Leonna's Anahori Journal
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そんなに植物がかわいいんじゃ、きっと鉢植えに向かって話しかけたりしてるんでしょうね、というメールが来た。
話しかけてないよ。そうじゃなくてね、植物の方から話しかけてくるの、あたしに。(…!) -- 昨夜。キッチンの抽斗に吸いかけの煙草の箱を発見して、つい一本とり出してシュボッと火を点け一服していると、水仙どもは小声でザワザワ、「けむい」だの「キライ」だの、おしゃべりなやつでもせいぜいが「換気扇は回してね」くらいのものだったのだけれど。
生意気なのは、ヒヤキントスの長男だ。言うに事欠いて「そいつが一番イケナイんじゃないのぉ。からすのフットプリントには。」だと。 誰に向かってもの言ってるんだい、そういう口をきいてるとな、直植えだよ、即刻庭の土深く埋めてやるからな、と脅かしたら一応は静かになったけれども。なんだか、ふふん、とそっぽ向かれたような気がしたので、睨み付けてやりました。
-- しかし、植物というのは恐ろしいな。夜中の1時から3時迄の間、見てる間に花を咲かせていくんだよ。部屋の中、電灯の下で。
それで、じっと見ているうちにわかったのだけれど、ヒヤキントス三兄弟のうち、次男坊はすんごく負けず嫌いみたいなのだ。長男がみるみるうちに茎を伸ばしてぽろぽろと花を咲かせ始めたら、突然次男も首を伸ばして、たったいま葉の陰からのぞかせたばかりの蕾をふたつみっつと開き始めた。此奴は無口だけれど、負けじ魂では兄ちゃんを凌ぐんじゃないのか。
幸い三男坊はおっとりしていて、外のことにはお構いなしに、まだ葉っぱの陰で眠りこけている。この末っ子はおとなしくて、優しい子だといいんだけれど。 --
なんか、自分でもヤバイんじゃないかって気がし始めております。
そうだ、水仙を植えるならば土が必要ではないかと気がついて、快速電車で一駅行ったところにある園芸店へ出かける。ここは古いアーケードの中ほどにある間口の広い古い店で、苗でも種でも鉢でも、何でもそこそこ揃っている。
プラ鉢で軽いのをよいことに大きめの浅鉢を買い、これならばもう少し余計に植えなければ寂しいな、などと勝手な理屈をつけてポリポットに入った水仙を買い足す。
さらに、鉢植えのヒヤシンスに目が釘付けになって、どうにも買わずには帰られぬ状態に。こいつは中に蕾を隠したおよそ20センチ程の緑の葉が、まったく開かぬまま「気をつけ」の姿勢で三本、鉢の中に突っ立っている。色は、紫がかったブルー。
これ、中の蕾が育って葉が大きく開いたら、どんなに綺麗だろう。よし、水仙は庭へ出すけれど、こいつはテーブルの上に置いて愛でることにしよう等と思いつつ、買ってしまう。これに赤玉土と腐葉土で、ものすごい大荷物になったが、花のことで心ときめいているので、いっこうに苦にならない。
このところ私は、球根、もしくは宿根草に夢中になっている。これらの良いところは、一度土に埋めてやりさえすれば、あとは植物の方で勝手に毎年芽を出して花を咲かせてくれるところで、埋めた本人が忘れても(極端なはなし、死んでいなくなっても)春になれば花を咲かせるのだ。
それから、球根の植物は芽を出すとき、葉を伸ばすときの形状が何とも言えず初々しい。眺めていると、なんだか胸が一杯になってくる(やっぱり、どうかしているのだろうか、私は)。 いずれにしても、球根を埋めるというのはまるで宝物を隠すような気持ちのするもので、独特の楽しさがあるな。
前の住人が植えたものなのか、庭の端っこに勝手に生えてきて花を咲かせている水仙。これを二、三本切って、両親の位牌のまえに供えたりしてはいたのだ。
それがこのところ、この水仙の花が、可愛くて可愛くて仕方がない。村木道彦の「黄のはなの…」の影響だろうか。ふと気がつくと、薄く口を開けてじっと見入っていたりする。あぶない。
それで、もっと盛大に水仙の咲き乱れる庭をつくってやろうと、花を付けたものをさら買い込んできた。というよりも、花屋の店先で黄色い小さな花が群れて咲いているのを見たら、欲しくて欲しくてどうにも素通りできなかったのだ。今年はこのまま大鉢に植えて楽しんで、花が終わったら庭の植木の根元に埋めてやろう。
見よ、この愛らしさ。外に置くのに忍びなくて、今夜一晩部屋の中に置いておくことにしたのだ。じっと座り込んで、花弁に触れてみたりする。
