楓蔦黄屋
もくじ|←昔のを読む|新しいのを読む→
こたつを出した。
今住んでいる家はわりと寒さに強いので昼間は暑すぎるぐらいだが、 朝夕が冷えてきたのであったまりたくてこたつを出した。
先週買ったみかんはもうほぼない。 こたつでみかん、がやりたくて、でもこたつを出すかどうか迷っていた時期だったので 多めに買ったのだが早々になくなってしまった。 子どもが食べる量が思っていたよりも多かった。
ついこないだまでみかんが苦手だったのに、 いつのまにか好きになっている上にみかんの皮も自分でむける年なので ガツガツいってくれたのだ。
今まで我が家で果物が好きなのは私だけだったから、 果物を買ってもなんら気にすることなくひとり占めだったのに これからはヤバいぞ。悠々自適の果物ライフに陰りが。
まあいいんだけど。
サクランボとかぶどうとか、時期もので高いやつはどうなるのかなあ。 好きになるかなあ。
私には好きなものをがまんする機能はついていないので そうするとそういう果物を心ゆくまで食べるには 今までの倍量買うようになるんだと思う。
経済観念があまり育たないままこの年まできた。
まったくお金持ちじゃないのに、ていうかむしろ貧乏寄りだったのに。
でも贅沢な暮らしとかわりと性に合ってると思う。 漫画なんかで、庶子からいきなりお金持ちになった主人公が 「何もしてないのは肩身が狭くて…」と台所仕事を手伝ったりするのが 育ちのよさとか心根のまっすぐさとか清い感じとかあらわしててめちゃくちゃ憧れるけど でもたぶん自分だったら全然肩身が狭くならないと思う。
いくらでも使っていいカードとか渡されたらホントにいくらでも使えると思う。 「欲しいものを欲しいだけ買ってもむなしいだけ」って言うお嬢様も漫画でよく見るけど 自分はたぶんむなしくもならないし飽きないと思う。 メイドさんに何かを頼んでやってもらうのとかも全然抵抗ないと思う。 着替えさせようとするメイドさんに顔を赤くしながら「自分でできますから!」とかも言わないと思う。 全然平気で着替えさせてもらうと思う。
人に頼るのは本当に得意だ。
正しくは、的確な判断を手早く要求される場で そのこと自体に気づくのが人より遅いので (例:乗るべき電車に乗る、出るべき時間に家を出る) まわりの人が先に気づいて行動してしまうのだ。 子どもの頃などは私のことなどほっぽって行かれることが多かったが、 年をとるにつれて皆優しくなっていくので 自然と助けてもらえるというだけなんだが。
頼られるのも嫌いではないが、 頼られて行動したところであまりいい結果が出ない。 出せたことがない。
「あなたに期待してますよ!」と言われても正直ピンとこない。 とたんに面倒くさくなる。というかちょっと裏切りたくなる。 「お前は元来頼られる立場なんだからいい加減しっかりしろ」と 怒られて初めて重たい腰をあげる感じ。 もしかしたら褒められるより叱られて伸びるタイプなんだろうか。 でも上手に叱ってくれないとすぐヘソを曲げます。
面倒くさいタチだな本当に。
2020年11月27日(金) |
甲戌・朔風払葉・冒険 |
子どもとちょこっとおでかける。
とある目的のために土地勘のない町中を歩く。 目的を果たすのは合計30秒ぐらい。 歩いたのは5時間。
だんだん寒くなってきた季節の中を歩く。 寒くなってきたから暗くなるのも早い。 寒くなりはじめだからアウターを着たり脱いだりが面倒で忙しい。 そんな中をふたりで歩く。
目的を果たせて嬉しいねと言ったり 見知らぬ公園でギュンッと遊ばせたり 歩いてるとちょっとお互いイラッとくる瞬間が訪れて あっこれは疲れだ、いかんいかん落ち着こうとふたりで深呼吸したり コンビニに寄って道の脇でホットスナックを食べる。
目的に間に合うか間に合わないかのところで走る。 ワー!疲れるー!とはしゃぐ。 電車に乗り間違えたのを子どもが気づく。 目的の場所を子どもが見つける。
めちゃくちゃ楽しいな。
子どもと二人ででかけるのはめちゃくちゃ楽しい。 昔からそうだった。 赤ちゃんの頃からそうだった。
疲れるし間違うし機嫌悪くなるしで体力が削られるんだけど、 それでも楽しい。それが全部楽しい。
