Leonna's Anahori Journal
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2005年12月01日(木) |
小説と映像の追いかけっこ |
仕事のことも何とかしなければならないというので、東京方面へ出かける。 夕方、恵比寿ガーデンシネマにて「ドア・イン・ザ・フロア」を観る。今日は映画の日。アーヴィングの映画を観るのにうってつけの日。 -- 「ドア・イン・ザ・フロア」は、アーヴィングの「未亡人の一年」の前半部分の映画化で、正確には新潮文庫上巻の343頁まで、第一部〈1958年、夏〉の部分を映像化している。
「未亡人の一年」は、アーヴィングらしい大きな物語で原作は文庫版で上下巻あわせると優に1,000ページを超える。その間、物語には数十年の月日が流れて、子どもは大人に、少年は中年に、大人は老年に至る。
脚本/監督のトッド・ウィリアムズ(まだ三十代半ばだそうだ)はこの物語の前半部分を丁寧に描くというアイデアで原作者アーヴィングの全幅の信頼を得、その期待に応えてあまりある映画を作り上げた。とにかく、静かで落ち着いていて、素晴らしい映画音楽(マーセロ・ザーヴォス)と共に、胸にしっかりと染み込んでくる。
小説→脚本化の手腕は勿論だが、キャスティングがまたいい。端役に至るまで、ただの一人も間違いがない。つまり、原作の読者を裏切らない配役。実を言うと、私はこの映画を観る時点で、まだ上巻を全部読み切っておらず、映画の終盤、キム・ベイシンガーのマリアンが夫と娘を残して黙って家を出て行ったところで、映画(物語)に追いつかれてしまった。
けれども、帰りの電車では再び映画に追いつき、ついには追い越して、いつもの駅で降りる頃には、十六歳で、人妻マリアンと“六十回の夏”(詳しくは原作または映画をあたられたし)を過ごした少年エディ・オヘアは、四十八歳のあまりパッとしない作家になっていた。そして、マリアンが捨てた娘、ルースとニューヨークで再会する…
この間〜映画を観る直前まで原作を読んでいて、映像化されたものを観て、その映画の続きをまた小説で読む間〜私は“途中で実写版を観られたことの幸福”をタップリと味わった。映像が私を助け、楽しませ、その先の文章が、観た事もない映像をつれてきた。つまり、この映画はそれくらい原作に忠実に、そして原作を決して枷と感じさせない瑞々しさを保って作られているのだ。 なお、原作では夫婦(ベイシンガーとブリッジス)の亡くなった息子が履いていたスニーカーについて、バスケットシューズ(ハイトップスと呼ばれていた)と書かれているが、映画の中では“ナイキのエアマックス”と更なる具体性を与えられている。いやぁ、やるなあ、トッド・ウィリアムズ。
また、映画ならでは表現ということでは、パンフレットの中で川本三郎氏も述べている通り、幕切れで、スカッシュコートの床に作った上げ蓋式の“ドア”を開けてジェフ・ブリッジスがふっと床下へ消える、あの短いショットが素晴らしかった。 -- 「ドア・イン・ザ・フロア」、首都圏では恵比寿ガーデンシネマにて、12月9日までの上映です。お急ぎください。
気がつくと、家の中にずいぶんいろんな種類のオイルが集まっていた。 以前から使っている、ニールズヤードのマッサージオイル。某化粧品会社の看板商品、オリーブバージンオイル。韓国で買って来たアンズの種からとったオイル。今年の春から使っている薔薇の実(ローズヒップ)のオイル。 なかでもローズヒップオイルは最近のお気に入りで、普段からスポイト付きの小瓶に分けたものをバッグに入れて持ち歩いている。もちろん旅行にも持って行った。顔はもちろん、ハンドクリーム代わりにも使うし、お風呂上がりには身体にもすり込む。 おかげで、70ミリリットル瓶の中味があっという間になくなってしまう。 先日、そのローズヒップオイルを買いに『生活の木』へ出かけたところ、見慣れない小瓶に入ったオイルが置いてある。ラベルを見ると、ヒッポファエオイル、と書いてある。10ミリリットルで2,500円(お高い)。何だ何だ、何なのだ、これは。
