Tonight 今夜の気分
去るものは追わず、来るものは少し選んで …

2006年09月28日(木) 忘れ物をとりに行く旅



「 長く暗い秋の夜がやってくると、私には自分のしたいことがよくわかる 」

                   ロバート・ブラウニング ( イギリスの詩人 )

How well I know what I mean to do When the long dark autumn-evenings come.

                                Robert Browning



延期の繰り返しで、なかなか旅に出ることも叶わなかった。

ようやく仕事も一段落つき、出発のときが近づいてきた。


つい、この前まで強い日差しに晒されていたはずなのに、ふと、気づけば、穏やかな秋風が身を包み、道往く人々の装いにも変化が現れだした。

旅へ出るにも、思案を巡らすにも、絶好の季節である。

テレビ では、「 日本ハム・ファイターズ 」 が レギュラー シーズン を制して、地元札幌の ファン が歓喜する様子を伝えている。

そういえば、しばらく北海道にも行っていないし、国内は大阪と東京の往復だけで、それも大半は仕事目的だから、「 旅 」 ではなく 「 出張 」 である。

そのうち、のんびりと温泉に浸かったり、スキー にも興じたいが、自分から積極的に動かないと、「 そのうち 」 は、いつまでも、やってこないものだ。


安倍新内閣は 「 融和人事 」 などと評価されているようだが、欲を言えば、もう少し、若手が登用されることを期待していた。

人生に残された時間からみると、何かを成し遂げたいと思うとき、若い人のほうが余裕はあるが、「 そのうち 」 を乱発するのは年寄りのほうである。

若い議員が、ガツガツ と功を焦り、勇み足に走ったり、経験不足の未熟な資質で野心を剥き出しにすると、やる気が裏目に出て、失敗もしやすい。

その点、海千山千の経験豊富な ベテラン に任せておけば、世間の反応を観ながら、適当なところに着地させる術も発揮できるだろう。

たしかに、継続的な安定成長を望めた時代には、それでよかったのだが、経済も外交も岐路に差し掛かった昨今、時代は 「 変革 」 を求めている。


憲法を変えるとか、税金を上げるとか、年金を見直すといった 「 パーツ 」 の部分だけではなく、今後は、日本という国の 「 本質 」 が問われる。

明日からの旅先でも、日本の政局について尋ねられるだろうが、これから、日本がどこへ向かい、日本人はどう生きるのか、誰にもわからない。

古い価値観で論じても、その道理が未来永劫に有効なはずはなく、時代に適合した最善策を講じるには、たとえ未熟でも、若い感性が必要になる。

明治4年、岩倉具視、木戸孝充、大久保利通、伊藤博文らを中心とした 「 岩倉使節団 」 の平均年齢は、なんと 「 30歳 」 であった。

明治維新という 「 日本の歴史上、最大の変革期 」 を無事に乗り越えて、大きく飛躍させた立役者は、若く有能な指導者たちである。


もちろん、最近は 「 老人のような若者 」 もいるし、かなり高齢であっても、意気盛んな御仁もいるから、実年齢だけで判断できるものでもない。

しかしながら総体的に、年齢は人を慎重にし、物事に寛容な反面、臆病で、消極的な思考をもたらしやすいもので、この私なども例外ではない。

たとえば、恋愛に関しても、若い頃は、なるべく愛そうとしたけれど、最近は愛から醒めようとしたり、愛などとは縁を切るのが大人だと考えたりもする。

そういった 「 症状 」 を治すにも、街を出て、雄大な自然と対峙したり、懐かしい風景や、知り合いを訪ねる旅が、「 特効薬 」 になるかもしれない。

漲る体力は褪せても、せめて心や感性だけは、たえず リフレッシュ を繰り返しながら、いつまでも若く保ちたいと願うものである。






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2006年09月27日(水) 美しい国づくり



「 美しいメロディーは、遠くから聞こえるとき、さらに美しい 」

                 ウィリアム・ワーズワース ( イギリスの詩人 )

Sweet melodies are those by distance made more sweet.