別にふたりで終始ニコニコしてるとかそういうわけでもないし、 すごい面白いことがあるわけでもないんだけども、 なんか楽しい。
そして子どももどうやらそう思ってくれてるらしい。 楽しいねーなんかわかんないけど楽しいんだよねー、とふたりで言い合う。
家族3人ででかけるのも楽しいし ダンナと二人で出かけるのも楽しいんだが、 子どもと二人で出かけるのはなんというか、なんだろうな、冒険感があるのかな。
赤ちゃんの頃は特に、冒険感がものすごかった。 装備もものすごかった。 今思えばあんなに持ってなくてもよかったよな、と思うけど、 それもあんなに持って行ってたから得た、自分だけの知識だ。
ひとりでなら入れる喫茶店にも子連れだと入れなくて、 自販機で買ったあったかいコーヒーを飲みながらちょっとだけ寂しい気持ちになったけども、 それ以上になんだかその状況そのものがめちゃくちゃ楽しかった。 抱っこひもの中があったかすぎて全然寒くなかった。
ちょっと前までは、 でかけた先でイヤな思いをすることにとてもおびえていた。
でも今、子どもとでかけるときはいつも、 なんか困ったことが起こるかもねえ、そのときはどうしようねえ、 まあ無事に帰ってこられたらいっか、と思えるようになってきている。
私と出会ってくれてありがとう。
2020年11月21日(土) |
戊辰・脳内イメージ分野 |
はー。
今回もなんとかのりきった。
-----
自分が今している仕事=納期遅れがち
みたいなイメージが浸透していることが 本当にありがたい。
納期をキチッと守っている人はいるし 社会性のある人が重宝されるのはどこの世界でも当たり前だけども、 でもなんていうか
かっこよくいえば 脳内イメージ分野での第一次産業 なわけで、 脳内といえば、専門家ですら未知の領域がまだまだ多い部分なわけであって
たとえば、本来的な意味の第一次産業に従事しているかたがたは お天気とか、土壌や水の具合とか、生き物の具合とかいった 自分以外の、人間ではない存在を主に相手どって、そこから生みだし、形にしていくわけで、 そりゃもうどうにもならないぐらい大変なお仕事だと思うんだけども、
仕事舞台が脳内だと、逆に 自分の中だけを相手どって、生みだし形にしていくわけであって、 それはそれでどうにもならないぐらい大変なお仕事だと思うんですよ。
そこを早くて一週間、遅くても一ヶ月かそこらでどうにか形にするところまで 持ってかねばならないという。
売れる売れないとか才能のあるなしとかそのへんの話はおいといて。
そこを納期キッチリに仕上げられる人たちは それは天才だと思う。この頃、とみに。
いろんなタイプの職人さんがいる中で、 自分自身に関して言うと 「仕事じゃないことをしているとき」がいちばんフルに自分の中を相手どれるという 非常にタチの悪いタイプなので納期を守るのは本当にしんどい。
自分の中を相手どって、それがどうにか脳内で見えてきても、 今度はそれを他人様にも伝えられるように外部出力しなければならない。 しかも自分の場合は3回も。
ふつうは同じこと3回やったら3回分納められるだろう…。
むかし、特に好きじゃないことを仕事にしていた頃、 「どうせ悩むなら自分がやりたい仕事で悩みたい」と思って今の仕事にどうにか就いたわけだけども、 好きじゃない仕事でうまくいかなかったことは 好きな仕事でも結局は乗り越えないといけなくなるわけです。
------
乗り越えたいね。いろんなことを。
あー、自分も若い頃はずいぶんまわりに許してもらってたんだろーなー、と この年になって思う。
自分が一番大変だ、と思うのは当然として、 それは他の人もそうなんだよ、ということは 最近身に染みていることだ。
若い頃は人と自分が同じだと思えなかった。 子どもの頃はもっと思えなかったのでその後遺症もある。
みんな自分よりも上だと思ってた。
今は上も下もない、みんなはみんなで自分は自分だと、 少しずつわかってきた。
だから自分も気を悪くしていいし、気をよくしてもいいのだ。 そしてそれを人にわざわざ伝える必要はない。
自分勝手でワガママな自分を 「自分勝手でワガママなんだ」と押し込めるのはもうずいぶん前にやめたけども、 「そうだそうだ、自分勝手でワガママだったわ」と思い出すことを最近覚えた。