さっそくサンプルの瓶から一滴取って手の甲に擦り込んでみる。赤に近い、濃いオレンジ色の液体で、塗った場所は皮膚が黄色に染まる。ギュッと濃厚な感じだけれど、あまりベタベタしない。ニンジンみたいな臭いがする(私は嫌いではない)。しかし、ヒッポファエって何なのだろうと思ってもう一度ラベルを見てみたら“成分:ウミクロウメモドキ油”と記載があった。
『贅沢は敵』であるので、迷いに迷った。店内をぐるぐる歩き回っては、何度もヒッポファエ油の前でサンプルを手に取った。私の左手の甲は次第に真っ黄色に染まってゆく。なーんか、スゴく効きそうなんだよなぁ…(でも、何に?)。
レジのところへ持って行って店員さんに効能を訊ねると、「そうですね、疲れたお肌にいいです。ハリが出ます」。畳みかけるように、そんなにいいですかと訊くと「そうですねぇ…。一度買われた方はたいていリピーターになられるようですが…」。心は決まった。
…ソレ、いただくわ!! 帰ってから少し調べてみたところ、ヒポファエ油はビタミンACEとカロチンの宝庫で、フリーラジカルを強力に防御するらしい。 で、実際に使ってみると、なかなか良さそうなのだ。特にシワ・シミ等、加齢によるトラブルには効くみたい。吹き出物や、荒れたところにもいい。乾燥肌には言うに及ばず。みるみるうちに目尻の皺(からすのフットプリント)が目立たなくなった。
色がつくので、ローズヒップオイルにほんの一滴、混ぜて使う。ちなみにローズヒップもビタミンC豊富な、加齢によしといわれているオイル。これがほんとのダブルブロック処方さ!(笑) -- オイル以外に、もうひとつのマイブームあり。それはバスローブ。
厚手の高価なものではなくて、ロフトあたりで売っている廉価なものを買って来て、洗って柔らかくして寝間着代わりに使う。着心地が良くて、パジャマと較べても格段にあたたかい。
たまに年配の方で「私は、浴衣式の寝間着じゃないとイヤ」という人がいるけれど、こなれたバスローブは着慣れた浴衣寝間着に似ている、かもしれない。
ところが昨晩、風呂上がりに、いい気分でオイルを擦り込んでバスローブ寝間着を着て寝たら、翌朝、ローブの襟裏や背中が薄黄色に染まっていた。あちゃー。まぁ、人に見せるものではないからかまわないのだけれど、やっぱり白いローブは白いままで着たかったなぁ。
この間、ヴェネチアで食事した店の近くにバス用品店があって、きれいな色(たしかピスタチオグリーンだった)のローブに目が行った。買って帰ろうかなぁと言ったら同行の友人から、何もベニスまで来てバスローブ買う事もないだろうと言われて思いとどまった。実際かさばるし、結構重たいのだ。
でも日本では、値段にこだわらなければともかく、安物、薄手のバスローブはたいてい白か薄いピンク、もしくは水色位のチョイスしかなくて、私はあの引越タオルみたいなピンクや水色が大嫌いなのだ。
どうして、モスグリーンやタバコブラウンみたいな渋い色のがないんだろう。同じ赤系だって、ローズピンクや紫がかった茜色、熟れ過ぎのマンゴーみたいにオレンジがかった黄色とか、そういうのがあれば何枚でも欲しいんだけれど…。 ぶつぶつ言いながら、今日もお風呂上がりに“加齢に効くオイル”を擦り込んでいる。
いやぁ〜、危なかったなぁ、ミラン。対レッチェ戦、良くて引き分け、悪けりゃ負けるところでした。
-- 1−1のまま迎えた後半も半分を過ぎての終盤、繋がらないミランのパス、攻めて来るレッチェ。前節のフィオレンティーナ戦(痛恨の負け試合!)でもそうだったけれど、決めるべきときに決めておかないと、結果、あらあら、こんなはずじゃなかったのにー、となるんですなぁ。
しかし、フィオに負けたあの試合ね、ジラルディーノのあのシュートは断じてオフサイドじゃあなかった。あのミスジャッジからおかしくなっちゃったんだよなぁ、ミラン(つーか、ジラルちゃん)。
それで、アカン、今日のジラルちゃんはアカンよ、前節ケチがついてからなんか顔つき暗いもん。一回ベンチへさげて厄落としたた方がええて。早くしないと手遅れになりマス、早く、早く替えてあげて〜、と、アンチェロッティ監督へ必死に念を送り続けたチマリス。やっと後半27分に想いが通じまして、ジラルちゃん→ピッポ・インザギに選手交代いたします。よしゃ、頼むでぇピッポ!!
