Leonna's Anahori Journal
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真夜中、寝る前に外を確認したときにはヒラとも落ちていなかったのに、朝起きてみるとすでに雪が積もっていた。予報は当たった。
本日、七七日の法要、納骨。昨晩から泊まり込んでくれた妹とふたり、父の遺骨、遺影、白木の位牌、その他諸々の大荷物を手に家を出る。この天候でタクシー会社に電話しても通話中、繋がったところで空車はないだろう。ほかに方法もなく、雪の積もった坂道を徒歩で大通りまで出てバスに乗る。ふたりとも礼服はやめにして、ズボンにセーター、黒いオーバーコートという出で立ち。この際服装にまでかまっていられない。 --
雪の中、お集り戴いた皆様には申し訳ないが、この雪、娑婆の人間にとっては“悪天候”でも、晴れて仏となった父には相応しいものではなかったかと思われる。冷たく、静かで、美しかった。納骨の際、雪まじりの風を身に受けながらお経をあげてくださったご住職の「忘れられない日になりますね」という言葉が優しかった。
納骨が済んで、皆で会食。まず赤ワインで乾杯する。赤ワイン。こういうときに、これ以上相応しい飲み物があるだろうか。なぜか“命の水”などというキザな言葉が衒いもなく浮かぶ。正直、少し飲まなけりゃ、やってられない気分。なかんずく、赤ワイン。ぺしゃんこになりそうな私をふくらませてくれい。 -- 夜。電車に揺られて帰宅。駅に着いてもまだ雪は降り続いていた。習慣に従い、ベーカリーカフェでコーヒーを飲みながら読書。傍らの紙袋には父の位牌が入っている。遺骨は墓に納めた。いま、父の魂はこの位牌に入っているらしい。墓や骨そのものよりも、位牌というのは大切なものだと聞かされたことがある。
昨晩、妹には母の位牌を持ってきてもらった。父が四十九日間の旅を終えて正式に仏となるまで、その白木の仮位牌は、すでに仏となっている母の位牌と一緒にすることが出来なかったのだが、これでやっと両親の位牌を並べて置くことができるようになったわけだ。
しかし、そのふたつの木片、それが本当に私の両親なのだろうか。あまりにも小さい。あまりにも軽いではないか。こういう、考えてもしようのないことを考えるのは疲れているからなんだろう。ベーカリーカフェの椅子から立ち上がるのが億劫でしようがない。思えば父も母も、生前、今の私の住まいを訪れたことはなかった。 さてさて。そろそろ帰るとしましょうか、お父さん。これ以上遅くなると、タクシーがあの坂道を上がれなくなるかもしれません。お母さんは、昨晩、トモコちゃんが連れて来てくれて、一足早く着いているんです。私の家、とても静かな良いところなんですよ。 タクシーの運転手は「お客さんを降ろしたら今日はもうまっすぐ帰るんです」と言いながら、細い坂道をそろそろと下って、上った。 とにかく今日は早く休むとしよう。(そうして明日は好きなだけ寝ていよう)
昨日、会社の帰りに電車の中で読み始めた吉田修一「パレード」を帰宅してからも読み続けて、今朝3時半ごろに読み終えた。読みやすさと面白さにぐいぐいと引っ張られて、もうあと数ページというところまできて、気分が暗転した。恐いというのとも違う、何か割り切れない気分でベッドを出て階下へ降り、ダイニングの椅子で煙草を吸う。
もしも、これが今の世の中を活写した優れた小説であるならば、私はもう今の世の中とも優れた小説とも無関係に生きて行こうと思う。病んだ世の中に小さく傷つき、そのたびに小さく気を紛らわせながら、ズレた奴だと思われぬよう周りにも気を遣って…なんてみみっちいことは、もう考えるまい。どうせ勘違いなら、大きくいこうじゃないか。
明け方に寝て、そのまま夕方まで寝ていた。大雨と、地震と、雷。
誰からも必要とされないということは、何とも言えぬ気分のするものだ。…いや、そうじゃあないだろう。自分が必要だと思うひとから必要とされないということは、と書くべきなのだ。真実とは、こんなにみっとないものかと笑ってしまうが、自分自身を丸め込もうとするような嘘は良くない。そういうのは、結局のところ、健康に良くないのだ。 -- 昨日、amazonから宅急便で届いた本。 「不穏の書、断章」 フェルナンド・ペソア(思潮社) 「ヴェネツィア・水の迷宮の夢」 ヨシフ・ブロツキー(集英社) これで、注文した本は全部そろった。心を落ち着けて、しばらくは、買うより読む方に専念するとしよう。