-----
「幸せになりたい」と思ったことがない。
いつでも満たされていたというわけではない。 情が濃すぎてエネルギーがありすぎる家族が 全員それをもてあまして、誰もコントロールする方法を知らなかった家庭に育って それはもういろいろあった。
世間の不幸なニュースを見聞きして でもまあ地続きだわな、自分も何かの拍子でそうなるわな、と 思うぐらいにはいろいろあった。
家庭にいろいろあった、という話を人から聞くたびに それどころじゃねえのよこっちも、と心ひそかに思うぐらいはいろいろあった。
が、 「幸せになりたい」とかそういうことを思ったことはないな、と 折りにふれ思う。
親からもらった遺伝子のおかげでもともとそういう考えかたなのか、 物語というものに触れていたからなのかはわからないが、 「幸せ」とかそういった類いの概念や言葉がそもそも ストーリーの流れを汲み取るためのただの道具だ、と 当たり前のように思ってたからではないか と思っている。
「恋人と想いが通じて幸せになる」 「結婚して幸せになる」 「子どもを産んで幸せになる」 のではなく、 「幸せになる、という結末を迎えるためのひとつのエピソードとして 恋や愛や出産がある」 ということを知っていた。
実際は「幸せ」とは 道を歩いてたらたまたま落ちてた何か、ぐらいのもんだと思う。 それを拾っても拾わなくても、道を歩いている自分には結局さほど影響はない。
だから「幸せ」を目的に据えて行動しない。
だから「幸せになりたい」と言われてもピンとこない。
でも一度だけ、ある日自分の子を眺めていてふと 「ああ、『幸せ』って概念が具現化すると、 こんな形してて、こんな温度で、こんな感触なのか」 と実感したことならある。
やはり自分の外にあって、 自分とは違う道を行くものだ。
でも、道中で出会えて、本当に嬉しい。
11月が好きだ。
晴れの日が多い。 窓を開けて景色を眺めると 手前の建物はふんわりもやがかかってぼやけて、 遠くの景色はくっきり見える。
日が短いので 太陽の色が夜明けから一日中ほぼ変わらない。
午後になってもほぼ白い金色。 プラチナ色だ。
紅葉している桜の葉が透けて光る。 どこもかしこも美しく見える。 静かだ。
夕暮れの空の色が濃い。 紺も青も黄色もオレンジもみんな濃い。 山のシルエットも濃い。 ビルも濃い。灯りも濃い。
検索すると、私の生まれた日は晴れだったようだ。 今日も晴れていた。
11月のこんな日に生まれたんだなと思うと、 11月のこんな日に生まれて本当によかったなと思う。
読ませることを何も考えていない。
日々思っていることをただ吐き出す。 指で言葉にする感覚。 そうするとポエムっぽい。
今までの日記とテイストがまったく違って 恥ずかしいけど 慣れてきた。
なので毎日書けるかと思いきやそうでもなかった。 一日があっというまにすぎていく。 夜になると眠い。きのうは眠すぎて日記のことを思い出さなかった。
-----
下手したら10年ぶりぐらいにDVDをレンタル。 昔は毎日のようにTSUTAYAに通っていた。 最寄り駅にあったTSUTAYA。 いろんなものを観た。楽しかった。
DVDをわざわざ借りる、という行為自体がエンタテインメントになっている。
口にだすときはエンターテイメント、なんだけど、 指で打つときは指がエンタテインメントにムリヤリしている。
-----
ジブリの「かぐや姫の物語」。 ずっと観たかった。
めちゃくちゃ面白かった。 そして心にしみいった。
人間の世に生まれたいと願うことが罪。 人間の世に生まれることが罰。
罪と罰の中で、それは罪でも罰でもないと声を大にして叫ぶ。
生きてた。
羽衣を着せられて、言いたいことを遮られるかぐや姫。 だけど言い切ってしまわなくてよかった。 言い切らなかったから、彼女の中に残って、それが地球を振り返らせた。
-----
筆のタッチ、すごくよかったけど、 一方でときたましりあがり寿っぽい線に見えて、 ギャグ感がすごかった場面がいくつかあった。
それが台無しとかそういうのでなくて、 いろんなものが自分の中にはあって、 感動も笑いも共存してるんだからそれでいいじゃないという話。
-----
