)に、発見者の私が名前をつけてやるってのはどうだろう。その名も、ヒサ、…やめた。いくら何でもやり過ぎだ。これ以上恐い目に遭いたくアリマセン!(たたるってか)
鉢を買ってきて、ヒヤシンスを植え替えた。 --
歩いて5分ほどのところに**農園という苗や園芸資材を扱う場所があることを知り、出かけて行った。
行ってみてビックリ。広い敷地に砂利や舗石を敷き詰めた庭があり、季節の草花を植えた(今は主にヴィオラ)素焼きの大鉢を数えきれないくらい置いてある。その奥には、プレハブの売店があり、外国製のテラコッタ鉢や草花の苗はここで買う。さらにその先には庭を見渡せるカフェまであるではないか。
近くにこんな場所があるとは知らなかった。しかし、これが自分にとって本当に良いことなのかどうか。判断に迷うところだ。いとうせいこう氏の名著『ボタニカルライフ』の中に「隙間家具より隙間鉢」という一章があったように記憶するのだが。そのようなことになるのではないかと、わがことゆえにとっても心配。
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次男坊は実は双子で、葉陰からもう一房、蕾をつけた茎が伸びてきていた。重たくて傾いでしまうのも無理はない。三男はやや小柄ながら花の色は一番鮮やかで、発色自慢のイケメンくんである。
しかしそれでも(植え替えても)、やや徒長の感は否めず、仕方なく割箸を支柱にしてやった。ちょっと、かっこわるい。(写真は支柱なしバージョン)
ヒヤキントスどもは下駄箱の上へ移動させられた後もすくすく、ずんずんと成長し続けている。しかし、彼らはもうお喋りはやめていて、そのかわりにただひたすら芳香を放つのみ。玄関はもちろん、その香りは階段をのぼって二階の部屋の前あたりまで達している。
今日はいとこが訪ねてきてくれたのだが、なんとこのひとは当ジャーナルの読者。玄関で靴を脱いでいるとき、「下駄箱の上のヒヤシンス、すごく匂うでしょ。でももう喋らなくなったのよ」と言ったら、即座に「庭に埋められるのが嫌だったんじゃないの」とのたもうた。 -- いとこ氏にチマリスおもてなしの定番、特製チヂミをお出しして、松浦寿輝にロラン・バルト、フーコー、デリダ等々の話題でなごやかに談笑。しかし表面的にはアカデミックな名前が飛び交うものの、その実「なんであの学問の人たちはゲイに走っちゃうのかしらね」といった、まさにチマリスレべルの内容で、あー、楽しかった。
で、夜も更けて、帰るいとこ氏をバス停まで送っていき、家へ戻って玄関のドアを開け、中へ入ると…、あっ、倒れ掛かってる!特に、次男坊! 急激に背丈を伸ばし花を付けたヒヤキントスどもが、自らの重さのために斜めに傾ぎ、倒れかかっているではありませぬか。
じきに庭へ下ろすのだからと(普段は決してしないのだが)買ってきたときの窮屈なプラ鉢のまま、陶製の鉢カバーに入れていたのだが、やっぱり無理だったのだ。ふーむ、これは植替えるより他にありますまい。さて、どんな鉢に移してやろうかしらん…
ヒヤシンスがあまりにも急激に花を開き始めたので、少し涼しいところへ置いてやることにした。
で、玄関の下駄箱の上へ移動。もう、こんなに咲いちゃっているのだ。少しシメてやらないと、まばらに付けた蕾を一時にわぁっと開いておしまいになってしまいそう。そうしたら、もう花殻を摘んで庭に埋めてやるしかなくなってしまう。
獅子の親は、かわいいわが子を敢て谷底へ突き落とすという。親心、親心。(本当に、自分で自分が心配になってきました)
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