この家に越したとて
あと30回、杜若を愛でられれば、というだけの
木漏れ日の陰にゆらゆらと揺蕩う緑紫
ゆらゆらと日向、日陰を行きつ戻りつ
若年からチアノーゼ、に至るだけの
瞼を閉じて残像が残るかのように 私の存在が残るのならば
杜若が死者の返りを示す彼岸花になりえるだろうに
付記:杜若(かきつばた)、「揺蕩(たゆた)う」、「日向(ひなた)」、「日陰(ひかげ)」、チアノーゼは人が紫になる、「瞼(まぶた)」 杜若が細かく枝分かれした花弁を持てば彼岸花に近づくように観える、との想いをこめて。
解体する自己の
の、の地平にイデアが現れてくる
イデアとは魂の善性から全ての人間の本質平等
天から降り注ぐお日様の如く、我と我は本質平等であり
それぞれの土地から湧き上がるが如く、我と我は実質対等である
天と地の道の合間に、則天去私というあり方の中庸が生まれる
我執に、脆弱の両極に片寄ることなき中庸
しかし、解体する自己の その解釈は
則天去私の解釈と同じくして、伝聞による個別的解釈に留まり、筋道の見え難い乱文的解釈とするしかない
それを系統的思想に因る、あるいは、禅の実存的認識を根拠とするなどできはしないのだ