それの他にもうひとつ借りたDVDがあって、 まあ期待はしてなかったんだけど全然面白くなくて、 あああ本当に腐向けは俺には合わないな!と思った。
腐向けだからしょうがないけどだって女の子が全然可愛くないんだもん。
かといってステレオタイプな百合もそんなに興味がない。 自分が描くのも一方的な片想いものが圧倒的に多い。
あくまでファンタジーの話です。
肩だの腰だのが痛くて始めたYouTubeでのエクササイズ。
どのチャンネルでも何の運動でもいいから 毎日10分やろう、と決めてから3ヶ月。 体重も体脂肪もさして減らないが、増えもしない。
2ヶ月半ぐらい経ったところでハデに身体を痛めたものの それが治ってから、また再開できている。
世の中にはほんとに、いろんなことを発信してくれる人がいて、 本当に助かっている。
-----
書くことがないので窓をあけて外をながめる。 スカイツリーが白と紫で交互に入れ替わって光っている。 きれいだなあ。毎日見ても飽きない。 私はスカイツリーが大好きだ。 東京タワーも好きだけど、スカイツリーのほうが まだ建設途中のときに見に行ったり、そのときスカイツリー型のペットボトルの水を買ったり、 なんだかんだ毎日目にしていたりしてなじみ深い。 里帰りしたあとなんかに東京に戻ってスカイツリーを目にすると、 「ああ帰ってきたなあ」とホッとする。 生まれ育った土地よりもホッとする。
冬なのでとにかくビルの赤い灯りがきれいだ。
空が冬になってきた。 去年の暮れに、この窓から眺めた空に似てきている。
-----
生まれてきてくれてありがとう。 出会ってくれてありがとう。 お誕生日おめでとう。
「たべる生活」。
-----
ごはんは大切だ。
そしてごはんを作るというのはとても大変な仕事だ。
人の健康に直接作用する仕事。 人の味覚を喜ばせる仕事。 人に、ごはんの楽しい思い出を作る仕事。
私はごはんを作るのが苦手で、 でも苦手だという自覚がなく、 そして知識も経験も足らず、 ごく最近まで本当に、本当に台所に経つのが苦痛だった。
でも少しずつ、いろいろな失敗や後悔や諦めや再生を積み重ねて ごく最近ではあるが、ごはんを作るということに向き合えるようになっている。
ごはんを作るのが楽しいとか、そういうことではない。 ただ、ごはんを作るということ。 そして食べさせるということ。 それを、知ること。
-----
この作者さんの本は昔からとても好きなので 今回も楽しく読めると思っていた。
が。
母親がどうのこうの、子どもがどうのこうのという部分で どうしても気持ちがとっちらかってしまう。
「ああ、いるよねこういう人」と思ってしまう。
「こういう、庇護が必要な子どもが好きなだけで、 その母親のことは好きでもなければ興味もない人」と。
昔読んだ、おじいさん医師の育児書を読んだときもそう思った。
赤ちゃんや子どものことはとても好きで、慈しみかたも知っている。 でも母親のことには興味がない。
「他の人には優しいのに、自分の夫にだけきついお母さんがいる。なぜだろう」 というようなことが一行だけ書いてあって、あとはそのことにいっさい触れずにその本は終わった。
そのことが妙にひっかかったし、それ以上その育児書を読む気はなくなった。 何の役にも立たないと思った。 その一行が、実はものすごく根深い問題を抱えているのだと知ったのは、子どもを産んで数年経って、 田房永子さんの本を読んだときだった。 その育児書を頼りにしなくてよかったと思った。
今回の「たべる生活」でも、そのおじいさん先生に感じたことと同じことを思ってしまった。
そういう人は、本当に子ども好きと言えるのだろうか。 子どものことを考えていると言えるだろうか。
だって、年齢を考えれば、そのお母さんこそが彼らの「子ども」である世代なのに。
自分に一番近しい子どもであるはずの人たちを ただ「母親」と呼び、 その行動に頭をひねるだけで、深追いしようとしない。
「母親」と呼ばれた彼女たちだってたしかにかつては子どもで、 そして育てた親は、自分と同じ年代なのだ。 あなたたちが理解できない「母親」を育てた世界を作ったのは、あなたたちではないのだろうか。 それとも、自分は少しも責任がないとでもいうんだろうか。 自分が育てたわけではないから?
