Leonna's Anahori Journal
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2004年10月25日(月) スポーティな週末

 
いま、スカパーでマンチェスターユネイテッドとアーセナルの試合をライヴで観ているところ。さっき、ニステルローイがPKを決めてユナイテッド1点先取。0−0の均衡が破れた。

そのニステルローイのよろこびようが、尋常ではない。だいたいいつもアクション大きいひとではあるのだけれど、今日のは特別。野太い声でカモォォォーーーン!と叫んで座り込んでしまった。
相手がアーセナルだからねぇ。よろこびもひときわ大きかったんでしょうねぇ。
 
 
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昨晩は、テニスのマスターズ、マドリード大会の準決勝でアガシがサフィンに破れた試合を観た。もうひとつの準決勝ではナルバンディアンが勝ち上がったので、決勝はサフィンとナルバンディアンということになった。

そういえば昨年末のマスターズカップ、最高だったなあ。今年も熱戦を期待します。できればフェデラー(命!)の二連覇というのをみてみたい。がんばって、ロジャー。(と、さりげなくファーストネームで呼びかけてみる)

さて、それはそれとして、私も今週はテニスのクラスに出た。観るテニスとやるテニスは別もの。とはいえ、バックハンドストローク、もう少しなんとかならないものか。ヘボい、あまりにもヘボいのよ。

フォアへ回り込むなどしてごまかし続けてきたけれど、もう限界。こうなったら特訓して、フォア、バックなんでもござれになってやるワ。でもって、あわよくば上のクラスに上がりたいな、と。来年の目標、ハイ、決定。(さて、笑うのは鬼か私か)
 
 
 
 


2004年10月23日(土) 我々は皆

特殊な状況、というほどではないけれども、通常とは少し違う精神状態で読書していると、今までだったら絶対に読み流していたであろう一行に、深く刺される思いのする事がままある。
先日読み終えた「ルル・オン・ザ・ブリッジ」にもそういう一行があった。忘れないうちにメモしておこう。

キャサリンというイギリス人の映画監督が語る、ドイツの劇作家ヴェーデキント(キャサリンがリメイクしようとしている『ルル』の原作者)の言葉。彼女は自分の映画で主役のルルを演じる女優にこう語る。
 
 
“「我々は皆、さまよえる者たちだ」と彼(ヴェーデキント)は言っているのよ。「それを認めてはじめて、私たちが自分を見いだす可能性が出てくる」って。”
 
 
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私が間違えた、もしくは忘れたのはこのことなのだ。
モットーは「たゆたえども沈まず」だなんて言いながら、いつのまにか、たゆたう余裕も度胸もなくしていた。カタチのあるものや保証を得るのに汲々として、自分本来の姿や、謙虚さ、アソビゴコロというものを忘れてしまった。

でも、掛け違えたボタンの最後のひとつが(わかってはいたのだけど)やっぱり掛け違っていて、どうごまかしても勝手に正しく掛け変わることはないのだと知った途端に気づくのだ。自分がこれまでもたった今も、ずっと変わらず“さまよえる者”だったということに。
 
 
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ヴェーデキントの言葉を私は、「自分がいかに俗っぽくて弱くて心もとない、でも自由な存在であるかを思い出せば、また(よくも悪くも)ありのままの自分に戻って生きなおす事ができるかもしれない」というふうに読んだのだけど、どうだろうかな?

いま、真夜中にこれを書きながら、いや間違いないって、完全にさまよえる者だもん、皆さんのことはよく分らないけれども、アタシは思いっきりさまよっちゃてるもん、と、ひとり深く納得しているのだが。
 
 
 
 


2004年10月22日(金) トリュフォー描く女

 
寝不足が続いているので今日こそはやく寝よう、と、毎日思っているのだけれど。テレビをつけるとトリュフォーの映画なんかやっている。

そうなのだ、NHK-BS2ではトリュフォー監督特集で「大人はわかってくれない」「終電車」「ピアニストを撃て」などを連日オンエア中。これまでは横目でチラと一瞥するだけだった私も、本日の出し物「突然炎のごとく」がかかっているのを認めるに至って、ついにTVの前から動くことができなくなってしまった。

