Leonna's Anahori Journal
DiaryINDEX|past|will
2003年09月16日(火) |
アルゼンチン〜ドミンゲスとばなな |
来月、ファンホ・ドミンゲスというギタリストのコンサートに行きます。 アルゼンチンギターの第一人者だそうです。
--
十日くらい前にNHKのハイビジョン放送でアルゼンチンタンゴ(ダンスと音楽)を現地に取材した番組をやっていた。お金と時間をかけて作ったとてもきれいで贅沢な番組だった。
その中にヒゲをはやした恰幅のいいギタリストのおじさんが出てきて、その人の名前が、ファンホ・ドミンゲス。なんでも6歳でギターを初めて9歳でプロになったとかなんとか、とにかくスゴイ(よくわかんない)経歴の持ち主で、耳に沁み入るような美しいギターを奏でてみせてくれた。
そのときはメモもとらず、おじさんの名前はじきに忘れてしまったのだけれど、数日前アウトルックの受信メールの整理をしていたら、なぜかイープラス(チケット屋さん)からの古いメールが残っていて、“ファンホ・ドミンゲス来日”というタイトルが目に入った。
あっ、あのおじさんだ。名前と一緒にギターの音色がよみがえり、これも何かの縁と、生で聴きに行ってみることにした。(幸いまだ、後ろの方の席が残っていた。)
--
そんなことのあったこの数日。 吉本ばななの『不倫と南米』という本を買ってきて読んだ。別に南米やアルゼンチンにこだわるつもりはなかったのだけれど、なんとなく。
そうしたら。どうしてだか読みやすくなっていたな、ばなな。 私が変わったのか彼女が変わったのかどっちだかわからないけれど。
もしかしたら私はいままで、彼女が書いていることの表面しか読んでいなかったのかもしれない。とにかく死というものを思う(考える)のが自然で当たり前のことという雰囲気が全体に濃厚に漂っていて、私にとっては非常に親しみやすい世界だった。
--
それと。あとがきに亡くなった安原顕のことが書いてあって。
そこには、この本を作ったおかげで近年仲たがいしていた安原さんと久しぶりに和解し、楽しいひとときを過ごすことが出来た。それが彼との最後の思い出になったと書かれていた。
昔、安原顕がやっていた『海燕』という文芸誌で賞をとってデビューした吉本ばななは、安原顕編集のマリクレールに『TSUGUMI』を連載して、それを読んだのが私が吉本ばななを知った最初だった。吉本隆明の娘だということは知らなかった。『TSUGUMI』は、まんま大島弓子だと思った。
あの『TSUGUMI』を読んで、あたしは漫画の方をとるわ!と思った私がいま『不倫と南米』を読んで、なんとなく近しいものを感じているというのが、面白い。仲たがいでも仲直りでも、嗜好の変化でも、予定調和じゃないものって、何によらず面白いよね。
妹とふたりで、母の墓参り。
お墓をそうじしてお線香をあげたあと、雑木林のそばの東屋でおむすびを食べる。ものすごく暑かったけれど、東屋に入ると意外なくらい涼しい。鬱蒼とした木々が炎天をさえぎり、天然の涼風が吹き抜ける。
いやー極楽極楽、墓場で極楽、と食休みしていたら、蚊に嗅ぎつけられたらしく、あっという間に腕を三箇所くらい刺されてしまった。あわてて退散。 --
このまえ石川直樹の日記を読んだときから、ずっと考えていたこと。
彼はパレスティナでみたこと経験したことを自分のサイト(日記)に綴っていて“胸くそが悪くなった”と書いている。この言葉は言い得て妙だと思う。私は膝を打った。そうなのだ。まさに“胸くそ”の問題なのだ。 もちろん正義や人道上の問題ではあるのだが、それよりなによりまず“こんなことがガマンできるかい。無茶苦茶胸くそ悪い!”という、個人の強烈な感情(思い)がある。これが一番のきっかけ。
この胸くそを放っておいたのではキモチが悪くてかなわないので、なんとかしよう(自分なりに表現してみよう)と行動をおこす。たとえば国際法だのメディア規制だの不慣れな言葉をつかって書いてみる(説明してみる)が、なにか自分でもしっくりこない。
しっくりこないばかりか、気がつくとなにやら政治的な背景(しかも紋切り型)を背負ってありがちな人物パターンを演じている自分がおり、第三者からはしっかりと右や左にカテゴライズされていたりするわけだ。ああ、そんなつもりじゃあなかったのに。アナコンダ!