で、祈る想いでみていたところが、やっと出ました、ピッポ執念のトゥキック!チマリス思わず大声で、 来たぁ〜〜〜〜!!! ロスタイムの3分42秒でしたが。肝を冷やすとはまさにこのこと。あと2分弱でタイムアップでした。
しかしあのトゥキックも、紛うことなきインザギスタイルでしたねぇ。で、アドレナリン出し切って、仰向けに、ダーン!(笑) えらいぞ、ピッポ!なんぼでもダーンしてくだされ!!
ちなみに一点目、ピルロのFKはまさに魔球でした。彼はあのFK、嫌というほど練習したから自信がある、と言い切っていたそうな。解説のジャンルカ(富樫)さん曰く「あのFKだけで食べて行ける」。ゴールまでの距離28メートル(!)、ネットの右隅に突き刺ささるまで、敵も味方も全員棒立ちでした。えらいやっちゃ。 チマリスが少ーしだけ気になるのは、シェヴァの顔つきね。あまり楽しそうに見えない。CL、フェネルバフチェ戦では一試合4ゴールを決めてみせたというのだけれど、顔みるとね、あまり楽しそうじゃないんだなぁ。カカ(フェネルバフチェ戦で腰を打撲。休養中)、もしくはジラルちゃんあたりと、ゴール前で憎いパス交換、どちらが決めてもかまわないというスタンスで得点量産してくれれば敵無しなんだけどなぁ。
※後出し旅ジャーナル始めました。 --
今朝未明、『神様がくれた指』をやっと読み終わる。面白い小説だった。読んでいる間じゅう、胸ときめいた。切ないけれど明るい光が射していた。ちょっと個人的な理由もあって、私はこの小説の主人公のことを、このあともずっと特別な気持をもって思い出すのだと思う。(これ以上は、書けません、言葉になりません) それで、愛用の布製ブックカバーを、盛田隆二『ニッポンの狩猟期』にかけ替えて読み始めたのだが。同じ若者、同じ暴力を描いても、書き手が男性だとこれだけ感触が変わるものなのか!と嘆息。正直言って少々、キツい。ま、小説のテーマそのものが違うのだから当たり前といえば当たり前なのだが。しかし、切なさ横溢という点では『神様が…』とみごとに共通している。 -- どうしても気になる物件があって、見せてもらいに不動産屋さんを訪ねた。結果、多少不便でも今住んでる家の方が全然いいや、ということになった。要するに、見に行って正解だったのである。広さ、設備、環境、築年数等々において、いま住んでいる家をしのぐような好物件はなかなかないのだということがよぉくわかったのだった。わかったとたんに、早く家へ帰りたいと思った(現金チマリス)。
普段私が利用しているJRの駅から歩いて4、5分のところに私鉄の駅があり、そばには商店街があって、たいそう賑やかであることを初めて知った。駅から徒歩圏の住宅街といえば、むしろこの私鉄駅周辺がメインらしかった。いまの市へ引っ越してきて一年、こういう場所があることをまるで知らずにいたので、隠されていたものが突然現れたような妙な気分。頭の中の地図が急に拡がった思い。
2005年11月23日(水) |
最高のスーヴェニール |
学生時代の友人が二人、遊びに来てくれた。野菜のトック(韓国餅入りスープ)と炊き込み御飯、牛肉のバターソテーお豆のサラダ添えでもてなす。
話題は、ヴェネチアのこと、再婚のこと(二人のうち片方が、目出たく)、健康のこと等等。病気や健康法のことでやたら盛り上がるのは、やはり年齢ゆえか。気付いて爆笑、そののちまた、病気や体調の話…(笑) -- ドイツから帰国するとき、旅行中に友人がデジカメで撮った画像をCDに焼いて渡してくれた。そのCDをやっと昨日、開いてみた。
素晴らしい!最高のスーヴェニール。一緒にヴェネチアの町を歩いて、私も同じような場所から写真を撮ってきたのだけれど、彼女の撮った画像は想像していた以上に生き生きとして、美しかった。少しの視点の違いで、このまえ見てきたばかりの場所を、こんなにも新鮮に感じるものだろうか。まるで、もう一度ヴェネチアの町を早回しで歩き回ったような気分だ。新鮮だけれど、でも懐かしい気分。
そのうえ友人は、気付かないうちに私のことも写してくれていたようで、例の画廊付近をうろつきまわったり、小さな運河沿いに建つ他人様の家を不躾に覗き込むチマリスの姿が、絶妙のアングルで写し取られていた。(い、いつの間に…)
うれしい。とってもうれしい。特に例の画廊の飼い犬二匹と、ウィンドゥに飾られた額画が一緒に写っている写真には感激してしまった。一瞬、あの小さな橋のたもとのギャラリーの前へ舞い戻ったような気分になった。 (ここから私信)
ありがとう。こちらからも画像データ、なんとかお皿に焼いて送るから、少し待っててね。…でも、ひとつだけ言わせてもらってもいい?