                             William Wordsworth



美しさの基準とは、はたして何であろうか。

美しい国、美しい人とは、どういうものであるのか。


人間の魅力で決定的なものは、形の上の美醜でも、才能でもなく、その人自身が 「 生き生き 」 としていることではないかと思う。

もちろん、表面だけを見て 「 生き生き 」 しているかどうかなど、わかるはずもないし、軽薄で騒々しい未熟な若者の勢いとは、似て非なるものである。

たとえば、外見上の派手さはなくても、好奇心や知識欲が旺盛で、自然や、人や、芸術や、様々な文化に興味を持つ人は 「 生き生き 」 として美しい。

表面はむしろ暗い感じでも、精神が 「 生き生き 」 としている人、しっかりと目標を持って生きている人は、性別や、年齢を超越して美しいと思う。

年齢的に若くても、ルックスに恵まれていても、「 生き生き 」 としたところを失ってしまった人は、長く美しい光を発する存在にはなり得ないだろう。


安倍首相は26日、首相官邸で就任後初の記者会見を行い、「 日本を活力とチャンス、優しさにあふれた国にする 」 と力強く抱負を述べた。

それは、日本の未来を信じたいすべての国民のための 『 美しい国づくり 』 の スタート なのだと、安倍首相は語る。

政治に 「 美しさ 」 など持ち込まれても、なんだか漠然としていて、よくわからないところもあるが、個人的には、その発想を気に入っている。

ビジネスでも、政治でも、家庭生活でも、損得や、利害など、数字に表れる成果だけで、すべてを評価できるものではない。

同じ成果を挙げたとしても、「 美しいやり方 」 や、「 醜いやり方 」 があり、できることなら、何事も美しいほうが素敵ではないだろうか。


物事の尺度に 「 美 」 という価値観を求めるのは、自然の欲求だ。

人間は美しいものを想像して 「 憧れ 」 を抱き、自分の力だけでは達成できないもの、手の届かないものを求め、つねに欲している。

男性でも、女性でも、美しいものを探して、心の支えを得ようとする。

何にでも批判的で、天邪鬼にくさしてしまう皮肉屋もいるけれど、実は、その皮肉も 「 憧れ 」 の裏返しなのである。

国民の気持ちをひとつにし、未来への希望、活力のある国づくりを目指し、力を結集させるには、「 美しさ 」 への憧れを抱かせるのも良策であろう。


もちろん、すべてが 「 キレイごと 」 で解決するほど甘くはないから、政策によっては、強行に推し進められたり、万人が納得できない局面も現れる。

それを指して 「 美しくないじゃないか 」 と皮肉る人も出てくるだろうが、人間の容姿と同じく、目に見える外見の問題がすべてではない。

少なくとも、「 美 」 を基準に置いたからには、自分に恥じない政策、誇りをもった決断を、新しい内閣は目指していくだろう。

過去には 「 ブルドーザー 」 と呼ばれた首相の下、力強く所得倍増を提唱した政権もあったが、「 美 」 を追求する紳士的な内閣があってもよい。

美しいものを愛する人の姿もまた、美しいと感じたりする今日この頃、かつてない新しい時代の幕開けに、まずは期待したいと思う。






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2006年09月26日(火) 足と腰と胸の痛み



「 人生の前半は楽しむ機会に恵まれないが、その能力はあり、

  後半は楽しむ能力に欠けているが、機会には恵まれている 」

                      マーク・トゥエイン ( アメリカの作家 )

The first half of life consists of the capacity to enjoy without the chance ;
the last half consists of the chance without the capacity.