しかし。どのみちこの手の怒り、この手の胸くその悪さが勝手におさまったり良くなったりするわけもないので、これからもこの行き場のない、腐ったヘドロのような嫌な気分は腹の底に居座り続けるのだろう。
ということは、これからは気を付けなくてはいけないということだ。ありがちな言葉(例えば政治用語)のかげに自分の本当の感情、コンチキショウという胸くその悪さが隠れてしまうような書き方は極力避けなければいけない。
(常に新鮮な怒りや問いであるような、そんな書き方が出来なければ、書いても意味なんかないんだよ、きっと)
-- しかし、面白い。
いいかげん歳をとって、中年と呼んでもさしつかえのない時期にさしかかったら、急に他人がどう思おうがアタシがよけりゃあいいの、と思えるようになった。それだからか、いまの自分は十九、二十歳の頃よりよっぽど無邪気で正直だと感じる。
それと同時に、いくら興味を持っても理解できなかった戦争や紛争や国際問題も、突如、リアリティをもって目の前に立ちはだかってきた。なんだか凄くシリアスでハードな感触。勿論、無邪気な楽しさとは相容れない。しかしこれに関しては“一般常識問題”ではなくて、自分の生き方に関わる問題なのだというハッキリとした認識がある。
“大人になれば”、我が身の上にこういうアンビバレンツが起こることもあるのだと、ついこの前まで知らずにいた。そしで、知らなかったことがおこるのは、それがどんなにシンドイことであっても、やっぱりちょっと新鮮だななどと言って面白がっている。 -- ところで。“大人になれば”というのは小沢健二の曲のタイトルだ。アルバム『球体の奏でる音楽』の収録曲。
いままでわからなかったもの(こと)が何故かわかるようになったとき、アレ?これって大人になったってこと?と思う、とか、そんな内容の歌。 彼の歌によれば、大人になるとそれまで以上に感受性がとぎすまされて、世界中の美しいものがたくさん見えるようになる、らしいです。よ。
ルート・ファン・ニステルローーーーイ!
対チャールトン戦でコレデモカァ〜の2とくて〜ん!!
最高、最高。もー、カッコ良すぎー --
なんとなく欧州サッカーのシーズン開幕に乗り遅れた感のあるチマリスでしたが。そして、いまいち今季のセリエAに乗り切れずいたのですが…
今季はプレミアに賭けました。ニステルローイの一点買いです。 この秋冬はイギリスのサッカーとヨーロッパのジャズから元気を貰おうと思っております。フットボール万歳。
--
教えていただいたサイトで試聴したヨーロッパのジャズ。まるで夢をみてるみたいなんですよ。
それでね。夢って普通はなんだか薄ぼんやりしているでしょう。物事の輪郭が。ヨーロピアンジャズの世界は逆にはっきりくっきりしている感じなんだな。で、そのくっきりした感じが現実離れして美しいの。だから夢をみているみたいに感じる。
それから、子供のころのものの感じ方が瞬時よみがえってくるような感覚も。もともと音楽というのは記憶を刺激するものではありますが。(要するに、ドップリとはまりそうな予感)
2003年09月12日(金) |
THELONIOUS MONK QUARTET "MISTERIOSO" |
さっそくジャズのCDを買ってきた。
セロニアス・モンクの『ミステリオーソ』というアルバム。試聴はしないで(CDって試聴できるの?できないよね)パッとお金を払ってからすぐにオープンカフェに入り、バリバリと包装を解いて中の解説書を読む。
依怙地なジャズミュージシャン同士の意地の張り合いのエピソードなどを感心しながら読むが、もちろん解説書から音が出てくるわけではない。なんというか、買ってすぐに開けたくなるのは私の性分。この場合は賭けみたいにして知らないCDを買ったので、帰って音を聴くまえの緊張緩和策みたいな意味もあった。
--