ならばあなたたちの書いた本は、ただの子育てのいいとこ取りではないのか。
子育てのいいとこ取りをする人は、結婚出産育児をしているいないに関わらずいる。 子どものためになっている自分が嬉しいのだ。 愛されたいのだ。子どもに。
-----
…と、余計な憤りを感じてしまって、 肝心の楽しい食の話が何も頭に入ってこない。
私はこの本が求めている読者ではなかったということだ、きっと。
かつて 「見えてる世界がもう違うのよ」 と言った母の言葉がまた心にじわっと広がる。
-----
おみやげに、自家製の梅干しをもらったので 大葉といっしょに豚肉をあえて、エリンギといっしょに炒めたら美味しかった。
今年漬けたばかりであろう、生梅の感触が残る梅干し。
2020年11月08日(日) |
乙卯・山茶始開・星の子 |
「星の子」を読んだ。
事前にいろいろ情報を仕入れてしまったせいで 自分で読み解くということをせずに ただただ淡々と読んだ。
でもよかった。
優しい世界だった。 ちひろちゃんを芦田愛菜ちゃんで読んだからなおさらかもしれないけど ちひろちゃんがまず可愛かった。
ちひろちゃんが可愛くて、お姉ちゃんのまーちゃんも可愛いから、 両親が娘達を可愛いと思う気持ちに同調してしまって、 両親がひどいことをしているという気持ちにはあまりならなかった。
-----
「朝が来る」で、子どもがいること、育てられることの幸せを感じる。
でも「おらおらでひとりいぐも」で桃子さんが言った 「自分より大事な子供なんていない」も、ほんとうだと思う。
親子、ときいて想像するのは、小さい子と手をつないでいる親の姿だけど、 でも実際は、子どもが成人してからの時間のほうがずっと長い。 ならば、いっとき一緒にいるぐらいに思ったほうがいいのではないかと。 その言葉が、やさしい色合いをした白い石のように、心にコトンと置かれている。
-----
ちひろちゃんは食べることに貪欲で、 何年かに1回の法要のお弁当を楽しみに生きていけるような子で、 両親はもう、ちひろちゃんが何を食べても文句を言わないのなら、 ならばこの先もちひろちゃんは、けっこう強く、うまく生きていけるんじゃないかと思った。
ちひろちゃんがもし、おじさんのお家に行こうと思っても、 両親は反対しないだろうし、 もしそうなって、おじさんのお家で暮らしても、 ちひろちゃんの考え方は、そんなに変わらないんじゃないかと思った。
-----
むかし、宗教の勧誘にきたクラスメイトがいた。 そのときの、熱に浮かされたようなその子の目を今でも覚えている。
そして大人になってからも、 彼女のような目をした人に何人も出会った。 そしてその人たちはべつに、宗教にハマっていたわけではなかった。
熱に浮かされたような目をした人はいっぱいいる。
私もきっとそういう目をしていた瞬間が何度もある。 覚えがある。 これからもあるかもしれない。
上手に、しなやかに、かわしていきたい。 人のことも。自分のことも。
2020年11月07日(土) |
甲寅・立冬・おらおらでひとりいぐも |
映画「おらおらでひとりいぐも」を観たよ。
爆泣きでした。
いい映画だった。
自分の中に何人もいろんな人がいて、 彼らがいつも話しかけてくる。自分と会話する。 過去の自分も、いつもそばにいる。
私はそれを自分だけがそうなんだとずっと思っていたので、 まえに舞台「愛犬ポリーの死、そして家族の話」ではじめて その現象は他の人にも起こりうることなのだと知って 驚愕して、そしてまるで自分の人生をビデオで観ているような感覚に陥って 爆泣きしたことがある。
だから今回も、桃子さんが同じような人だと知って 「ああ、あるあるこの感じ」と終始こころのなかでうなずいていた。 年をとるとそれが顕著になっていくパターンもあるんだ、と知る。
自分のなかのたくさんの、 きっとはじめは自分をつくる一要素だったものが 年を重ねるにつれてすっかり自分になった、自分たち。 思い出。過去の自分。 彼らがにぎやかに、背中を押してくれて山道をのぼるシーンで爆泣き。