                                   Mark Twain



体の痛みと、心の痛みは異質なもので、それぞれ別の苦しみがある。

どちらも辛いものだが、「 両方一度に襲ってくる 」 と、さらに痛みが増す。


最近、実は 「 左足ふくらはぎ 」 に違和感があり、特に、朝、目覚めるときに肉離れを起こしかけたり、つりそうになったりすることが多い。

短い期間だが、数日後には海外へ渡航するし、近場に、名医がいるという評判を聞きつけたので、珍しく、医者に看て貰うことにした。

原因は、「 古傷 」 と 「 腰痛 」 によるものだそうで、たいしたことはないらしいが、一応、飲み薬と湿布をもらってきた。

レントゲンを撮ると、背骨の形やら、脊髄の隙間などは理想的で、きれいな形をしているそうなのだが、何かしらの理由で、神経がズレているらしい。

薬や牽引や湿布よりも、ストレッチが効果的だといわれ、やり方を教わってきたので、今夜から、就寝前に始めようと思っている。


どこの病院も同じだろうが、患者の大半は 「 老人 」 で、病院まで来ているぐらいだから、どこか悪いのだろうけれど、元気そうに見える人も多い。

お年寄りは大事とも思うが、苦しそうな子供や、若者の患者が 「 元気そうな老人 」 の行列に続き、長い順番待ちをする光景は、複雑な気持ちになる。

けして、「 余命の長いほうが大事 」 と言うわけではないが、将来ある子供や、働き盛りで忙しい若者を、早く看てやってほしいとも思う。

老人医療費が値上がりしたことを云々する人も多いけれど、負担が少ないがために、リフレッシュ 気分で治療を受けに来る老人の割合も高い。

長生きするなとは言わないが、医師や病院の数には限りがあるし、深刻な急病で診察を受けに来る人もいるのだから、少しは自重すべきだろう。


もはや、若返る術などなく、自分も老人になっていく運命ではあるが、未来の担い手の邪魔をしてまで、世にはばかろうとは思わない。

やるべき最低限のことや、やりたい最小限のことは実行してきたし、やれる能力を出し惜しみしてこなかったという自負もある。

できれば、病院も 「 老人用 」 と 「 老人未満用 」 を設け、老人の延命と、若者の治療は、別の施設で対処したほうが望ましい気もする。

そんなことを考えつつ、痛む足を引きずりながら病院を出たとき、携帯電話に旧知の悪友から メール の着信があった。

内容は、「 恩人の死亡 」 を知らせるものであった。


すぐさま電話して詳細を確認したところ、死亡したのはずいぶん前のことであって、たまたま悪友が知ったのが今日だということである。

しかも、故人の名誉のために伏せるが、自然死ではなかったという。

恩人とはいっても、葬式に弔問するほどの関係ではなく、「 顔見知り 」 程度の付き合いだったのだが、学生時代にはよく世話になった人だ。

ここ十数年、会ったこともないし、滅多に話題にも上がらなかった人だが、既にこの世にいないと思うと、なんとも虚しい気分になる。

この人には 「 借り 」 があったので、それを返せなかった悔しさ、口惜しさが、悲しみ以上に胸に残り、今日は一日中、気分が冴えなかった。


帰りが遅くなったし、今夜は日記を休もうかとも思ったのだが、数日後には旅行に出かけるし、少しだけ、愚痴を吐き出させてもらった。

冒頭の言葉の通り、若い頃は何でも出来たのに、実行する機会が少なく、機会が増えた今も、気力、体力が衰え、結局、あまり人の役に立てない。

個人的な野心は達成できても、他人を幸せにしたり、昔の恩義に報いたり、社会に貢献することなど、なかなか程遠いのが実情である。

年金など、人生の 「 後半 」 に対する保障も気にはなるが、そこをどう生きて、何を目標とするのか、まだまだ自分には定まっていない。

ちと、珍しく落ち込み気味の 「 今夜の気分 」 である。






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2006年09月25日(月) ウルトラマン 裁判



「 アーノルド・シュワルツネガー は、長い “ もの ” を持っています。

  ジョージ・ブッシュ は、短い “ もの ” を持っています。

  ローマ法王 も持っていますが、一度も使うことはありません。

  そして マドンナ は、持っていない “ もの ” です。

  いったいこの “ もの ” とは何でしょうか? 」

                                  英語のなぞなぞ

Arnold Schwarzenegger has a long one.
George Bush has a short one.
The Pope has one but he never uses it.
And Madonna doesn't have one at all.
What is it?

                                       Riddle



名言も飽きてきたので、「 なぞなぞ 」 や 「 ジョーク 」 を多用している。

前回に続き、ちょっと 「 大人のなぞなぞ 」 を用意してみた。


世界の名言やジョークなどを、挨拶代わりに冒頭で引用しているが、そんな私の日記も、あちこちで リンク されたり、引用していただいている。

それは、とても光栄な話だと思うので、こんな駄文でも何かの参考にされたり、話題のひとつになるのなら、随時、ご遠慮なく使っていただきたい。

たまに 「 無断リンク不可 」 なんて書いておいて、勝手に引用され、誉められると喜び、けなされると エキセントリック に怒ってる人もいる。

こちらは、どのような評価であっても気にしないので、心配ご無用だ。

結局、オリジナル とはいっても、自分の体験談以外は、何かの引用だったり、表現方法も、過去に見聞きした話に ヒント を得ているはずである。


特撮 ヒーロー 物の人気 キャラクター である 「 ウルトラマン 」 の著作権を巡って、タイ、中国と、日本の 「 円谷プロダクション 」 が係争している。

生誕 40周年を迎えた ウルトラマン は、言わずもがな日本生まれの人気 キャラクター なので、当然、著作権は 円谷プロ に属すると思われがちだ。

ところが、話はそう単純でもなく、円谷プロ は資金援助を受ける見返りに、初期作品の海外利用権を、タイの映画会社に譲る契約を交わしている。

それで、日本の最高裁は2004年、円谷プロ の上告を棄却し、「 日本以外での独占的利用権はタイの映画会社にある 」 と司法判断を下した。

今回、タイの映画会社が中国で ウルトラマン の関連商品を売り出すことになり、再度、円谷プロ から 「 盗作と著作権侵害 」 の訴えが起きている。


過去に私は、二つの会社に勤務したが、いづれも 「 法務課 」 という部署があり、法的に係争する事態の対処や、未然に防止する対策を司っていた。

企業が ホールディング している ブランド の管理や、商標権、著作権などが侵害されると、警察や FBI に協力を要請し、それに対応していた。

そのため、個人や法人の持つ 「 権利 」 の価値は十分に認識しているが、最近は、誰でもかれでも 「 著作権 」 などと主張するので、どうかと思う。

たとえば、他人の吐いた名言などを冒頭に掲げ、新聞から拾ってきた話題について所感を並べた程度の 「 この日記 」 に、著作権などあるだろうか。

法的には存在するかもしれないが、一日の終わりに、その夜の気分で書くこの日記は、食後の 「 げっぷ 」 みたいなもので、権利など主張できない。


猫も杓子も 「 商標権 」 や 「 著作権 」 を主張し始めた背景のひとつには、特許庁という役所が、なんでもかんでも申請を認めてしまう悪習がある。

たとえば、「 涼 ( りょう ) 」 や、「 暖 ( だん ) 」 という漢字は、某繊維会社が 「 商標権 」 を取得している。

これは、一文字だけで使用する場合にかぎられ、たとえば、「 涼風 」 とか 「 暖気 」 など、別の単語の一部に使うことは問題ない。

夏物、冬物の肌着を販売する際に使用する外装袋 ( パッケージ ) などを制作するときには、そういった知識が不可欠で、なかなか面倒である。

友人の グラフィックデザイナー から聞いたのだが、若手の デザイナー がそれと知らずに何かの漢字を使い、損害賠償に発展したこともあるらしい。


最近では、「 阪神優勝 」 の四文字を商標登録している人がいて、たまたま阪神が優勝したときに、優勝セールでモメたことなどが話題になった。

ウルトラマン のように、明らかに独自の創作性があるものは別として、何にでも申請を受理する特許庁の 「 乱発ぶり 」 には首を傾げたくなる。

その影響からか、素人日記に 「 著作権 」 などという 「 値打ち 」 を掲げる人も多く、眺めているこちらが恥ずかしげな気分になったりもする。

所詮は素人の駄文であり、大半は 「 売り物 」 になる品質からは程遠いのだから、誰かに関心を持たれ、リンク され、引用されるほうが幸いだ。

ある主婦の方がこの日記をリンクされ、「 口調は堅いけど、中身はそうでもない。 そこが魅力 」 と紹介されたのだが、なんだか印象的で嬉しかった。






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2006年09月24日(日) 文楽の魅力



「 昨日の前衛芸術も、今日はお洒落、そして明日はお古になる 」

          リチャード・ホフスタッター ( コロンビア大学歴史学教授 )

Yesterday's avant-garde experiment is today's chic and tomorrow's cliche.