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しかし凄い話、そして、凄い女だよね、あのジャンヌ・モロー演じるカトリーヌというのは。あれはもう、モンスターだよ。この映画、観るたび毎回、倫理観が揺らいで変な気分になるんだけど、今回はハッキリと「あのひと病気だったんだ。じゃなきゃあんなことあり得ないよ」と思った。

というより、現実にひきつけて考えすぎるからいけないんだなと気がついたのだ。あれはあくまで“映画”であって、映画という限られた世界、限られた表現方法のなかの女だから、彼女もなんらかの意義を認められて生き長らえてきたわけで。あのカトリーヌというのはトリュフォーの考える女のモンスター性のエッセンスを集めて、ぎゅっと固めたものなのだ。

私はオスカー・ウェルナーという役者が結構好きで、観るたび毎回、やつれ果てたジュールの姿に胸が詰まるのだけれど、しかし冷静に考えたら、彼もまたビョーキとしか言いようがないなあ。

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それにしても。この映画の日本語タイトルを『突然炎のごとく』としたのは、つくづく名案だと思う。原題は『ジュールとジム』とそっけないが、これでは日本人には分りにくい。『突然炎のごとく』とは、カトリーヌのモンスター性を見事に表した素晴らしいタイトルだと、今さらながらそう思った。



2004年10月20日(水) 思索の小部屋

会社で。

無意識にウオッシュレットの操作パネルを眺めていて、「おしり洗浄」というボタンのすぐ横に「マッサージ 入/切」というボタンがあることに気がついた。

マッサージとはおそらく、吹き上がる温水によるものなのだろう。しかし、「マッサージ」とは…。このシステムを考えたひとは、よほどお尻のことで悩んでいたのだろう。そしてその悩みから解放されるために必要な機能のすべてをこの一台に詰め込もうとしたのに違いない。

私はマッサージってどんなんだろうと興味をひかれながらも、ついにそのボタンは押さず、かわりに温熱便座の温度調節つまみを〈高〉の方向へグイッとひねるのみだった。
今年も便座の冷たさが身にしみる季節がやってきたのだ。
 
 


2004年10月15日(金) して、用途は?


矢野顕子のチケット、なんと今年もプレオーダーで当選。

でもスティングの方は外れちゃったんだ。ショボン。(欲張るなよぅ)

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矢野顕子、今回のゲストは「くるり」だそうで。
となると同行者は自動的にクルミ嬢に決定。

でもなぁ、去年と同じ時期に去年と同じ場所で矢野顕子聴いたら、
チマリス、心が破裂してしまうかもしれないなぁ…

だって、普通のときに普通に聴いてもスゴイもんな、矢野顕子は。
クルミ嬢に一応ビニール袋持参でくるように言っといた方がいいかもわからん。

(えっ?ビニール袋? えっ?えっ?)
 
 
 


2004年10月14日(木) 妄想フリーウェイ

  
仕事であちこち役所をまわって、最後に訪ねたのが東京都庁。
以前、クルミ嬢に「帝都が危機に陥ると都庁舎がロボと化し、空を飛んで悪者を倒しに来るんです」と教えられた、あの、都庁だ。

そのロボ説を、第一庁舎一階フロアを横切り、第二庁舎へ向かう途中でふと思い出した私。クジラのお腹の中のピノッキオよろしく内部からロボの秘密に迫ってやるぞと思ったけれど、それらしい箇所は全然見つけられなかった。

(しかしまた、そうだと思ってみればすべてがロボの一部、なのである)
 
 
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日本代表、アウェーでオマーンに勝ちました。
監督の通訳は退場になりましたが、勝てました。通訳は退場したけど、選手は退場なしでした。

で、あの鈴木隆行のヘディングね。きっと少なくはないタイ人女性の愛と情熱が呼び込んだゴールだと私は思うの。ああ美しい、サッカーがつなぐアジアの人と心。
 
 
 


2004年10月13日(水) ごまかす女

 
光浦靖子って、成長して大人になった「ちびまる子ちゃん」みたいだ。
 
 
(昨晩は、ひとりでいたくないとかびしょびしょとか言いながら、TVみてちょっと笑っちゃったりしてました)
 
 
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今朝。

二度寝して、起きたら九時。あらら〜ぁ、だめじゃん!