『ミステリオーソ』は1958年の録音だけれど、古いという感じは全然しない。そもそも新しいジャズについて知らないのだから、古い新しいという切り口で語ること自体が出来ないのだが。悪い意味での“古ぼけた音楽”という印象はない。それよりも、楽しいのだ。
どんなふうに楽しいかというと、“スィングしなけりゃ意味がない”なんて名曲のタイトルが浮かんでくるような、そんな楽しさ。 これはモンクのスタイルがスィングジャズであるとかないとかそういうことではなくて、ふと気がつくと軽く頭を振ってリズムをとっていたり、尖らせた唇が時たま、トゥルトゥトゥル、などと音にあわせて呟いていたり、そういう自然に身体が反応するような楽しさがあるということ。
とにかく私にとっては、どこか懐かしくて新鮮な音楽だった、モンクの『ミステリオーソ』は。
--
ところで、私が今日入ったオープンカフェ。 ららぽーと1階にある PRET A MANGER(プレタ・マンジェ)というところなのだが。ここがいつも気分のいいジャズを流している。
広めの店内、高い天井と抑えた照明、座りやすくて疲れない椅子。ここのテラスから少し入った席、外光がぎりぎり届くあたりに座るのが好きだ。本を読んでもいいし、ただジャズを聴いていてもいい。
ロンドンに一号店のある、サンドイッチをメインにしたカフェのようだが、今日食べたキッシュ風のパン(カレー風味のチキンと豆)はなかなか美味しかった。セルフサービスで、普段は紙やプラスチックのコップで飲み物を飲むのは嫌なのだが、ここではそれもあまり気にせずに、紅茶(旨いです)を飲みながらのんびりすることにしている。
べつに宣伝費もらっているわけではないけれど(笑)、特にBGMが気になるひとには、おすすめのカフェ。
会社で昼休みに。
普段私とはあまり関係ない部署の課長(推定年齢52歳)が私の顔をみるなりこう言った。
「サッカー、まるで駄目だったなあ!あれじゃ駄目だろう、なあ!」
以前から聞かされていた情報では、この課長は野球派であって、どうもサッカー派に対してはあまり理解がない、らしい。マイッタナーと思いながらも「ハイ、セネガル強かったです、まるでサッカーさせてもらえませんでした」と答えると、
「お話になんないだろアレじゃあ、え? ヘタっくそだなぁ!」
なんか、半分叱られてるみたいな雰囲気に。 んも、マイッタなー。なんでアタシに?アタシが試合に出たわけでもないのに。そういうことは監督に言ってよー、監督にー。
(しかしどうしてあの課長、私がサッカーみてること知っているんだろう) -- 数日前ゲッツ君から、小沢健二の『強い気持ち・強い愛』っていつ頃リリースされた曲だか知っていますか、と訊かれた。
『強い気持ち・強い愛』ならシングルCDを持っている。カップリングの『それはちょっと』も含めて、私のお気に入りのdiskだ(オザケンの中では一番好きかも)。それで、このシングルともう1枚『指さえも/ダイスを転がせ』というシングルを貸してあげることになった。
(『強い気持ち・強い愛』は1995年、『指さえも/ダイスを転がせ』は97年の発売だった)
--
そういえば。 夏も終わり朝夕涼しい風が立つようになると、なぜか毎年必ず聴きたくなるのが小沢健二のアルバム『球体の奏でる音楽』。古いジャズのスタイルを上手に取り入れて作った、いかにもオザケンらしいウィットと温かみを感じさせるアルバムだ。
秋になると、小沢健二を思い出す。半袖のTシャツ1枚という毎日から長袖を着るようになると、なぜだかオザケンを思い出す。私の中では特に、カーデガンといえばオザケン、というイメージが強いのだが。…そんなふうに思うのは私だけ? 今年の秋は少し本格的にジャズを聴こうかなと思う。表面は洗練されて都会的だけれど、コアにドロッと熱いものの入っている音楽。大きな音で聴いて楽しい音楽。 ジャズには不案内な分、新鮮な期待感とドキドキがあって気分的にはかなり若返る。まるでこないだ高校卒業したばかり、みたいな気分だワ。(シャーワセ!)