                              Richard Hofstadter



ファッションに関する用語は、フランス語から英語に入ったものが多い。

上文の 「 avant-garde 」 も 「 chic 」 も 「 cliche 」 も、元はフランス語だ。


ある国の言葉が別の国に取り入れられ、日常的に使われるようになると、それは 「 外来語 」 とか、「 借用語 ( loan words ) 」 と呼ばれる。

アバン・ギャルド という言葉は、前衛 ( avant-garde ) 芸術の直訳として、フランスから直接日本にも伝わって、よく使われている。

お洒落な、スマートな、エレガントなといった意味を表す 「 chic 」 も、日本で シック として通用する。 

語源辞典によると、フランス語の 「 chic 」 は、ドイツ語の 「 schick ( 整っている ) 」 から来ているらしい。

つまり、ドイツ語からフランス語に入り、それから英語に入り、そして日本に来て 「 シック 」 となったわけで、なかなか奥が深い。


そんな 「 プチ雑学 」 はどうでもいいのだけれど、最近、ネットで知り合った方の中に 『 文楽 』 の趣味をお持ちの方がいて、関心を持っている。

自分より若い人達でも、『 歌舞伎 』 とか 『 日本舞踊 』 などの伝統芸能を好む方は知っているが、『 文楽 』 が好きな方というのはあまり知らない。

あるいは、何かの理由によって、最近、また流行っているのかもしれないが、私の中で文楽は、「 衰退の憂き目 」 にあるような印象を持っていた。

子供の頃、父親のお供で何度か観に行ったことはあるが、大人になってから、たとえば、彼女と映画を観るような感覚で、気軽に出かけたこともない。

地元の大阪には 「 国立文楽劇場 」 があり、とても立派なホールとして知られているが、たった一度、入っただけで、後は車で前を素通りしている。


大昔、芝居小屋の多かった街というのは、今でも独特の風情を残しており、大阪の道頓堀、東京の浅草、人形町などに行くと、その名残がある。

観客をアテにした飲食店、演奏に用いられる三味線を修理する店、出演者の鬘 ( かつら ) や、あるいは文楽人形の髪を結う床山の店などが並ぶ。

江戸時代に思いを馳せ、庶民の 「 粋 ( イキ ) 」 が伝わるような風情は、多くの人に愛され、親しまれ、発展してきたのだろう。

文楽は、単なる人形劇とは違う 「 優れた舞台芸術 」 として世界に認められ、ユネスコの 「 世界無形遺産 」 にも認定されている。

成人後、たった一度行ったのは、ぜひとも観たいという外国人の 「 接待 」 なのだが、総体的に外国人に文楽の話をすると、興味を示される。


ところが日本人には、「 chic 」 よりも 「 cliche = クリシェー ( 常套句、決り文句、…古臭いの意味も ) 」 という印象が強いようだ。

冒頭の短文通り、室町時代からの浄瑠璃に人形芝居を併せ、江戸時代の 「 avant-garde 」 であった文楽は、「 chic 」 を経て 「 cliche 」 になった。

たしかに、あの スローテンポ な三味線の音色と、眠気を誘う浄瑠璃の語りは、殺伐とした情報化社会に不似合いな感じもする。

しかし、だからこそ現代においてその価値があり、繊細で優雅な愉しみとして、好事家の心を離さない魅力があるのかもしれない。

未体験の人にも、雑然とした ラップ や、激しい ダンス・パフォーマンス などに慣らされた目や耳に、かえって新鮮な感動を与えられる可能性がある。


最近、「 ロハス 」 という言葉が流行語になり、注目を集めている。

ロハス ( LOHAS ) とは 「 LifeStyle Of Health And Sustainability 」 の略語で、環境と健康を優先する新しい ライフスタイル のことである。

富と名声を基準とした 「 セレブ 」 という価値観から、人間と地球の健康を持続させる欲求へと、人々の興味が移り始めているのかもしれない。

そこで求められる価値は 「 贅沢 」 より 「 快適性 」 であり、趣味の種類も、のんびりと 「 心地よい空間に浸っていられるもの 」 へと人気が変化する。

そんな折、文楽の持つ独特の情景や心理描写、人形の魅力、楽器の情緒などが、改めて見直され、時代の move-ment に返り咲く予感もある。






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2006年09月23日(土) 日本人女性の90%が結婚を希望しているという調査結果



「 夫の居場所を常に知っている女性は ? 」

                                  英語のなぞなぞ

What do you call a woman who knows where her husband is all the time ?

