今日はおじいちゃんたちの待つ田舎へ帰る。 首を長くして心待ちにしてくれているのがわかっていながら、私はぐずぐずしていました。 本当なら29日から帰ることもできたけど、一人旅に出てみたり・・・。 いつもみたいに久しぶりの団欒を楽しむ気持ちになれないのでした。
台所に立ったり、大掃除の手伝いをしたり、っていうお手伝いを“させられる”っていう気持ちがどうしてもぬぐえないのです。 たまに帰省したときぐらい気持ちよくお手伝いをしたい、っていう気持ちよりも、“冬休みぐらい思う存分休みたい”っていう気持ちのほうが勝っている。 こんなことって初めてだ。
そんな感じで朝もぐずぐず遅く起き出してみたら、見事な大雪だった。 「ふう。まいったなあ」 なんてぼんやり考えながらぐずぐずと荷物をまとめたり、これだけはやっておきたい片づけをしたりしたら、お昼近くなっていた。 さて、出かける前に、スタッドレスタイヤを買わなきゃなあ。 積雪15センチで、幹線道路がのろのろ渋滞気味なのをいいことに、ノーマルタイヤでイエローハットまで車で。 ところが、急な大雪でスタッドレスタイヤは売り切れ。 ノーマルタイヤで帰されてしまいました。 まいったなあ・・・。と思っていたところにおじいちゃんから電話が来ました。。 「雪が大変降るで、今日は来ちゃいかんぞ。 明日は晴れるって言うから、道路がよくなってから来いよ」
正直、ほっとしました。 ちょっと遠くのカー用品屋に行ってタイヤを換えてもらって、部屋に戻りました。 大晦日だというのに、いつもどおりの部屋を今さらながら少し掃除しました。
2004年12月30日(木) |
ラフカディオ・ハーン『新編 日本の面影』 |
一人旅なんて、できる人じゃないはずなのに、自然に旅に出ることを決心していた。 目的は、ただ一人きりになること。 私とまったくかかわりのない場所で、ただ一人の私になること。
なーんて、そんなごたいそうなことじゃなくって、ごろごろして、ゆっくり本を読みたいな、ってさ。
そんな旅のおともに選んだのはラフカディオ・ハーン『新編 日本の面影』 まったくこの旅の雰囲気をこれ以上なく盛り上げてくれました。 ハーンとは日本名小泉八雲。英語教師として19世紀の松江に赴任してきて、目にした当時の日本の風物を驚きと賞賛を持って描いています。
「まるでなにもかも、小さな妖精の国のようだ。人も物もみんな小さく、風変わりで神秘的である。青い屋根の小さな家屋、青いのれんのかかった小さな店舗その前で青い着物姿の小柄な売り子が微笑んでいる。そんな幻想を打ち砕くのは、ときどきすれ違う背の高い外国人と、さまざまな店の英字看板だけである。しかしながら、そんな目障りなものも、現実感を強調するだけで、この面白い小さな通りの魅力が、それで著しく損なわれることが断じてない。」
日本に初めてやってきた喜びと驚きが、率直に書かれていて、読んでるこっちが誇らしい気持ちになります。 また、日本人にとって当たり前のことが改めて日本的なのだ、と気づいたりもします。 でも、やっぱり、今の日本には見られなくなってしまった、人びとの生活の形や、素朴な信仰には目を見開かれます。
特に、出雲大社参拝など、一連の神道研究は、本当に新しくって面白いです。
高山という日本的な街で一人ゆっくりハーンに浸る。 満足な旅となりました。
2004年12月29日(水) |
高山にうってつけの日 |
目覚まし時計をかけずに目をさまし、のろのろと出かける準備をする。 窓の外を見るとちらちらと雪が降っていてうれしくなる。 今日は高山にうってつけの日だ。
バックパック一つを背負って午後の高山行き高速バスに飛び乗る。 意外なほどバスの中は込んでいて、補助席に座っている人もいる。 くねくねと細い道を進んでいく。車窓からみえるのはちらちらと降り続く雪とうっそうと茂る木々の水墨画の世界。
2時間半かかって高山に降り立ったときにはもう夕闇が迫る時間になっていた。 雪は降り続いている。 高山に来るのは初めてだけど、思ったとおり雪の似合う街だ。 黒光りした軒の低い町並みは歩いていて楽しい。
私のことを誰も知らない街をぶらぶらと歩くのはとても楽しい。
この旅は名なしの私になるための一人旅なの。
省略省略! ちまちまと書いたところで、愚痴っぽくってみみっちい私の日常なのでもう省略です。 なんとかかんとか終業式を迎えました。 長かったよ〜。 もう、28日ですよ。 例年も、あわただしく年が暮れていくものだけれど、今年は比じゃないです。 年賀状も大掃除も無理です。 崩れた生活バランスを立て直すだけで精一杯だよ。