このままだと2006年ドイツ大会はあきらめたほうがいい。
--
身長も身体能力も高いチームに、ほとんど何もしないうちから高さ一発で、先制点を取られる。
いつもなら通るはずのパスが(長い足、高い頭に)ことごとくカットされてしまう。
ボールを持てばシュートを打つ前にカットされる。抜け出して独走のつもりがすぐに追いつかれる。タッチを割り日本ボールになるはずが、追いつかれて逆にクロスをあげられてしまう…etc.etc
--
セネガルはこのまえのW杯でいきなりフランスを破ったチーム。それで、まぐれでも何でもなく、ベスト8に残ったチームだ。強いことくらい知っていただろう。
なのに(そんなこと誰もが知っている事実なのに)、どうして監督は特別な“セネガル対策”を講じなかったのだろうか。後半の後半、選手たちのモチベーションがどうなったか、彼らの顔をみたひとには容易に想像がついただろう。
--
協会は、とにかく監督変えてくれ。
(ついでに日テレは、サッカー中継に鈴木健アナつかわんといてくれ)
夜。 TVでジェフ市原×鹿島アントラーズの試合をみる。
単純な私は、市原の阿部がFKを蹴るたびにやってくれるんじゃないか、また決めちゃうんじゃないかとドキドキしてしまう。
そうなのだ、いまや阿部勇樹は私のアイドルなのだ。パスを出しても、クロスをあげても自分で打っていっても、もちろんFKでも、何をやっても若手の平均点を超えている。特にFKは、狙いもいいけど飛びが鋭い。しかも。そのうえ顔が宇崎竜童。あの怪しげな雰囲気を醸し出すヒゲまで含めて、申し分なし。
--
ところがこの試合、目の醒めるような阿部のFK(一点目)は、味方を鼓舞する一方で敵方の闘争心にまで火を点けてしまったようなのだ。
なかでも特に負けず嫌い、目立ちたがり屋さんの平瀬君(アントラーズFW)はメラメラっときたようだ。そうでなくても長谷川、ヤナギのいなくなった今こそオレの出番、オレのディケイド!と熱く燃えている平瀬君なのだ。で、わずか3分後に同点弾、バーン。
その後チェ・ヨンスがPKを決めふたたび2−1、連勝するかに見えた市原だったが、高い集中力で地力をしぼり出す鹿島に、結局最後は2−3で負けてしまった…
--
良いプレイ、強いチームというのは相手を叩きのめすばかりではなく、時として相手の良さや強さまで、引き出してしまうことがある。 こういう試合は観ているこちらとしては最高に面白いのだが、しかしチーム関係者(特に監督)にとってはそれどころではないだろう。
試合後の取材に対して市原のオシム監督は「ジェフは上位に来ると、心理的に耐えられないようだ。そのために、何かをしなくてはならない。監督、フロントを含めて。」と語ったそうだ(おそらく例の涙目で)。
--
まるで柳に飛びつく蛙のような市原が、オシム監督のもと、どこまで強くなれるのか。なかなか興味深いことではある。(がんばれ阿部っち)
しかしそれ以上に私が興味深かった(おおっ…!と思った)のは鹿島の三点目だ。つまり。またしても出た、モモコの不思議なアタマ!