                                       Riddle



前回の 「 英語ジョーク 」 が好評だったので、今回は 「 なぞなぞ 」 から。

最後に 「 答 」 があるけれど、想像力をはたらかせて考えてもらいたい。


恋愛に関する格言は、夢と希望に満ちた美文が多いのに、その主題が 「 結婚 」 になると、皮肉や後悔を表したものが、圧倒的多数を占める。

その理由が、既婚者の共感を得るためか、独身回帰の憧れか、あるいは、本当は幸せなのに 「 照れ隠し 」 のためなのか、よくわからない。

恋愛中の男女は、お互いを尊重し、相手の 「 長所 」 を褒め称え、いかに自分の恋人が 「 世界一、魅力的な異性 」 かをアピールしたがる。

ところが、結婚して恋人が伴侶に変わった途端に、相手の 「 嫌な部分 」 を探り合い、いかに 「 つまらない異性 」 かを訴える傾向が強い。

本来ならば、結婚は恋愛が成就する 「 最高の結末 」 であるはずなのに、世界中、どこを巡っても、結婚を恋愛以上に評価するお国柄はない。


英米のジョークでは、男性からみた女性観を 「 浪費家、怠け者、厄介者 」 などと扱うものが多く、妻は 「 男性の自由を奪う存在 」 とされやすい。

逆に、女性からみた男性観は、「 浮気者、酔っ払い、嘘つき、甲斐性なし 」 などと扱われ、夫は 「 妻を騙す存在 」 として取り上げられやすい。

表題の 「 なぞなぞ 」 も、亭主というものは、妻に隠れてコソコソと、たえず良からぬことを企て、ナイショで遊び呆けている印象がベースにある。

だから、自分の夫がどこで何をしているのか、大半の妻は把握できていない ( あるいは把握している “ つもり ” でしかない ) という概念がある。

せっかく、二人で愛を育み 「 最高の伴侶 」 を得たつもりが、とんでもない 「 錯覚 」 だったというのでは、ラブ・ストーリー の結末として悲しすぎる。


国立社会保障・人口問題研究所は22日、未婚の男女8734人から回答を得た 「 結婚と出産に関する全国調査 」 の結果をまとめた。

それによると、82年の調査開始以来、減り続けていた 「 いずれ結婚するつもり 」 という女性の割合が、全体の90%と、初めて上昇に転じたらしい。

逆に、男女とも 「 一生結婚するつもりはない 」 人の割合が過去最高で、「 交際している異性がいない 」 女性も、過去最高の44.7%に達した。

この結果から、理想と現実の間にズレがあることや、結婚に対する意識の二分化が進んでいることなどが窺い知れると、専門家は語っているようだ。

いづれにせよ、将来的な人口の減少が危惧される我が国にとって、結婚を希望する女性が増えていることは、明るい話題といってよいかもしれない。


格言好きの私としては、先達の教えを肝に銘じ、恋愛は積極的に、結婚には臆病に対処する習慣が身についてしまったようだ。

ただ、仮に先達の教訓が正しく、結婚は不幸の始まりだとしても、そろそろ 「 幸せから脱皮して、不幸になってもいいかな 」 と思ったりしている。

山登りの楽しさは、頂上からの眺めに憧れを抱き、苦労して登っている途中にあり、登りつめてしまうと、後は下りの虚しさが待っている。

恋愛に関する格言が夢とロマンに溢れ、結婚が、皮肉と諦めに象徴されてしまう理由も、おそらくはそれに近い感覚なのだろう。

もちろん、いまの私には 「 登ろうとする山 」 を見つけることが先決であり、麓から頂上を見上げながら、「 帰りの心配 」 をしている場合ではない。






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2006年09月22日(金) 国旗掲揚時に起立を強制すると罰せられる国



「 母親 : 起きなさい、学校へ行く時間ですよ。

  息子 : 行きたくないよ、友達はいないし、先生たちは僕のことを
       
       嫌っているし。

  母親 : いい加減にしなさい、さあ起きて。

       あなたはもう52歳よ。それに校長先生でしょ 」 

                                  英語のジョーク

Mother : Wake up, son. It's time to go to school.
Son   : I don't want to go. I don't have any friends
      and the teachers hate me.
Mother : Come on. Wake up. you're 52 years old.
     And you're the principal.