朝。明るい日射しを浴びながら、泣きたい気持ちでバス停へ歩く。この頃は、朝が、最低の気分。晴れれば晴れるほど悲しくなる。何がどう悲しいのかわからない。とにかく内蔵がごっそり抜け落ちてしまったようなスカスカ、ペラペラな気分。仕事に行きたくない。寝ていたい。 昼。食堂で同じ仕事場の女性三人と一緒に昼ご飯を食べる。あたりさわりのない話をする。TVの新番組のこととか、星占いの話、とか。皆、おとなしくて感じのいい人ばかり。だから私もおとなしく人の話を聞いて、たまに「あ、それ私も見ました」とか言って、笑ったりする。
誰もまだ私のことを、よく知らない。普段の自分よりもトーンを落として、ニコニコしながら静かに笑っている。“感情の重労働”から解放される。それが心地いい。ひとりになりたくて外で食事することもあるけれど、今日は誰かと言葉を交わしたかった。話すそばから忘れてしまうような、どうということのない世間話を。
今の仕事には、勤務初日ですでに退屈してしまっている。それでも、仕事へ行くということには、仕事以外の別の価値もある。 -- amazonに注文した修一本が続々到着。ユーズドゆえ、それぞれの古書店(もしくは個人)から一冊ずつの計三冊。ポストからひっぱり出すのに苦労した。到着本は以下の通り。 「パレード」 吉田修一(幻冬舎文庫) 「日曜日たち」 吉田修一(講談社) 「ランドマーク」 吉田修一(講談社)
バイオリズムも底を打ったって感じだ。ここが一番の低地。 なにひとつ面白いことがない(面白いと感じない)。所謂、駄目駄目。 -- 昨日、amazonで吉田修一の本をまとめ買い(極力ユーズド利用)。ついでに、フェルナンド・ペソア(ポルトガルの詩人)の著作も2冊購入。そのうちの一冊、「不穏の書、断章」を仕事帰り、丸の内OAZOの丸善でたまたま見つけて、立ち読み。
あ〜う!、こりゃ当たりが出たみたいよ。久々、力のある言葉に触れて、一瞬自分の置かれた(俗世での)状況を忘れてた。実はここ数年、自分にはもう詩に感応する力が無くなったと思っていたのだが。
ペソアというひとは、七十もの人格を創造して、それを使い分けながら創作したらしい。「私は進歩しない。旅をするのだ」「もう、ずいぶん前から、私は私ではない」…こういう言葉には、刺激とくつろぎを同時に感じてしまう。
それに、進歩しない(旅はする)、私は私じゃなくなった、なんてまるでアタシジシンのことみたいじゃああーりませんか。面白いことがなければ、居眠りでもしながら、別の場所で別の自分を生きてみるのもあり、なのだろうか。 丸善では武田花を買って、帰ったらポストにペソアのもう一冊の方が届いていた。しかし早いな、どこを飛んで来たのだ、このペソア本は。 というわけで、本日の購入本。 「仏壇におはぎ」 武田花(角川春樹事務所) 「フェルナンド・ペソア詩選 ポルトガルの海」(彩流社) -- 風邪は八割方治った。 父の家は、横浜市の粗大ゴミ処理券を利用、出来る限り役所に申し込んで回収してもらうことにした。「私は無駄遣いしない。力仕事をするのだ」
父の家を片付けてあけ渡さなければならない。夕方、遺品整理の専門業者(そういう仕事があるのですね)が見積もりに来るので、熱は下がったが未だドンヨリと重たい身体を引きずって横浜へ出かける。
本当は昨日見積もりに来てもらうことになっていたのだけれど、熱で動けないので一日延ばしてもらった。三日前、医者にかかったときに明日とあさって熱が出ると困ると言ったのは、このため。
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しかし、ですね。見積り金額が40万円て…。 大邸宅でもなんでもないですよ。むしろ小さめ、2DKの集合住宅の一室なのに。いっくらなんでもそれはないだろう。こりゃ、もう一度ネットであたって他の業者で再見積りだな。
あー、頭痛い。母のときは家の明け渡しはなかったから、この件に関してはまったくの初心者。相場もわからずオロオロするばかりだ。これさえ終わればあとは七七日、納骨と楽に終わることが出来るのだけれど。
往復の電車では吉田修一を読みふけることで、ひたすら現実逃避。シュウちゃんの醸し出す“不穏さ”の正体には肉薄した(つもりだ)けれど、それと遺品整理は無関係。激しい咳も、勿論、無関係。