マルディニといい、秋田モモコといい、兄貴系DFのアタマにはなにかヒミツが隠されているような気がしてならない。しかも、その秘密に当事者はまるで気がついていないのではないか…
決勝点を決めて、年甲斐もなくオレがオレが状態になっている秋田モモコの後頭部のあたりを、目を細め、さぐるような目つきでいつまでも見つめ続けるチマリスだった。
(ほんとサッカーの見方、楽しみ方は人それぞれ)
きのうの続き。
パレスティナ問題に関しては、動くはずの国際社会がちっとも動かない(もしくは機能しない)。なぜか。
--
理由は、イスラエル建国に際してたくさんお金を出したのが米国の政界、財界、メディア業界を牛耳っているユダヤ系の大金持ちだから。よって米国は“内政上の理由”から徹底的にイスラエルの肩を持つ。武器、兵器、軍事費をふんだんに供与する。 ※参考リンク
エドワード・サイード『戦争とプロパガンダ』によれば“1967年の第三次中東戦争以降、920億ドルにも達する援助がなんの疑いもなく米国の納税者からユダヤ人国家へと行われてきた”。
援助の一例として、ノーム・チョムスキー『メディア・コントロール』にはこういうことが書かれている。
2000年10月、占領下のパレスティナ人たちの一斉蜂起が始まった直後からイスラエルによるミサイル攻撃が始まった。蜂起といったってパレスティナ人民には軍隊はおろかまともな武器さえないのだ(だから彼らは石を投げる)。そういう非武装地帯へのミサイル攻撃。
このときこの残虐行為に対してクリントン大統領がとった対応は“更に追加の軍用ヘリをイスラエルに送る”というものだった。(しかもご丁寧に、前月に送ったヘリのスペア部品まで一緒に送ったという)
パレスティナ問題については比較的穏やかだったといわれるクリントンでさえもがこうなのだ。なぜ、こんなことがまかりとおるのか。そしてなぜこういった暴虐行為がきちんと報道されないのか。この件に関しては、先の文章に出てくる“お金持ち”の職業に注目してみてほしい。
「(メディアは)報道できなかったのではない。報道するのを拒んだのだ」とチョムスキーは書いている。メディアは完全に事情を知っていながら、このことを全く報道しないという形で政府に協力したのだ、と。
--
しかし、こういう残虐行為に対して国際社会だって決して黙っていたわけではない。さらに『メディア・コントロール』に書かれている、おおきな隠し事について書いておく。
前述のミサイル攻撃からおよそ二ヶ月後の12月14日、米国は暴力削減をチェックする国際監視団の派遣を求める安保理決議に拒否権を行使した。決議案はただちに国連総会に持ち込まれたが、そこで米国とイスラエルの反対にあい、結局は消滅してしまった。
安保理が取り上げたのはジュネーブ条約違反の問題で、ジュネーブ条約というのは第二次大戦後、ナチスの残虐行為を犯罪行為とする合意をとりつけるために締結されたもの。このジュネーブ第四条約に従えば、米国とイスラエルがパレスティナ(占領地域)で行っていることはほぼすべてが、完全に禁止されている行為なのだ。(占領地への入植も同じ)
その決議の採択に関して、占領地への入植に資金を提供するなど全面的に支援している米国が棄権するというのは、実質的には国際法や国連決議を無効にしているのと同じことになってしまう。
さらに一年後の2001年12月5日、欧州連合の全加盟国を含む会議で、イスラエルが占領している地域へのジュネーブ条約の適用と入植の違法性が再確認された。(当たり前です) 決議はイスラエルに国際法を守るように要求した。が、米国(イスラエルと並ぶ当事国)はこの会議をボイコット。またしても会議は、実質的には無効にされてしまった。