                                  English joke



アメリカでパーティに参加するとき、財布を忘れて出かけても何とかなる。

だが、スピーチを頼まれたのに、気の利いたジョークを忘れたら致命的だ。


多くの日本人にとって、ジョークは 「 時と場所をわきまえる 」 ことが要求され、面白いかどうかより、不謹慎か否かを問われやすい。

親しみのこもった 「 愛情表現としての “ けなし ” 」 よりも、まったく、想いの伝わらない 「 ありきたりな “ お世辞 ” 」 が無難だとする気風も強い。

たとえば、冒頭の ジョーク を、恩師の前や、教職員が集う席上で披露した場合、アメリカではウケるが、日本では 「 空気が凍る 」 ことも珍しくない。

もちろん、「 ユーモアと悪ふざけは紙一重 」 なのだが、少々、羽目を外したところで、楽観的に笑い飛ばせる 「 心の余裕 」 が欲しいところだ。

そんなわけで、私のような 「 悪ふざけ人間 」 は、アメリカのほうがスピーチには苦労しない。


東京都の教育委員会が、教職員に 「 国歌斉唱や起立などを義務付けた 」 ことについて、21日、東京地裁は 「 違憲 」 との司法判断を下した。

通達や都教委の指導は、「 思想・良心の自由を保障した憲法に違反する 」 ため、国旗掲揚、国歌斉唱の際に起立を怠っても、処分されないとのこと。

これを受けて、小泉首相は 「 法律以前の問題として、国旗や国歌に敬意を示すのは当然では・・・ 」 と述べ、この問題に疑問を投げかけた。

私自身も個人的に同意見だし、司法判断が何よりも絶対に正しいわけでもないが、「 法治国家 」 である以上、この裁定は尊重されるべきだと思う。

卒業式で先生方は、国歌が流れても 「 知らんぷり 」、国旗が揚がっても 「 知らんぷり 」、ひたすらに 「 思想・良心の自由 」 を満喫なさるとよい。


毎年、別の生徒を見送る先生方には 「 恒例行事 」 でも、それぞれの生徒にとって卒業式は、「 一生に一度の想い出 」 である。

厳粛に、秩序正しくとり行うことが理想だが、先生方の 「 法律で認められた自由 」 を侵害してまで、生徒の 「 想い出づくり 」 に協力する義務はない。

先生方に 「 憲法で認められた自由 」 が認められ、生徒たちに認められないはずはないだろうから、先生も生徒も 「 立ったり、座ったり 」 している。

その権利が 「 裁判所 」 のお墨付きで、見事に認められたのである。

教職員の皆様、おめでとうございます。


当然、教職員だけを特別扱いすることは理不尽なので、生徒はもちろん、すべての職業、すべての国民に対して、同様の権利が認められるだろう。

サッカーのワールドカップ、ボクシングの世界タイトルマッチ、オリンピックの表彰式など、国旗掲揚、国歌斉唱の場面はいくらでもある。

他国の選手たちが、目を瞑り、胸に手をかざして感慨深げに国歌を斉唱する一方、日本の選手は、座ったり、寝転んだりしながら 「 君が代 」 を聴く。

この光景を見た世界の人々から、「 日本は、思想・良心の自由が保障された、素晴らしい国だなぁ 」 と称えられると、裁判長は思ったのだろう。

立派な裁判長さまの意思に反し、海外から 「 馬鹿じゃないの 」 と罵られることなど、まさか有り得ないであろう。


聖職者でさえ説教の前に大真面目な顔で ジョーク を放ち、聴衆を和ませる 「 悪ふざけが大好きなアメリカ人 」 でさえ、国旗、国歌には敬意を払う。

彼らは、日本人が美徳とする 「 秩序 」 よりも 「 自由 」 を尊重しているが、星条旗に誇りを抱き、国歌に忠誠を誓う。

彼らとて、愛国心の下に結束した一枚岩ではないが、個人の自由と引き換えに、国旗や国歌を冒涜する人間、その権利を司法に問う人間はいない。

もし、そんな人間がいれば、ジョーク好きの彼らも 「 笑えない 」 だろう。

日本が、国旗、国歌をないがしろにする 「 悪ふざけ 」 を司法で認めるほど 「 ジョークに理解がある国 」 になったとは、ちょっと驚きであった。






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2006年09月21日(木) 圧勝 : 安倍新総裁



「 民衆の声は神の声である 」

                               古代ローマの格言

The voice of the people is the voice of God.