熱は下がったけれど喉はまだひどくて、時々乾いた咳が止まらなくなり、胃液があがってくるほど咳き込む。ただし、そのおかげで普段使わない筋肉を酷使しているらしく、みぞおちからおへそのあたりに筋肉痛。 正直、ハリウッドピラティスより効くざんす。
一昨日、医者にかかった。先生に、明日とあさって、熱が出ると困るのです、熱が出ないようにしてくださいと言ったら、あんた、サラリーマンのオッサンみたいなこと言うねぇ、と切り返されてしまった。
さらに、そんなことは無理だよ、とも。風邪を“治す”薬というのは存在しない、それが出来たらノーベル賞ものです。対症療法で多少楽にすることしかできない、あとは寝て治すしかありません。消化のいいもの食べて水分多めにとってね、だそうだ。
それで、昨日は薬をのんで仕事に出たが、夕方頃から熱が出始めた。腰と指の関節が痛い。夜、7度9分、夜中、8度5分。このあたりが発熱のピークで、大汗をかいて一度着替える。こりゃ大した風邪じゃないな。ここから先はゆっくりと治癒の段階に入るのだろう。ぼんやりとそう思いながら、寝直した。 -- 昼過ぎ、薬をのむために起きる。昨晩作った玉子粥の残りを電子レンジで温めて食べる。これも、正月の残り物の膾を冷蔵庫から出して一口食べたら、荒れたノドを酢が刺激して、激しく咳き込んだ。そうなのだ。苦しいのは熱よりも、むしろ咳。昨日仕事している最中から咳き込み続けて、ゆうべも夜中じゅう苦しい咳がでて、いい加減、胃が痛くなってきた。
そういえば、高校サッカーどうなったかなとTVをつけてみると、折しもこれから準決勝、野洲(滋賀)×多々良学園(山口)が始まるところ。寝間着のまま椅子の上に横座りになって観てしまう。最初少しだけ観て、あとは録画しておくつもりが、結局全部みてしまった。
いやぁ、繰り返しになるけれど、日本のサッカーは確実に良くなってる。この準決勝はセリエ、プレミア、Jリーグ、いずれの試合にもひけをとらない(もしくは、プロの試合にはない)面白さだった。亡くなった父は、高校野球の面白さを「次はないから真剣さが違う。それに若いから、投手なんか毎日でも投げる。こういうのはプロ野球ではみられないよ。」と言っていた。
高校サッカーの面白さもまったく同じだ。若くて、元気で、必死、なのだ。しかも一昔前とは違うサッカー環境で育った彼らの技術水準は、当たり前のように高い。そう来たかと言いたくなるような、心憎いパスやロングフィード。よくありがちな、無駄なパス交換で試合をダレさせることすらない。そして、どこからでもゴールを狙って来る。角度のない場所からでもどんどんシュートを打ってくる。若くて必死、とはいえ、必死故のバタバタした感じ(稚拙さ)はない。
野洲×多々良学園は、1−0で野洲が勝って、決勝は鹿児島実業と野洲の対戦となった。実に楽しみなことである。
仕事始め。
家ではひとりなので誰ともしゃべらない。だから気付かなかったのだ。会社へ行って挨拶しようとしたら、聞いたこともない変なうめき声が出てきて、ドびっくり。変な声というより、ほとんど声が出なくなっていた。
たしかに昨晩は、布団の中で空咳が出て苦しかったのだが。とにもかくにも、静かなフロアに咳き込む音が響いてしようがない。それよりなにより風邪の菌をバラ撒くわけに行かないので、すぐに薬局へマスクを買いに行った。
マスクをするとノドも楽だし、なんか“隠(こも)ってる”という感じがして、気分よし。見た目開いてる感じでその実閉じてるよりも、見た目閉じてて実際も閉じてる方が、しっくりくるのよ、楽なのよ。これで会社でも、淡々新年。(微熱でも出れば、寝込めるんだがなぁ。って、この怠け者めー!)
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池袋ジュンク堂書店にて購入本。
「現代詩手帖特集版 塚本邦雄の宇宙」(思潮社) 「文藝 2005年冬号 特集:吉田修一」(河出書房新社) 風邪引いたとかって言いながら、なんでそんなところまで本探しに行くんだ(笑)。 お弁当のおかずに、おせち。帰って晩のおかずも、おせち。嫌いじゃないから構わない。
今頃になってすみませんが、大晦日の格闘技の話。
なにか大晦日というと、K−1よりもPRIDE、男祭りという昨今ですが。私の気のせいかしらん。どうでしょう?