私が、超・ド観光名所として有名なリアルト橋のてっぺんのド真ん中で口にした言葉は、「ここはどこだ?」ではなくて、「あれっ、ここリアルト橋じゃない?!」です。両者は同じようでいて、でもちょっと違うんです。謹んで訂正させていただきます。以上。
2005年11月19日(土) |
凡人だってシュールを生きる |
『20世紀の芸術と生きる ペギー・グッゲンハイム自伝』が届いた。
つい先日ヴェネチアで訪れたあの家、いまも同じ場所に置かれていて、この手で触ってきたばかりの彫刻の、昔の写真がたくさん挿入されていて、感無量。
それに、ちょっと目を通しただけでも、むっちゃくちゃ面白そうな本で身震いがする。彼女自身が語る遍歴もさることながら、終章の後ろに付された『ヴェネツィア』という一文を読むと、一行一行に目玉が吸い付いてしまう。
ヴェネチアは、一度そこを訪れてしまうと、あらゆる機会を見つけ、可能な限りの口実をもうけて人はそこへ帰っていくことになるのだ、と、グッゲンハイムは書いている。魔法をかけられたようになってしまうのだ、と。
それは、よくわかる。いみじくも、ヴェネチアからドイツへ帰るその日に私は同行の友人に言ったものだ。「普通の場所なら、お名残惜しい、あと3日位いられたらねとかなんとか言うところだろうけど、ヴェネチアにはその言葉は通用しない。3日だろうと一週間だろうと同じ事だよ。キリがない。もっといたいというなら、最後は住むしかないんじゃないの」と。…ああ、ヴェネチア(チマリスッ、深呼吸、深呼吸!)
この本、新本と見紛うばかりの美本で、帯も完全。きれいにハトロン紙がかけられていた。定価8千円を1,950円で入手。みすず書房刊。 -- ヴェネチアの町を歩き回っていて、そして、グッゲンハイムの家でマックス・エルンストの作品の前に立って、私は、
“美とは痙攣的なものであろう。さもなくば存在しないであろう” という有名な言葉を思い出した。これはパティ・スミスがセカンドアルバム『ラジオエチオピア』の裏ジャケットに英語表記で引用した言葉で、元はエルンストと同じシュールリアリズムの芸術家、アンドレ・ブルトンが小説『ナジャ』の最終行に記した言葉なのだが、私はブルトンとエルンストを混同して、エルンストの絵の前で思い出してしまった(笑)。
しかしながら、ヴェネチアという町で思い出すのにこれほど相応しい言葉もないように思う。それで、同行の友人にそのことを告げたところ「ヨーロッパにはそういう言葉の下地となる美が(町の風景等となって)常に存在しているからね」と言われてしまった。まず、身辺に“美”というものが当たり前に存在しているからこそ、美とは痙攣的なものだという言葉が成り立つのだという…。
彼女のこの言葉で、十代の頃からずっと頭のどこかにあったこの言葉、どうにも上手く消化しきれなかった言葉の意味がやっと、ストンと落ち着くべきところに落ち着いたような気がした。要するに、東京にいて、頭で理解しようとすること自体が無理だったのだ。下地のないところでいきなり痙攣的な美について考えてもわかるはずがなく、また、それを想像しようとしても至難の業(東方には東方の、痺れるような美の在り方が存在するとしても)だ。