                                Latin proverb



民主主義の政権下では、全員が対等な資格で、意思決定に参加できる。

その長所は、独裁や、ファシズムを排除しやすいシステムにある。


日頃は、自由と民主主義を称えながら、事が自分の思い通りに運ばないとなるや、民主主義の原則に対し、疑問や、憤りを唱える人たちがいる。

大多数の支持を得た リーダー や、政策を否定し、それを 「 衆愚政治 」 と揶揄することで、「 国民の大部分は何もわかっていない 」 と糾弾する。

彼らは 「 自分以外の、大多数の国民は馬鹿 」 といった前提で、世の中を眺めているため、民主的な裁定に納得できないでいるのだ。

民主主義的な 「 馬鹿な国民に評価を委ねる政治 」 ではなくて、かぎられた “ 優れた少数者による政治 ” が理想で、多数決の結果を不服とする。

それが実現すれば、あるいは民意に惑わされることなく、優秀な指導者が手腕を振るえるかもしれないが、その思想こそ 「 ファシズム 」 の典型だ。


民主主義を支持した先達の格言には、「 民衆の声 」、「 民意 」 こそが大切なのだと評価する内容が多く、すべて国民の意思を尊重している。

逆に、独裁者の遺した言葉には 「 大半の国民は愚鈍なので、重要な判断を任せておいては危険だ 」 といった内容のものが多い。

アドルフ・ヒットラーは 著書 『 我が闘争 』 の中で、「 国民大衆は、小さな嘘よりも、大きな嘘の犠牲に容易になるものである 」 と述べている。

さらに、「 単純な概念を繰り返し反復することだけが、結局、大衆に覚えさせることができるのだ 」 と結論づけている。

このような 「 大衆は鈍重 」 という発想が、後にしてみれば 「 狂気の源 」 だったわけだが、現代でも、変わらない思想の持ち主は存在している。


小泉政権の支持率が高かったことや、郵政民営化に固執し成功に導いたことについて、前述のヒトラーと同じ評価を、国民に下す人がいる。

つまり、「 国民は鈍重だから、小泉政権を支持した 」、「 単純な “ 郵政民営化 ” という概念を、繰り返し反復されたので覚えた 」 という評価だ。

政権を狙う野党の場合は、数で上回る与党に打撃を与えるため、多数派を攻撃する理由もうなずけるが、「 個人 」 の場合は少し事情が違う。

小泉首相が憎いわけでも、何か迷惑をかけられたわけでもなく、国民から多くの支持を集めた 「 人気 」 が、妬みの対象になっているだけだ。

それは、自分も 「 多くの人間に愛されたい 」 という欲求の裏返しであって、心理学的にみれば 「 幼児的で未熟な精神構造 」 の表れである。


次期総理が安倍氏に決定し、近く、小泉総理からバトンを渡される。

初の 「 戦後生まれの総理 」 であり、誠実そうな人柄と、ソフトな顔立ちは、小泉総理と同様に、主婦層を中心として支持が高まりそうだ。

たとえ 「 国民が鈍重 」 だとしても、その 「 鈍重な国民 」 が民主的に選んだ人物が、国政を担うことが最も望ましいだろう。

それを否定することは、「 民主主義への挑戦 」 であり、たとえ悪気はなくとも、「 善意のファシズム願望 」 と言わざるを得ない。

政策面で異論はあるが、個人的に 「 谷垣氏の能力 」 を評価していたので残念だけれど、ぜひとも 「 安倍新総理 」 のご活躍を期待している。






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2006年09月20日(水) 牛丼復活の日



「 あまり口出しをしない政府が最善である。

  なぜなら国民は、よく自らを律するものだから 」

          トーマス・ジェファーソン ( アメリカ合衆国第3代大統領 )

That government is best which governs least,
because its people discipline themselves.