昔、娘のために夜なべして作ったスカートを、本当はイヤだったんだと言われたと 酔っ払いながら言うシーンで爆泣き。
雪の帰り道にマンモスを連れて歩く桃子さん。
-----
今住んでいるこの場所が終の棲家かもしれないし、そうでないかもしれない。 いずれにしろ、年をとった自分はどんな気持ちで世の中をながめているのだろうと ふと思う瞬間が、やけに多くなった。
不惑を前にして、少しずつ心がおばさんとしての自分を受け入れ始めているからかもしれない。
その矢先のこの映画。 桃子さんには共感する部分が多くて、 鵜呑みにはしないにしろ、この先のヒントをもらったような気がして心強かった。
はじめてつきあった人と、そのまま付き合い続けて結婚できた。 桃子さんの言葉を借りれば「惚れぬいだ」人に、おそらくなるだろう。
どういう別れ方をするんだろうと思う。 自分が先に死ねたらいいけど、とも思う。 でも先に死んだらむこうが本当に可哀想だな、とも思う。
むこうが先に逝ってしまったら、私はほんとうにひとりぼっちで、 誰とももう言葉が通じなくなる。
そのときにどうすればいいだろうと、常日頃思っている。
そのときがきたら、桃子さんのことを思い出せるんだろうか。
-----
映画があまりにも面白くて、帰りに寄った本屋さんで原作の本を買った。 原作が読みづらそうだったらやめとこうかなとも思ったが、 ぺらっとめくって一瞬で読みやすいものだとわかったので即買う。
そして「朝が来る」と「星の子」も買った。 ふたつとも観たくてまだ観られていない映画の原作で、 もしかしたら上映期間が終わってしまうかもしれないなと思っていたので がまんしきれず買ってしまった。
群ようこの新刊らしき本があって、 私はさいきんになってようやく「ごはんをつくる」ということに 興味が出てきたのでそれも買った。
ひさびさにたくさん紙の本を買った。
子どもへのお土産にこれまたたくさん本を買って、けっこうな額になってしまった。
自分の本は、家に帰ってあとで電子で買ってもいいかなと一瞬思ったのだが、 いんや待ちきれない!と思ってそのまま買った。
この「待ちきれない!」が満たされれば 紙だろうが電子だろうが、媒体はどっちでもいいと思う人間なんだな私は、とつくづく思う。
バスを待つわずかな時間で読む。 外で読むなら意外と紙のほうが読みやすいんだな。
私の職業を知った、知り合いの人からこないだ 「紙の本はやっぱりなくなってほしくないですよねえ」と言われた。 社交辞令だなーとわかったので、「いや正直どっちでもいいです」とは言えなかった。
木板でも石板でも、黒板でもホワイトボードでも、 どっかの道や壁にかかれてても、 面白ければ私は読むし、それでいい。
紙の本を求める人は、自分の人生の一冊がほしい人であり、 特にこだわらない人は、そこに書いてある情報だけがほしいんだと とある本で読んだ。
うるさいな。と思う。人の楽しみに水さすな。と思う。
しかし出す側の立場だと紙のほうが嬉しい。まだ、紙が嬉しい。
-----
原作の桃子さんは、映画よりももっと根深い問題を抱えていて、 これをもし映画でも描いていたら、印象がずいぶんちがっただろうな、と考える。
この映画のいいところは、桃子さんを外側から眺める視点が多いところだ。 いわゆる「よく見かけるお年寄り」感を出しているところ。 何も考えずにただ生きているという雰囲気を漂わせておいて、 内側は、若い皆さんよりももっともっと多層になっているんだよ、というギャップ。
私の中のたくさんの人たちはもっと増えるのかと思うと楽しみになった。
これを映画にしてくれた、すべての人にありがとうを言いたい。
エンドクレジットで「監督:沖田修一」の文字をみて、あれっと思った。 調べたら「南極料理人」の監督でビックリした。 私の一番好きな邦画の監督だった。
-----
桃子さんは、地球46億年の歴史に想いを馳せる。 猿から人間になろうとした生き物の、その最初の歩みが 自分にも宿っていることを感じている。
私もたまにほんのちょっとだけ馳せる。 でもふだん馳せるのは、せいぜいが江戸時代あたりまでだ。