ちなみに、アンドレ・ブルトンはフランス人、わが友人は在欧17年である。 -- それで、実に久しぶりにブルトンの『ナジャ』を開いて、訳者のひとりである栗田勇氏による「われらの内なるナジャ」という巻頭文を読んでみたのだが、これが一々良くわかるので唖然としてしまった。
パティ・スミスを入口として分不相応なヨーロッパの美学に近づいて行った十代の頃は、自分でもどこかで、こういうものは理解できなくて当たり前だと思っていたのである。自分のオツムにはちと難解過ぎるというだけではなく、シュールリアリストなんてものは、どのみち自分たちとは人種が違って少し変な人たちなんだから、とタカをくくっていたのだ。
ところで、栗田氏の一文(『ナジャ』という難解な作品に挑む前に読む解説的内容)が理解できるようになった原因は実に単純で、人生の経験値が上がったこと、というこの一言に尽きる。たとえば、 “そして、袂れが必ずくる。死がかならずおとずれるように。なぜなら愛は、たしかに、魂の事件ではあるが、と同時に、それが、不完全でもろい肉体によってはじめて成り立つこともまた事実だからである” こういう文章を、十代後半の子どもがわかろうとしても、土台が無理な話なのだ。まず、死が必ず訪れるという事が実感できない(少なくとも私はそうだった)。また、不完全でもろい肉体というのも、言葉としてはわかるけれども、実感としては“不死身の十代”なのである。
こういうガキンチョに“愛は魂の事件”とか言っても虚しいわなぁ…。と、ま、そんなふうであったから、こういうのは典型的なキザなインテリの書く文章くらいにしか思えなかった(はずだ)。
それが、いまや。“遇うは袂れのはじめ”と、骨身に沁みてしらされている日常なのである。また、死が必ず訪れるその前兆として、シミ・シワ・たるみ・白髪に息切れが手に手をとって来訪中、なのである。こういう地味で普通の人生そのものがシュールリアリズム文学の理解に役立つなんて、今日の今日まで思ってもみなかった。
さて、栗田氏の文章が「わかる、わかるぅ〜」と驚愕したチマリスだったが、ブルトンのナジャ、本文はやはり激しく難解だった。これはやはり、ただ漫然と生きているだけでわかるようになる代物ではない。シュールリアリズム侮り難し。ちなみに件の最終行、栗田勇/峰尾雅彦供訳版では、 “美とは痙攣的なものであり、さもなくば存在すまい。” (痙攣的なもの、の部分に傍点)、となっていた。
2005年11月18日(金) |
Tokioの朝、Tokioの夜 |
Tokio Hotelの曲の名前、ドイツで教えてもらったのを唐突に思い出した。 『モンスーンをこえて』、というのだ。 -- 朝9時に五反田のオフィスへ着かなくてはならないということは、紛れも無いトウキョウ通勤ラッシュのまっただ中を揉まれていくということで…、これが当たり前だと思ったら人間おしまいや、オシマイやで〜と、心の中で繰り返し呟きながら瞑目して乗って行く。
夜。留守番を引き受けた会社のK子さん(古い友人)と目黒の豆腐料理店で食事。突き出しから御飯までついたセットメニュー、あまりの量の少なさと、それに比して値段の高いことに唖然とする。
ああー、ダメだー。ダメだ!ダメだ!