黄のはなの…、黄のはなのゆれていたるが…、黄のはなの、黄のはなの…
ほんとうに私は、どうかしている。
つまらない毎日で。わざわざジャーナルに書くようなこと、なーんにもないのだ。サッカーもほとんどみていないし、テニスもやめた。
それでも、本だけはぼちぼち読んでいる。松浦寿輝、二連チャンで鬱々とか、村木道彦の歌に触れて無表情+遙かな眼差し、とか。 あと、今日は新装で出た伊丹十三の古いエッセーの後書き(平成十七年、浅井慎平氏による)に慟哭、とか。いずれにしても、あんまり明るくはない。
あ、そうか。そしたらジャーナルはほっといて、読穴更新すればいいのか。暗ーいかんじで、ブツブツ、クドクド。読んでる人まで陰々滅々みたいな。 うん、ええね。とりあえず、それ、いってみますか。
タバコ、やめたい。 -- 「一ヶ月以上我慢してはいけない」らしい症状がもう三ヶ月以上も続いている。とはいうものの、こういうことは初めてではないし、このままで、どうにかしようという気にもならない。
今日はテニスにも出ず、というより家から一歩も出なかった。土も植物も買わなかったし、携帯屋にも行かなかったし、洗濯もせず本も読まず、お礼の葉書も書かず、電話もしなかった。誰とも一言も口をきいていない。
それでは、と、二階へ上がってベッドに横になったらじわりと疲れが出て、電気を点けたまま、何時間か眠った(しかし私は、何に「疲れて」いるのだろう)。 -- さっき。開いているタバコ二箱を水に浸けてから捨て、灰皿も捨てた。さて、寝直すか。
イタリアといえばカルチョ、トリノといえばユヴェントスであって、先日のイタリアダービー(インテル×ユヴェントス)は大盛上り、熱々の好ゲームであった。デル・ピエロー!
というわけで、冬季オリンピックには興味なし。冬季に限らず、夏季オリンピックにしても、観るのはサッカーとテニス、場合によってはマラソン、くらいのもの。特に体操などは、うまくいくだろうか、失敗するんじゃないだろうかと過剰に冷や冷やしてしまって、まったく楽しめない。フィギュアスケートも同じ理由で、あまり観たいと思わない。
それでも。女子フィギュア、荒川静香選手のフリーの演技は、やはり素晴らしかったのだ。勝ち負けを忘れてうっとりさせてくれるものがあった。技術力よりも美的なものが前へ出ている(ように見えた)のがとても良かった。聞けば、採点方法が変わって得点に結びつかなくなったため封印していた得意技のスパイラルをあえて復活させ、今回の演技に取り入れたとか。なるほど、道理で。
これから「トリノのアラカワ」を思い出すときには、同時に、頭の中に必ずあのトゥーランドットの旋律が流れてくるのだろう。やっと獲れたよメダル、それも金!などということとは関係なく、素晴らしく満足の行く金メダルに、チマリスも静かに拍手した。
日本×インド。
やっぱりうまいね、久保は。若手もがんばってるけど、自信を持って「くせもの」と呼べるのはクボタツだけ。あの独特な感じは、海外組にもないもの。
あと、切れてる遠ちゃん、久しぶりに見ました。うれしかったでーす。 --
村木道彦、丸善では在庫切れ。しからば、アマゾン。待つのもまたたのし。
思い立って、ここ暫く松浦寿輝の小説を買い集めていたのである。 今日、そのなかの一冊、「もののたはむれ」という短編集を斜め読みしていて、村木道彦の短歌に遭遇してしまった。
実に大変なものに行き合ってしまった。タイヘンダ、タイヘンダと大声で叫びながら走り回りたいようでもあり、動悸を抑えつつ、がっくりと膝をついて泣き出したいようでもある。
ひとことで言うなら、官能的なのだ。それも、未だ汚れざるものだけがほんの一時纏うことのできる官能。ありふれた日常の中で、苦しく輝いて、あっという間に消えてしまうもの。
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村木道彦の歌は、「黄のはなの」という短編に登場する。というよりも、この「黄のはなの」というのが、一首の歌からの引用(初句)なのである。 その短編によれば、村木道彦というのは「二十代の初めに代表作のほとんどを書いてしまい、三十代の初めに『天唇』という題名のごく薄い歌集を一冊だけ出し、三十代半ばにはもう歌を詠むことをふっつりやめてしまった歌人」だそうだ。「たしか、静岡の県立高校の先生なのではなかったか」とも書かれている。
