時間が来て宴は酣(たけなわ)で終了。お決まり通り。
会社に貢献しました
組織で人を育てました
売り上げを上げました
将来、有望な分野を開拓しました
コツコツと真面目に一生懸命働きました
とお決まり通り
馬鹿にも無下にもしない、そういう次元ではない
同じ次元ではない、ただ、時間の単位がずれている、というだけだ
仕事を通して、何十人、何百人もの人が集まってくれた
だから?
それは目の前だけの現実である
私は私の死後、時間の瞬間はずれていても、これを読み、心を寄せてくれる人がいて欲しい、と願っている
詩を通して、何十人、何百人もの人があつまってくれた
だから、
それが望むだけの現実である
体が微細に振動して、冷えていくような感覚が、この時間の単位のズレの感じである
ぷる、ぷるるる、るるる
と微かに震えるのだ
アルコール中毒で小刻みに揺れているように想われるのではないだろうか
別の意味で酩酊(めいてい)していると言えなくもないのだが
送別会の宴、高級な食事を喰らい、ゲロを吐く人々がいる。
喰らって舌が美味しくなったら、直ぐにゲロを吐くのだ。
過去の経験を想い出して、吐きだして良い思いを思いを、直ぐにゲロするのだ。
喰らってはゲロ
喰らってはゲロ
己の欠点への反省などなく、ただひたすらに
気恥ずかしさを誤魔化すように酒を急いで飲む
後で「言わなきゃよかった」、「疲(憑か)れていたから」等とゲロの匂いに咽(むせ)ぶだけ。
喰らってはゲロ、は止めはしない。
けれど、ゲロにもよさがある。
臭いにおいへの嫌悪感で凡人は嫌々ながら、行動するのだ。
上辺だけの綺麗なことば、おべんちゃら、迷惑を掛けないように、世間が怖くて美辞麗句だけ言う凡人に、創業は成し遂げられない。
孔子はゲロを嫌悪しながらも、ゲロに己のゲロを掛けた。
清流だけの世界等無いと覚悟を決めて、それでもゲロを純化するために己のゲロを掛け合わせたのだ。
宰予昼寝の名言は、純化せるためのゲロ掛けそのものである。
私は、この目の前のゲロを吐くだけの空気の読めない人に、何と声を掛けようか、何と答えようか
宰予のように名言を言うことは出来ないでいる
孔子よ、あなたのように声掛けをすることが出来ないでいる
不可能な清流だけの世界を追い求めることと同時に、目の前の人間に茫然としている
孔子よ、私はあなたを目指すべきなのだろうか
あなたは、当、と言わないであろうか
時間が来て宴は酣(たけなわ)で終了。お決まり通り。
お決まり通りで死ぬ人間の運命はどこかに消えていた宴であった
若い時分から、自分の中にある精神要素を殺さないようにしてきた。
エロも、グロも、狂気も、光悦も。
それで社会の境界線を踏んだことも、当たり前のようにあった。
世界の七割が信仰する『聖書』の神は人格神である。
理性神などではない。
フェティシズムは物体に人工を見ることで生まれる。
グロい絵の殆どは人体の加工したことで生まれる。
どちらも、人工の付与でしかない。
言い換えるなら、どこまでも人工化されたものに、人間の中にある精神要素を付け加えたものでしかない。
全く人工を付与しない存在者に対して、自然物に対して、私達は何かしらの精神要素を付け加えることが出来るのだろうか。
もし、出来たとするのなら、そこに初めて、個性、と呼べるものが出てくるのであろう、と。
太陽の光に対して、エロさを感じ取って光悦にいたる、などの。
あくまでも、そこに人工化されてない状態で、である。
太陽の光を、何かの人の言葉や概念や、過去の経験を投影して人工化せずに。
そうしたことが可能なのかどうか。
けれども、そのくらいしか、私達は他者との比較でしか生まれない「個別性」ではなく、独創である「個性」を持つのではないだろうか。
エジソンは「個別性」である。
それは独創である「個性」が社会一般に理解されないから、エジソンを個性と呼ぶに過ぎない。
耳触りのいい、小学校で落ちこぼれていた、などの説話と共に。
「こうして朝が迎えられるのは、太陽があるからです。太陽によって朝が迎えられ、働くことができ、光合成によって食べることができます。重力によって歩くことも出来ます。だから、有り難う御座います。」
この「だから」というのは欺瞞(ぎまん)である。
物質世界と個人の精神世界の因果関係を見るのは欺瞞である。
「こうして私が生きられるのは、多くの人が支えてくれるからである。警察が治安を、政治が税と国防を、町内会が地元の結びつきを、親兄弟両親が私を支えてくれる。だから、有り難う御座います。」
この「だから」というのは欺瞞である。
社会関係と個人の精神世界の因果関係を見るのは、ヒュームの因果律批判を出すまでもなく欺瞞そのものである。
太陽を含めた世界そのものの奥底に人格神を阿弥陀仏を観るのは、この欺瞞を押し広げたものに過ぎない。
仏教は唯心論である。
私の精神世界と世界とを一体と観る。
特にその因果関係を私の精神世界を出発とする。
としながら、他者の死がこの世界と結びついていないことを認めようとしない。
この奥底にあるのは、私の精神世界の絶対視であり、因果関係を一律とする観方である。
この2点に欺瞞がある。
物質世界も同様である。
自然科学の法則は確率論的に存在的原理を知りうるしか、人間には出来ない。
現在、暗黒物質や重力波などの学問的欠陥が指摘されているが、それが観測可能になったとしても、存在的原理という自然科学の法則が、この世界の原理そのものであることを人間は認識しえない。
そこには仏教と同じく、絶対視と因果関係を一律とする観点がある。
この2点に欺瞞がある。
私達の精神世界のあり方を考える時に、こうした欺瞞に立たなければならないのだろうか。
そうした方が精神の安定が得られる、などという功利的な放言で、さらに誤魔化すことしかないのだろうか。
功利的な放言は、道徳的感謝へ道を遮るというさらなる誤魔化しが含まれているというのに。