あれじゃ前菜にもならないぜ。 改めて肉食べ直すわけにもいかないので、河岸をかえてデザートに大きなケーキを食べることで暴れだしそうになる自分を抑える(半分は、リップサービスですよ!)。 -- どうしたらヴェネチアに住めるのか、まじめに考え中。もう、これっくらい現実離れした、解けない知恵の輪みたいな命題でも玩んでいなければ、やってられないよ。
※チマリスTOPの画像、ヴェネチア第二弾をアップしました。
2005年11月17日(木) |
先物買い〜 Tokio Hotel |
午後、テニスのレッスンに出る。 どちらかといえば得意だったはずのボレーがアチャパーになっていて、いつもはアチャパーのストロークがフォア、バックともに何故か少し良くなっていた。これだから久々のテニスはわからない。というより、私のテニスはわからない、と書くべきか。アチャパーのテニスは、つねに謎に満ち満ちている。 そのあと、夜、五反田。某会社より、明日一日電話番をしてもらえないかとの依頼。ふたつ返事で引き受けて打合せに行く。目黒の小ジャレたデリで夕食。しかし、どうして日本のレストランはこうも出す量が少ないのだろうか。ま、あまりお腹すいてなかったから暴れずにすみましたけれど(←リップサービスですよ!)。グラスワイン、二杯。 --
ドイツから帰る前夜、私の買い物(自分で自分に買ったお土産)について在ミュンヘンの某氏から「ファイテンと、子どものCDと、ホモのポスター、でしょ」と言われてしまった。
ファイテンは、肩凝りに効くという一種の磁気ネックレスみたいなもので、高橋尚子がTVCMをやっているアレ。バリバリの日本製品をなぜわざわざミュンヘンで買うのか自分でもよくわからないのだが、ベビーピンクのスケルトンの首輪を市内のファイテンショップで購入。しかし、効いているのかどうかは、いまひとつハッキリせず。
ホモのポスターというのはヴェネチアの某ギャラリーで購入したもので、あきらかにその手の趣味の画家が描いたと思しき青年像とヴェネチアの風景(同作家による)のエッチングが組み合わせてある。この画家は某ギャラリーが取り扱う中心的作家であり、私はその作風とモチーフがいたく気に入って、毎日のようにその角店のショーウィンドゥに張りついて眺めていたのだが、ついにポスター(一番きわどいモチーフのやつ)と小さな額に入ったエッチングを買ってしまったのだ。 つまり、ミュンヘンの某氏は言い間違えている。正しくは「ホモのポスターと小さな額絵」と言わなければならない。オッホッホ。
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さて。それでは子どものCDとは何であるか。 ヴェネチアへ出かけるまえ、ドイツのTVを観ていたら黒髪を逆立てて目の回りをアイシャドーで真っ黒にした子どもみたいなヴォーカルのいるバンドが出て来て、きけばこれが今ドイツで大人気のバンドなのだという。
最初女の子かと思ったヴォーカルは、実は男の子で、子どもみたいに見えるのではなく実際にティーンエイジャーらしいのだが、何歳なのかまでは知らないと言われた。で、傑作なのはバンド名。その名も、Tokio Hotel(東京ホテル)。ウワァ〜オ!(笑)
こりゃあ面白いや。CD買って帰ろ〜、と即座に決定。ヒット中の曲(ドイツ語故、タイトルさっぱりわからず)もなかなかいいメロディライン、次のアルバムでは声変わっちゃってるかもしれないヴォーカルの、サビで落としにかかる感じもチョアだしね。
しかしこのバンド、ドイツではティーンエイジャーに大人気だというのだが、これ日本に持ってきたら一発大当たりを出すんじゃないだろうか。なにしろ、日本にはジャニーズの伝統がありますからね。ティーンエイジャーからお母さんまでこぞって買うんじゃなかろうか、彼らのCD。私、日本のオフィシャルFC作ってここぞとばかりに仕切ったろか、なんてドイツで冗談言っては、大いに盛り上がったのだった。 帰国後、ネットで調べてみたところ、まだ日本ではほぼ完全に無名。ドイツ在住の方のこちらのサイトに詳しく出ていましたのでリンク。しかしあのヴォーカルとギターの子が16歳の双子だったとは…!。日本へ帰って、初めて知ったこの事実。さっそくドイツの友人にメールで伝えました(笑)
今日も今日とて、有楽町で友人に会う。夜、フロイライン・トモコ嬢と食事。ささやかなお土産を渡す。
-- そもそも、私が今回欧州で「ケダモノ」と呼ばれることになったその原因は、出発数日前にフロイライン嬢と会って食事をしたことに端を発している。