自分の遺伝子に刻み込まれている、顔も知らない自分の祖先の人格が ときおり顔を出しているのかもしれないと思う。
-----
一人称のあり方も、ああそうだな、と感じるところが多かった。
私は、自分の考えや感情を的確に相手に伝えたいとき、 その内容によって口調を変えたほうがしゃべりやすいのだが、 その口調によってさらに一人称も変える。
「私」のときもあるし「あたし」もあるし、 「僕」にもなるし「俺」にもなる。 すべて口調が変わる。
そのほうが頭の外にでてきやすいから変わる。
でも、変えて話す相手はこの世でただ一人だ。 他の人には正直、伝わろうと伝わるまいとどうでもいいと思っている。
-----
その勢いで「朝が来る」も読む。
爆泣き。
子どもを産めたこと。子どもを育てていること。 それがこんなにも得がたく幸せなことだと、心の底から実感する。 贅沢すぎるほど私は贅沢なのだ。
これの映画、しかも監督は「あん」の河瀬直美さんだ。 (だからプライムに出てたのか) 映画を観たらきっと、件のつまんない映画の古くささなんて風の前の塵に同じだ。 観たいな。
-----
「星の子」はこれから読む。
2020年11月06日(金) |
癸丑・パーティション |
「ラヂオの時間」を観る。もう何回目だ。
保坂アナウンサーがパタッ!と台本を閉じて 「その時だった!」と喋り始めるシーンで 年々流す涙の量が増えている。
おかしなシーンなのに泣く。 最近観た「誰かが、みている」もそうだったけど おかしいけどなぜか胸がいっぱいになる。三谷幸喜映画。
「short cut」も大好きだ。 「大空港2013」も大好きだけど、まだちょっと観られない。観られなかった。
-----
自分の死に関してはどうとでも言えるけども、 他人の死はただただ哀しい。 ほんとうに哀しい。
-----
仕事の仕方を変えたので、今まで仕事場で使っていた机がひとつ空いた。 なのでレコードプレイヤーを出しやすくなって、 なんだかルーティンのように毎日レコードを回す。
起きて、なんやかんや支度して、 仕事を始める前のうだうだした数分にレコードが聴きたいなと思うようになってけっこう経つ。
たった一人で仕事をするのはつらいときもあるが こうやってレコードを聴きながら仕事の準備を始められるところは素敵だ。
たいていYUKIかChara+YUKIを聴く。
-----
脳内で ひとつのことを処理できる領域は じつは限られている。
仕事でいっぱいいっぱいで、他のことなんてできないと思っていても、 それは自分を100%使ってるわけではなくて、 限られた領域の中での100%にしかすぎない。
エンジニ屋さんに就職したとき、 社外研修でならった、ハードディスクのパーティションの話が なぜかずうっと心にひっかかっていた。
一番初めに、ハードディスクの中を区切って それぞれに使う領域を決めるのだと。
最近になって、人間もそんなようなものじゃないかと思うようになってきた。
仕事をする領域、 家事をする領域、 育児をする領域、 遊ぶ領域。 それはあらかじめ区切られていて、たとえば 家事をする領域を仕事に割り当てることは 当たり前にやっているようでいてきっとできないのだ。
そう思うようになってから、 仕事も家事も、その他のことも、 同じようにやれること、 回していけること、 すべてはつながっていることを 体感している。
映画「あん」を観た。
お菓子の映画かと思ってたら、もう何歩も踏み込んだ内容になっていて 泣くまいとしても何度も涙がこぼれた。 千太郎と一緒に何度も泣いた。
徳江さんが住んでいるところで、徳江さんがしゃべるシーン。 映画だということを忘れて見入る。聞き入る。
樹木希林はいつも映画の中でそこに生きている。
最近になって制度が改善されたからといって 長く続いてきた歴史は、日常は変わらないということを思い知る。
市原悦子ももういない。 年寄りを一人失うのは、図書館をひとつ失うのと一緒だという言葉を思い出す。
-----
つまんない映画を観た。
でもそのつまんない映画のおかげで、自分の気持ちをあらためてじっくり知った。