2004年12月08日(水) |
森永卓郎『〈非婚〉のすすめ』 |
恋愛という極めて感情的な問題が社会制度と社会思想のコントロールによって影響を受けてきたことがすっきりわかりやすく書かれていて目からうろこ。
常識や規範というものは私が思っていたよりも流動的で、私の思う常識も、ごく最近の潮流でしかないことがわかった。 そう考えると、一般常識にとらわれ、そこからはみださないようにという努力にはあまり意味がないな、と思う。
例えば、戦時体制化の日本では兵力増強のために「生めよ殖やせ」の政策をとった。第一に児童手当の支給、独身税の創設、教育費の軽減などの制度上の整備が行われた 。第二には20歳以上の女子労働の抑制、避妊・堕胎の禁止によって行動を規制した。 そして、第三には思想コントロールだった。高等女学校での母性教育や「報国の観念」の養成。
なるほどなあ、と思った一節。 「心理学者のフェスティンガーは、認知不協和理論という理論を主張している。人間は行動と思想の感情を別々〈不協和〉のまま放置できない。だから行動、思想、感情のうち一つのものをコントロールすることができれば、残りのものはそれと不協和を起こさないようにつられてかわっていくというのである。 結婚をして子どもを生まざるをえないように行動をコントロールする、結婚して子どもを生むことが、国に報いることであり、女性としての幸福なのだと思うように思想をコントロールする。そうすれば、残った感情は簡単に道連れになり、夫や子どもへの愛情が湧いてきてしまうのである。 当時の結婚は見合い結婚が三分の二である。決して恋愛に基づいた結婚ではなかった。それにもかかわらず、ほとんどすべての夫婦が配偶者に、子どもに愛情を感じて暮らしている。そう思わなければ、そうやって自分を正当化しなければ、人間はやっていけないのである。」
これまで私は不思議だった。 一度結婚をしたら何十年もその人を愛し続けるということは決してたやすいことではない、むしろ、稀有な形であるはずなのに、社会通念では常識だと思われているのはなぜなのだろうか。 自分の生活が不協和を起こさないようにって心がバランスをとっていたということなんだ。
さて、そういうわけで、結婚、恋愛、家族形態の常識は常識ではなく、望ましい新しい形へと移行していくだろうと述べられています。 それが〈非婚〉というスタイルなのかどうか。 その選択もありますが、むしろ多様化を示唆しています。 収入、価値観などによって、個人で選び取っていく。 経済政策上有利なのはどのスタイルかについては、本当に詳しく書かれているので、ぜひご一読を。
期末テストから、歳末大商戦の始まりです。 採点→返却→成績を出すこれを一週間以内に済まさなければならないスケジュールは、いつもと比べてもかなり急です。 授業はいつもどおり6時間あるのですからすべては4時30分に生徒が帰ってからの仕事です。 もはや諦めの境地。 「そういう日程は不可能だ」って誰もが思いながら「やるしかない」って口には出さない。
あのお、私、HP残りわずかで、回復アイテムも持たずにラスボス戦に突入しちゃったみたいです。 もはや栄養ドリンクも効かない体になってしまいました。
そういう先生が私以外にもたくさんいる。 入院してしまった先生もいるし、毎日2,3人は体調不良で休んでいる。 昨日は、「こんな学校辞めてやる!」って一人の先生が飛び出していった。(その先生は体調不良ではないのですが)
こんなにタイトな日程の割には冬休みまではまだまだたーっぷりです。 冬休みは29日から。 ただずるずる2学期が引き延ばされてもテストが終われば生徒だって勉強に気がのらないし、意味ないって思うよ。
2004年12月03日(金) |
小泉吉宏『ブタのいどころ』 |
あどけないブタの4こま漫画を侮るなかれ。 ここには真理があります。
ごくごく平凡な一匹のブタ、しったかブッタちゃんは私です。 しったかブッタは悩みます。くよくよします。時にうかれ、驕ったりします。 そして、少しづつ煩悩に振り回されている自分が、ありのままに生きていくためにはどうしたらいいかを知っていきます。
このシリーズは、今年度の私のベストの本かもしれません。