でもね。昨年末面白かったのは、個人的にはPRIDEよりK−1。魔裟斗×大東旭、ホイス・グレイシー×所英男。特に、ホイス×所の痺れる試合。所の応援で、私もうクタクタ。
でもよかったわー、両方とも地味だけど熱くなれる試合で。やっぱり、男の子はああでなくちゃ!(笑) -- PRIDEは、小川×吉田が大きな話題になったけれど。あの二人、闘うということに対する考え方がもう基本的に違ってしまっていて、いまさら同じ土俵にはのれないものを無理矢理載せてしまった、感あり。
とにかく、ああいう結果でよかったと思います。小川ならハッスルハッスルでしめてオシマイにできるけれど、これが逆だと変なアヤが出来て、引きずったりしますからね。それに、吉田秀彦は一年に一度、大晦日に最もかがやく男であると、これはもう決定事項なのですから(チマリスの掟)。
PRIDEで凄かったのは、なんてったってシウバでしょう!あれはもはや脱人類だよ(笑)。あのテイストはPRIDEならでは。K−1では無理です。
寒くて家から一歩も出られない。 きょうは妹が逗子から電車に乗って遊びに来てくれた。
年末、私の誕生日に会えなかったので今日持ってきたというプレゼント、開けてみたら柔らかい生地で出来た猫のぬいぐるみだった。…ねっ、猫かよ!
しかも背中をグッと丸めて、いまにも飛びかかってきそうな体勢である。ほんの少し複雑な想いでぬいぐるみの顔を眺めてしまう。やはり、何考えてるかさっぱりわからん顔してた。
はじめてお屠蘇というものを作ってみた。紀文のお節セットについてきた屠蘇散を清酒一合に一晩つけて、出来上がり。ティーバッグ状になった屠蘇散の中味は、陳皮、桂皮、花椒 、蒼朮、丁子、防風、桔梗。
妹は一度みりんで作ったことがあるが、あまりにも不味かったのでそれ以来作っていないとのこと。屠蘇は正式にはみりんで作るものらしいが、清酒で作った方が飲みやすいのは確か。一年の健康を祈って妹と二人で飲んだ。特に、薬臭いものが好きな私はたくさん飲んだ。 --
初夢は、なんとなく意味深長なものだった。深長すぎて、自分でもどう捉えていいのかわからない。
まっ、いいではないか、いいではないか(淡々新年)
数日前、天皇杯決勝のチケットが手に入らぬかとイープラスにアクセスしてみたが、もうダメだった。日が迫っているということもあるが、恐らくこれは浦和市民全員がチケットを購入したためではないかと思われる。
その甲斐あって(←全市民購入と決めつけております)、見事、浦和レッズ優勝。市民の皆さま、やりましたね!おめでとうございます。 -- 去年一年、Jリーグの試合はまったく観ていなかったので、何をみても新鮮だった。アレックスの顔をみてオー!、山田、坪井の顔みてもオー!、野人岡野の姿にウワァ〜!(笑)。でも、ピッチ上に田中達也と鈴木啓太の姿がないのが寂しかった。
一方、清水で驚いたのはハナゲ君(井筒監督ともいう)こと森岡隆三が痩せて小さくなっていたこと。一時期の顔も身体もパンパンという状態があまりにも異常だったとはいえ、すっごく小さくなっちゃってた。逆に大きくなってたのは市川大祐。思えばこの人、W杯フランス大会に帯同したときはまだ高校生だったんだもんね。それがしばらく見ないうちに立派になって…(感慨深い)
それと平松がきっちり束髪にしているのをみて、胸のつかえがとれた気分。以前私がまだJの試合を観ていたころは、平松選手というとプレー以前にその髪型が気になって気になって(笑)。でもさ、髪が落ち着いたのはいいけど、交代で入ったとたん、あんな短時間にばしばしカード貰ってどうするんだ。結局、累積レッドで退場。んー。
後半、2点リードの浦和に一矢報いんと市川が打ったダイレクトシュート、見事でした。あのシーン、まるでセリエの試合見てるみたいだったなぁ… --
今年も数の子を塩抜きして鰹出汁のたれにつけたものと、膾だけは自分で作った。煮物は割愛。あとは定番おせちを少量ずつ買ってきて愛用の小さなお重に詰めた。これらをつまみながら、純米酒ちびちび。ひとりのんびりTVで天皇杯観戦。
日頃から、世の中悪くなる一方、あたしゃこんな国に未練はないわいなどと放言してはばからぬ私だけれど、少なくとも日本のサッカーが確実に良くなっていることだけは確か(代表チームではなく、あくまでJ各チームにおける試合内容のことですが)。
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