あのときも有楽町で、たしか鶏料理屋で飲んだのだったが、その際何かの拍子にワタクシ(の生活態度)があまりにもアニマルであるという話になって、アニマル→動物→ケモノとなり、もう一歩(一字)進めてケダモノでどうよ?となった。それで、あ、ケダモノ、それいい、ケダモノに決定、あはははは〜、とか、なんかそんな話だったと思う。…あきらかに酔っていたのだな。
それで、ドイツの友だちの家で「あたし、日本じゃケダモノって呼ばれてます」って冗談めかして言ってみたところが、その後、自分でも信じられないくらいの量の肉を食すことになり、実態を伴うかたちとなって半ば定着してしまった。注意一秒、ケガ一生てな感じだが、それでも「虚弱児」とか「人間コンピュータ」とか呼ばれるよりは全然マシだと思う。 -- そういえばあのとき、あの鶏屋で、フロイライン嬢のくちからはもうひとつ、含蓄ある言葉が語られたのだった。その言葉とは、「美味しいものは、あわてず、少しずつお食べなさいね。」というのだ。これ、勿論、食事だけのことを言っているのではない。この人はフェミニンで可愛らしい外貌に似合わず、時々、すんごいど真ん中を突く発言をする。コワイひとなのだ。
本日、フロイライン嬢は、鮪とアボガドの湯葉巻きなどを上品に食し、私はモツ入りなんとか鍋というのをたのんで、なんだこれ、モツ、ちっとも入ってないじゃないかー、とぶぅ垂れた。時々、どうしてこんなに楚々とした女性が私なんかと連れ立って食事につきあってくれたりするのかと不思議な気持ちになる。 -- 在欧中は、TVでブンデスリーガの試合や、フランス×ドイツの親善試合などを観たのだが、そうしていると、イタリアのサッカーが観たくなって困ってしまった。
なかんずくACミラン、ネスタにマルディニね。もしくはプレミアリーグ、マンUのスミスとか。要するに、ガッツンガッツンのサッカーが恋しくなった(笑)。ガァーッと身体を寄せてしっかりディフェンスするか、あるいは本当にガッツリといってしまう(スミス)とか。
それで、帰って来てからは渇きを癒すがごとく録りためてあったセリエ&プレミアの試合を再生してみている。ミラン×ウディネ、マンU×チェルシー、アーセナル×サンダーランド等々。…ううーん、やっぱり。胸が震えちゃうわ!(笑)
それで。帰宅してから日本代表の試合(対アンゴラ戦)を観忘れたことに気がついたのだけれど、まっいいか!ってな感じで、自分でも驚くくらい惜しいとも何とも思わなかった。何故かなんて追求しない。あんまり考えすぎるより好きな試合観てアーヨイヨイになってた方がいいもん。
午前中から有楽町でイ・ズーと待ち合わせ。お土産のスノードームを渡して、一緒にランチ。スノードームのコレクターであるイ・ズーは来年自分のコレクションに関する本を出す予定であるらしい。目出たいことである。食事の後、月丘夢路経営の喫茶店へ連れて行ってもらい、コーヒーを飲む。
日本に帰って来た途端に肉が食べられなくなった。どうした、ケダモノ!(笑)。やはりあの食欲は欧州の気候風土のなせるわざ、だったのか。しかし、あれだけ食べたにもかかわらず、今のところまだ著しい体重の増加はみられない。ただ、痩せて貧弱な身体に張りが戻ってきたような気はする。きっと体質がそうなのだ。肉食体質。要するに、私という動物に必要なのは動物のニク!間違っても菜食主義者にはなれそうもない。
食べる肉の量は減ったが、ワインは飲んでいる。これはこれで注意しなければ(笑)。 --
本日の購入本。 「美術史をつくった女性たち」 神林恒道 仲間裕子/編(勁草書房)
ヴェネチアで、ペギー・グッゲンハイム美術館へ行った。そのグッゲンハイム女史に関する記述を目にして、たまらず購入。
ペギー・グッゲンハイムというのは大金持ちのユダヤ系ドイツ人で、芸術家のパトロンとして現代美術の発展に大きく貢献した女性。ただし彼女自身はまったく創作活動は行わず、そもそも美術に関する知識も当初は持ち合わせなかったという。いま私はこのグッゲンハイム女史に大いに関心があるのだ。 現在ベネチアで彼女のコレクションを公開している美術館は、実際に彼女が30年間住んだ私邸なのだが、これがまた素晴らしくモダンな邸宅で…。しかもこの人は一時期マックス・エルンスト(画家、シュールレアリスト)と結婚していたことがあるという。このことはヴェネチアの美術館を訪れて初めて知ったのだが。いやぁ、知らんかったなぁ。興味津々。
家へ帰ってから、上記の本の中に参考文献としてあげられていた『ペギー・グッゲンハイム自伝 20世紀の芸術と生きる』という本を探して、アマゾンのユーズドで発見。即注文してしまった。
「美術史をつくった女性たち」にはグッゲンハイム女史のほかにも、ガートルード・スタイン、草間弥生などが登場。なかなか面白そうな本だ。
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