しったかブッタ「心の痛みから逃げてはいけないのですか?」 ブッタ「痛みから逃げるのは本能だよ」 しったかブッタ「じゃあ逃げてもいいんですね」 ブッタ「ふむ・・・逃げきれるかな? ブッタ「逃げて「快」にすがりつくと新たな苦痛がやってくるだけだ」 ブッタ「自分をただ見なさい。雨が降る日もあるとしるだけで心は楽になる」
「競争って疲れるね 競争って疲れるね 競争から降りることって負けることかなあ 降りることってできるかなあ」
しったかブッタ「やっぱり勝ちたいですよお・・・」 ブッタ「負けるとどうなる?」 しったかブッタ「つらいです」 ブッタ「勝つとどうなる?」 しったかブッタ「うれしいです」 ブッタ「なんだ 勝つも負けるも変わらんじゃないか」
しったかブッタが神に祈ります 「つらいことを我慢して質素にまじめに誰とも争わず努力して生きてきました。」 「欲張ることもなくまた家族を大切にしてきました・・・ それなのに それなのに・・・」 「神様・・・努力家と言われるわたくしめにどうして尊敬されるほどの地位をくださらなかったのだ!!」 「神様のばかっばかっ」〜努力に見返りを求めると葛藤が生まれる〜
そうはいっても、私はコーキー先生より教師として劣っている。 少なくとも、現時点での存在価値は私のほうが低いと思う。
コーキー先生は職業として、実際的な技術が教師として優れている。 私は生徒のため、という思想はご大層だが、日常の中で脈々と息づくものにはなっていない。 本を読み、いい授業を見て、自分の中で筋道だった私なりの理論はできてきた。 ただ、考えることはご立派でも、それは私の頭の中で終始していて、生徒にうまく伝わる形にできていない。
その点、コーキー先生は概念上はさておいても、生徒がのれる、わかりやすく面白い、そして、学校って楽しいって思える実践をしている。 見習わなければならないところだ。
2004年12月01日(水) |
彼と恋に落ちない理由 |
「きよこ先生、コーキー先生と付き合っているんでしょ?違うの? コーキー先生言っていたよ。」 また、ネタとして流行しています。
「じゃあさ、きよこ先生、もし付き合おうってコーキー先生に言われたら付き合う?」と、ある生徒に聞かれて、困っちゃいました。 「いやー。つき合えないなあ」とか言うわけにもいかないので、「うん。そうだねえ、付き合ってって言って来てくれたら付き合うかなあ」と答えました。
数日後、うれしそうな顔でその子がやってきました。 「先生!コーキー先生に、この前のこと言ったら、嬉しそうだったよ!よかったね。コーキー先生、付き合ってって言ってくるかもしれないね」 「はっはっは。そうかあ。」 と、笑いながらも、まったくどきどきとかしたりしない私って、精神的な年寄りみたいです。
コーキー先生とは同期の初任者です。とっても明るいし、仕事もできるし、教師としてものすごく力もある。ほかの学校の初任者の人からは「コーキー先生と同じ学校だと比べられてつらくない?」と、言われるほどです。 でも、周りの人が評価するほど私はコーキー先生を尊敬できないし、それどころか、たまに、本当に心の底から嫌悪することがあるんです。 一言で言うと出世第一主義。 優秀な教師と評価されたくてたまらない。 もちろんそのためにかなりの仕事を買って出ているのだから、仕事をしぶる私よりはよほどいいのですが、子どもへの声がけも、手立ても、すべてができる教師と言われるためにやっているように見えます。 だって、飲み会で生徒のことを「連中がさ〜」って、連中呼ばわり。まるで自分の手下のような口ぶりです。 そして、権威には徹底的に追従です。肩書き大好き。 職員室でも、えらい先生には盲目的によいしょよいしょで、聞いていて虫酸が走ります。
学校という独特なせまい世界の中で適応して生き抜いていくためのお手本的な生き方なのだと思います。 いいもーん。私、出世なんかする気ないし。
また、さっきの生徒との会話なんですけど、 「先生、どんな人がタイプ?」 「えーっと、そうだねえ、やさしい人がいいかなあ」 「それなら、コーキー先生、優しいよ!コーキー先生がいいよ。うん」 「ははは。どうしても、私とコーキー先生をくっつけたいんだねえ。」 この会話を聞いていたほかの生徒が、 「でも、先生、コーキー先生は明るいかもしれないけど、やさしいのとはちょっと違うかも」って。 おおー!!君はすごく人を見る目があるねえ! まったく、そのとおりだよ。って、心の中で快哉。
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