ストーリーという枠組みの中で(外でもか?) 母という立場を対立させるのが好きな人がたくさんいる。 生みの母と育ての母とか。 嫁と姑とか。 ママ友とか。 対立するものだと頭から思っている人がいるのだなと。
母に限らず、女性は対立するものだと ハナから信じて疑わない人がけっこういるのだと知った。
なぜ力を合わせることを嫌うのだろうか。
べつに女性同士だって仲いいよ!と主張したい感じでもなくて (むしろ私は女性の友だちを失いがちだ) (そしてすごく仲のいい女性同士も何人も知っているのでとくに主張する気が起きない)、 なんというか、
別に女性同士に限らず、 「仲がいい」も「対立」も「協力」も共存し得るのに なんでいっこだけしか描かないのかなと思った。 いっこだけしか描かないのは今時もうつまんないでしょと。
古くさいのはつまんないです。
-----
その古くささを払拭してもらいたくて 映画「朝が来る」を観たい。
その前に「おらおらでひとりいぐも」も観る。
-----
私は映画「南極料理人」とかドラマ「バイプレイヤーズ」が好きで、 それは 「男性だけのコミュニティで、いつかその立場が変われば自然消滅するであろう関係性」 に憧れがあるからだと思う。 南極観測隊の任務が終われば、ドラマが終わって同居期間が終了すれば、 きっと彼らはもう積極的には会わないんだろうなと思うのが、 それでも成立する関係性が、とても羨ましいなと思う。
南極料理人のクレジットで、ビーチバレーをやっているシーン。 あれはあくまで妄想で、実際にはみんなやんなかったんだろうな、と 解釈するのが好きだ。
もうすぐ立冬だってさ。1年が早いね。
仕事を小休憩。仕事場からは富士山が見える。 たぶん多摩の山、も青く連なって見える。 むかーし住んでた家の2階からもたぶん秩父連山がよく見えたし、 小学校からも見えた。 山のシルエットが好きだ。
大学生のときのバイト先からもよく富士山が見えていた。 ちょっと高台にあったので、総ガラス張りの壁から夜景も見えた。 遅番のときはそれを眺めながら美味しいまかないを一人で食べたりして、 今思うとかなり贅沢だったな。至福の時間だった。
高いところが好きらしい。 というのを、今の住まいに引っ越してから気づいた。 昔は、空が広々しているのが好きで高低は関係ないと思っていたが どうもそうではないらしい。高いところが好きらしい。 冬になると遠くのビルのあかりもくっきりと見えてきれいだ。
1年半以上、窓から毎日毎日同じ景色を眺めてるわけだけども、 ぜんぜん飽きてないので、たぶんこれは一生飽きないパターンだと思う。
-----
人に意見するのが苦手です。 人に意見をきくのも苦手です。 でも人の意見はわりと素直に聞くほうです。 でも自分の思惑はがんとして譲りません。
自分がかなりガンコだということに最近うすうす気づき始めました。
-----
きをめっするアレがメガトン級ヒットを放ってますね。 すごいな。
本誌で読んでましたが、ちょうど無限列車編でなんとなく追わなくなりました。 で、最近アニメがすっごいヒットしてるってんで驚く。 へー。でも正直なんで?という感じだったんですが、 知人に聞いたところ要するにウェルカムご腐人がた系だからということですんごい納得。 私には腐回路がたぶんまったく通ってないのです。 あとキャラ萌えとかもしない。 なんならキャラの区別がついてない。 あずまんが読んだときだって最初ともと神楽の区別ついてなかったし。
漫画はネームを、アニメは音とリズムを、どうやら追って楽しんでるらしいんですね。 絵がどれだけキレイでも、そこがハマらないとハマらないです。 最近うすうす自分がわかってきました。 不惑を前にするとやっとちょっとわかってくるらしい。
-----
友人をまた一人失いました。
亡くなったわけではなく生き別れというか、単にケンカ別れなんですけど。 そこそこ長い付き合いだったので残念ですが、 なんというか長年なんとなく楽しくなかったのでホッともしています。
そーゆーこともあるんだなーとボンヤリ思う。
失って得たもののほうが大きかったので正直失ってよかった。
楓蔦きなり
|