…とにかく、都合の悪いことは「おら知らね」なのだ。京都議定書(環境会議)くらいで驚いていてはイケナイ。しかもチョムスキーによれば、これらの棄権やボイコットに関して米国内ではまったく報道されていないという。
こういう犯罪的な隠し事がなされているうえさらに、イスラエルでも米国でも莫大な費用を投じたプロパガンダ(政治的宣伝)が行われている。 その結果、イスラエルこそがパレスティナ人の暴力とテロによる無実の犠牲者であり、アラブ人とムスリムはただユダヤ人に対する不合理な憎しみの為だけにイスラエルと衝突しているのだ、ということにされてしまう。 (現実にはパレスティナは“殲滅される寸前”だというのに)
--
ここから先は、蛇足。
米国だけではなく、こと中東問題に関しては日本も似たり寄ったりだと私は感じている。特にイラク攻撃以降ははっきりとそう思っている。だいたい一々本当のことを包み隠さず報じていたのでは、とてもではないが“黙って米国について行く”などという政権が維持できるはずがない。
こういう種類の隠し事が、そうとははっきりわからぬ形で、日本という国(とそこに住む国民の心)を歪めているのは間違いないのではないだろうか。世の中が悪くなる、奇怪な事件が増えることの遠因はこういうところにあるんじゃないかと、そう私は思っているのだが。
ひとの生き死に、巡り巡って地球の将来に関わることについては目隠しをされながら、美味しいものやきれいな洋服に囲まれて、それが幸せだと思いこまされながら生きることの矛盾が、もうすでにアチコチで奇怪な形で噴出し初めているのではないだろうか?
だとすれば戦争とはまた別の意味で、とてもとても不幸なコトデス。
2003年09月04日(木) |
パレスティナの石川直樹 |
6月12日のジャーナルで石川直樹という若き冒険家(すごい読書家でもある)について書いたのだが、覚えているだろうか?
きょう届いた友達からのメールに彼の名前があって、「最近の石川氏のウェブ日記はすごかったね」と書かれていた。
実は私、ここ一ヶ月ほど彼のサイトをチェックしていなかったのだけれど、友人のメールから発するただならぬ気配に、即飛んで読んでみた。…たしかに凄かった。(石川日記の8月16日以降を是非読んでみていただきたい)
--
エー、なんと申しますか… 凄かったとかなんとかいうよりさ、アブナイって!
あんまり無理するなーイシカワー!戦車になんか向かって行ったらアカンて。
あんた、運が悪けりゃ砲弾にやられてるとこじゃん…(ベソかきながら)
--
ことパレスティナに関しては、動くはずの国際社会がちっとも動かない、もしくは、機能しない。(その理由は意外にシンプルなのだが、今日はもう遅いので明日書く)
そんな背景もあり、フリーのライターなど、取材等を通じてパレスティナ人とじかに接触した人たちは、現地で必ず同じ言葉を託されて持ち帰ってくる。即ち、
「帰ったらこの事実を、出来るだけ多くの人たちに伝えてほしい」
…という言葉を。
(6月のジャーナルを改めて見たら、石川直樹の話とパレスティナ映画の話が抱き合わせになっていた。なんか最近こういう偶然が多い)
日が短くなりました。
--
会社で。
おとといライヴ2本かけもちで、夜10時半をまわってwire03会場へ到着したというゲッツ君。私が「眠くて寝ちゃったわ」と言うと「全然寝なかったっす。平気だったっす」。
なんかくやしいじゃないの、若さを誇示されてるみたいで。それで負けじと言ってやったんだ。「あたしなんか朝の三時にプルコギ食べちゃった。」 (ぜんっぜん自慢になってない)
-- セリエ開幕。
で、一番驚いたことといえば、そりゃあなたなんたってピッポの“スポーツ刈り”、コレですよ!
森島、秋田、ピッポ、うちのトウチャン。アタマだけみたら区別つかない。 今季の欧州サッカーも、いきなり、あたまネタから。 まずはチマリス、滑り出し好調とみた(あっはっはー)
|