いずれにしても、松浦寿輝は恩人なのである。現在、村木道彦の歌を読もうと思ったら、国文社の現代歌人文庫24「村木道彦歌集」をもとめるより他に方法はない。この一冊に、彼の全短歌が収められているのだ。
いま私は、待ちきれない気持ちでいる。明日になったら、「タイヘンダ、タイヘンダ」と胸の中で叫びながら、丸善へ「村木道彦歌集」を買いに行くだろう。
すみだトリフォニーホールにて、矢野顕子ライヴ。仕事帰り、イ・ズーと待ち合わせて出かける。
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トリフォニーホールは、一昨年の暮れ、ジョバンニ・ミラバッシ・トリオを聴いたホールだ。とても立派なクラシックホール。今日は三階席の中央だったが、最初は遠くに小さく見えていた舞台上のピアノと演者が、段々近づいてきて、最後には二回りほども大きくなったような気がした。 今日もアッコちゃんは、くるりの「薔薇の花」を演った。彼女が演ると、毎回まるで違った曲になる。あの薔薇の花は、まぼろしの花なのだ。たしかに見たし、触りさえしたはずなのに、忽然とどこかへ消えてしまう。塗りつぶしたような青空。
コンサートの間中、一ヶ月もの間、ずっと書けずにいる手紙のことを考えていた。このままずっと書けないのではないか、むしろその方が良いのではないかとも思う。そう思いながら、何遍も何遍も、下書きをする。歩きながら。料理しながら。電車に揺られながら。それが、私の日常になってしまった。
めまいのするような青空の下で、私も、たしかに見たのだ。あの薔薇の花を。そのときは、そういう花だとは知らずに、ただ笑っていたのだ。消えたものを消えたと認識できるのは、その残像ゆえだろう。ぼう然としながら、そんなとき出来ることといったら、やはりジンジャーエール、買って飲むことくらい、なのだろうか。
降り出した雨の中、傘をさして帰るとき、あの薔薇の残像が夜の闇のなかに揺れて、部屋の電気をつけるまで、ずっと付き纏っていた。
ほらみれ、久保だろ、竜彦だろ。
って、実はフィンランド戦見忘れちゃった。嫌〜! -- 午前。 ゆっくり起きて、庭で鉢植え用の土を作る。
これまで植物用の土は、クルマで大きなホームセンターへ出かけて、赤玉土、腐葉土、堆肥(牛糞スロード)をドンドンドーンとまとめ買いしていたのだが、現在はクルマも運転する人もいないので、自分の手で運べる量しか買うことが出来ない。昨日も赤玉土と腐葉土、各3リットルずつを買って提げてきたのだが、一度に調達できる量がこれでは、いまひとつダイナミズムに欠けてしまうのだな。園芸生活の、な。
ところが、このまえ球根を植えようとして地面を掘ったときに判ったのだが、ここの庭の土はしっとり且つふかふかと柔らかくて、なかなか悪くなさそうなのだ。そこで、赤玉土と腐葉土に、ふるいにかけた庭土を混ぜて嵩を増やす作戦で行ってみることにした。堆肥も、近所で牛糞スロードが手に入らず困っているのだが、とりあえずマグアンプなどの化成肥料(あまり好きではないのだが)で凌ぐことにして、いそいそと軍手をはめて庭へ出る。やってみると、ふるいにかけた土はやはりふかふかと柔らかく、園芸用土としては合格、二重丸なのであった。
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午後。久々にテニス。
改修中の室内コートの屋根が完成した。ところが、林家コーチが転勤で他所のスクールへ行ってしまったので、スクール内、静かだったらありゃしない。
何ヶ月ぶりかで少し走ったけれど、足は大丈夫。でも手首とか握力が弱くなったみたいで、このあたり老化が甚だしい。おかげでストロークが安定せず、打てば打つほど駄目っぷりを披露してしまった。 帰り道、降り出した雨をものともせず、コレオネマとノースポールを各2鉢ずつ買って帰る。
コレオネマはとても鮮やかなピンク色の花をびっしりと付けている。葉に触れると僅かに蜜柑のような香りがする。こいつを隣との境の柵に沿って直植えして、蜜柑の香りのする小さなブッシュを作るのだ。ノースポールは、素焼きの中鉢に植える。
一度は不便さに負けて引っ越しも考えたけれど、庭のある生活ということを考えると、もうしばらくはここにいるより仕様がないかなと思う。少なくとも、今年埋めた球根から来春、にょきにょきと芽が出てくるのを見るまでは此処を動くわけにはいかないゾ、という気になっている。
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