でも今日は役所まわって午後一出社だったから
「いやーマイリマシター、役所混んでてー」とか何とか言ってごまかした。

すべからく大人はこうでなくちゃね。(よゐこは真似しないでください)
 
 
 
 


2004年10月12日(火) びしょびしょ

 
びしょびしょと、よく降る雨だ。夜になってもかまわず、というより、いよいよびしょびしょと降り続いている。

弱ったなあ、と思う。確かに寝不足気味だし疲れてもいるけれど、今晩はまた、ずいぶんと弱気じゃあないか。
 
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こういう日はひとりでいたくない。
こういう日はひとりでいたくない。
ひとりでいたくない。
いたくない。
ひとりはイヤだ。
 
 
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私は一体何処へ行くのだろう。(そりゃきっと横浜だろ)
私は一体どうなってしまうのだろう。(仕事して生きていくんだろうよ)
 
 
早く寝ればいいものを。バカだなあバカだなあ、無用の夜更かしで元気をすり減らしている。
 
 
 



2004年09月24日(金) マキハラの歌

美容院で髪を切ってもらっているとき、スピーカ(おそらく有線)から槇原敬之の歌が聞こえてきた。多分、新曲。この頃FMでよくかかっている曲だ。

カムバックしてからの彼の曲を、私はどれもイイナーと思いながら聞き流している。この「聞き流す」というのは、自然に耳に入ってきて、フンフンいいじゃん的好意を感じつつ仕事などしているうちに、自然に曲が終わって、自然に一旦はその曲のことを忘れるという、そういう事をさしているのだが。

不祥事を起こした芸能人が復帰するときに、一種の決まり文句として「業界の甘さ」とかって必ず言う人がいるけれど。今日、美容院でマキハラの歌声を聞きながら、私は「ああ、またマキハラの歌が聴けてうれしいなぁ」と単純に、そしてしみじみと、そう思ったのだった。

(しかし、そんなに好きな歌手だったっけマキハラと、はじめて自分の傾倒ぶりに気付いて、少々驚いた)
 
 
 
 


2004年09月10日(金) 村田喜代子アワー(3)


検索エンジンから“深沢エリサ”のキーワードで来られた方→ こちらです。

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そうこうしているうちに、もう着いた、bk1からの第一便。
「戦後短編小説再発見18 愛と幻想の世界」(講談社文芸文庫)と「木炭日和」(文春文庫)の二冊が。で、両方とも短い文章だからもう読んじゃった。結論から言うと、やっぱりホンモノだ、村田喜代子。

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かつて、大江健三郎の師、東大仏文の先生である渡辺一夫は、脳に障害を持った息子が生まれて、半ば自暴自棄、ネガティヴな生活態度に逃げ込んだ大江氏にこう言ったという。

「作家とはしごく正常(健康)な日常を送りながら、異常(特異)なことを考えるのが仕事。然るにいまのきみは、不健康な日常をおくりながら、健康な生活に焦がれている。全く逆ではないか」、と。(以上、私個人の記憶を頼りに大意を記す)

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良いこと言うでしょう、渡辺一夫先生。この言葉、作家ではない私の心と生活態度にも深くしみ込むものだった。
で、ね。村田喜代子という作家はとても正常な生活者で、その健全さが彼女の作品を、文学としてより高いところへ押し上げているという気がした。
だからこそ読み手は安心して、その特異な状況に寄り添える、とでもいうのかな。

文学少女は歳をとらない、八十歳になっても“少女”なのだけれど、村田喜代子は、文章を書く女“村田喜代子”として生まれてから死ぬまで年齢不詳のまま、という印象を強く受けました。

さあ、ゆっくり読むぞ(あわてて買って、ゆっくり読むのが私の流儀)。
 
 


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