                              Thomas Jefferson



独立宣言書を起草した ジェファーソン は、「 民主主義の祖 」 と呼ばれる。

自由を尊重し、干渉を最小限に留める アメリカ の原点は、ここにある。


戦後の日本は、「 占領国アメリカ 」 の影響を強く受け、衣食住はもちろん、思想や、政治形態や、生活のすべてにおいて、彼らの真似をした。

少し余裕ができると、「 アメリカ頼み 」 では不安な気になってきたり、あるいは、「 アメリカを批判すると格好いい 」 のだと勘違いする人も現れ始めた。

当然、日本には日本古来の良さがあり、アメリカにはアメリカの良さがあり、それぞれの欠点もまた、同じように存在するはずである。

たとえば、「 個人の自由 」 と 「 政府の干渉 」 の関係について、一般的な日本人とアメリカ人の間では、ずいぶんと認識に差がある。

これも、どちらが良くて、どちらが悪いという問題ではない。


アメリカ産牛肉の輸入再開により、大手牛丼チェーンの 「 吉野家 」 では、販売休止から2年7ヶ月ぶりに、牛丼の限定販売が開始された。

世論調査の結果は賛否両論だというけれど、各店にお客が殺到し、台風の影響を受けた宮崎以外の店舗では、すべて 「 完売 」 という好況だった。

この日、吉野家の牛丼を食べたすべてのお客には、「 他の食物を摂る 」 という選択肢があったはずで、強制的に食べさせられた人は皆無であろう。

つまり、日本政府は 「 アメリカ産牛肉の輸入を認めた 」 ことは事実だけれど、国民に 「 アメリカ産牛肉を食べさせた 」 というわけではない。

すべてのお客が、自身の判断と嗜好によって、それを食べたのである。


日本人の中には、「 安全性が確保できないかぎり、個人的な判断以前に、政府が輸入を禁止し、国民の健康を守るべきだ 」 と指摘する人もいる。

つまり、各個人の健康問題についても、政府は介入し、責任を持つべきだという意見で、これは一見 「 筋が通っている 」 ようにもみえる。

たしかに、「 人体に有害な危険のあるモノ 」 の販売を国が認めて、一部の国民が望んだからといって許可するというのは、社会悪的な印象もある。

国民の大多数が、体に悪い 「 覚せい剤を使用したい 」 といっても、それが合法的に認められる社会になったりすると、世も末だろう。

では、「 アメリカ産牛肉 」 以前に、そのような前例はないのか。


日本で唯一、「 煙草 」 を専売している 「 J T ( 日本たばこ産業株式会社 ) 」 は、自社の販売商品に以下の注意書きを添えている。

「 喫煙は、あなたにとって肺気腫を悪化させる危険性を高めます 」

公然と 「 人体に危険ですよ 」 と謳いながら、煙草は堂々と販売され、おそらくは愛煙家の一部にも、「 アメリカ産牛肉 」 を不安視している人はいる。

煙草を吸って寿命を縮めたり、健康を害することがあったとしても、あくまでそれは 「 自己責任 」 として、政府は国民の喫煙習慣を承認している。

アメリカ人の喫煙率は日本人よりも低く、彼らは日常的に、自国産の牛肉を好んで食べているというのが現状である。


日本の愛煙家で、アメリカ産牛肉による BSE感染 を揶揄する人は、この時点で明らかに 「 論理が破綻 」 している。

しかも、健康面の因果関係として、「 アメリカ産牛肉が原因で健康を害した人 」 の割合と、煙草を原因とする症例数は、比較するまでもない。

牛肉は、「 アメリカ産以外にも替わるものがある 」 と言うかもしれないが、煙草の場合は 「 吸う必要すらない 」 ので、それも理由にはならない。

煙草を吸わない人でも、「 すべて健康に有害なことは避けている 」 と言い切れる人が、はたして何人いるだろうか。

そう考えていくと、「 好き嫌いの問題 」 であるとか、「 個人的な必要性 」 の尺度から、この問題を語っているとしか思えないのである。


政府に、「 俺の自由は認めろ、だが、国民の健康は管理しろ 」 と要求するのは、ずいぶんと虫のよい話であるが、ある意味 「 日本人的 」 でもある。

銃規制しかり、日本人の望む自由というのは、アメリカよりも 「 歯止め 」 と 「 拘束力 」 の利いた自由であることが多い。

この問題でアメリカ側が不満を漏らした一例に、「 我々は一台の欠陥車があっても、すべての日本車を輸入禁止にはしない 」 というものがあった。

個人が食べる、食べないを決めるのは勝手だが、国として制約を設けすぎることには、危険性に関する根拠も不足していて、少し疑問を感じる。

ちなみに私は、あまり牛丼が好きじゃないので食べないが、渡米の際にはアメリカ産牛肉を、美味しく食べているし、これからも食べるだろう。






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2006年09月19日(火) 結果の重み



「 自然には報酬も罰もない。 結果はあっても 」

                ロバート・G・インガソル ( アメリカの弁護士 )

In nature there are neither rewards nor punishments -
there are consequences.

                             Robert G.Ingersoll



勢力の強い台風13号が日本列島を通過し、各地に被害をもたらした。

犠牲者のご冥福をお祈りし、被災された皆様にはお見舞い申し上げる。


近畿地方には、さほど深刻な被害はなかったけれど、それでも、窓を開けていると部屋中の物が弾き飛ぶほどの強風が、長い時間、吹き荒れた。

英語で 「 風 」 を表す言葉では [ wind ] が一般的だが、弱い爽やかな風のことは [ breeze ] と言い、一方、強く激しい風は [ gale ] と言う。

突風は [ gust ] だが、さらにもっと強く、激しい風ならば [ blast ] となる。

時速65マイルを超える暴風は、[ storm ] や [ hurricane ] などと呼ばれるが、今ごろの台風なら [ a typhoon of early autumn ] と訳せば通じやすい。

外国に行ったときは、これらの気象用語を覚えておくと便利である。


冒頭の短文は、気候の影響だとか、そういった具体的、物質的な問題ではなく、もっと 「 精神的な問題 」 について、語られたものだと言われている。

たとえば、一つの行動の成否を成功、失敗といった基準で計っても、長い目でみれば良いとも悪いとも言えず、単に 「 結果 」 でしかないことも多い。

真面目なのは良いことだが、常に良い結果ばかりを求め、たまたま成果に結びつかない出来事が続いたら、やる気を失ってしまう人がいる。

ときには、「 そういう時もあるさ 」 と開き直り、すぐに期待する結果が現れなくても、自分を信じて、今まで通りの努力を続けることも大切だろう。

目先の結果に惑わされて、右往左往したり、人生を憂いたり、他人を妬んだりするようでは、結局、たいした仕事はできないものである。


今年も イチロー は 「 200安打 」 を達成し、怪我で長期の休養を余儀なくされた 松井秀喜 選手 も、復帰後、快調に活躍を続けている。

彼らにも不振のときがあり、郷里を離れて孤独に耐え、誰も経験したことのないような重圧と戦いながら、それでも元気に頑張っている。

彼らを支えているのは 「 自分を信じる心 」 であり、それも単なる自信過剰や、思い上がりではなく、心身を鍛え続ける努力の賜物だ。

彼らにとって、さして 「 結果 」 は重要でなく、試合後のインタビューや、記録を達成した後の物静かなコメントを聴けば、それを物語っている。

野球選手もビジネスマンも、都度の 「 結果 」 に一喜一憂し、身の振り方を案じているようでは、なかなか頂点に立てないようである。


時事問題というカテゴリーで日記を書くことになり、政治や、社会情勢に少しは興味を持とうと心がけているが、それもすべては 「 結果 」 でしかない。

総理が誰になろうと、どこの国が戦争をしようと、どんな凶悪犯罪が起きようと、それは台風や地震と同じように、自然発生的な 「 結果 」 である。

その 「 結果 」 を云々するのは誰にでも出来ることで、もっと大事なのは、その 「 結果 」 から時代を読み取り、自分がどう生きるかだと思う。

自分は好天を望んでも、雨乞いをする人もいるわけで、雨が降ったら空に 「 バカヤロー 」 と叫んだり、大事な服が濡れたことを恨むのは筋違いだ。

自然がどんな 「 結果 」 をもたらしても、それに対応できる自分であり続けることが、結局は、大事なのではないかと思う。






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2006年09月18日(月) 書を捨て、街に出よう



「 読書は、体にとっての運動と同様の効果を、精神にもたらす 」

              ジョゼフ・アディソン ( イギリスの政治家、随筆家 )

Reading is to the mind what exercise is to the body.

                                Joseph Addison



読書を増やし、知識を豊富にすることで、「 精神 」 は健全に保たれるか。

精神が健全でない人、人格障害者らをみると、そうとも言い切れない。


どちらかといえば、読書になど無縁で、自らの無知を自覚している人のほうが、精神的には素直で、明朗、快活な生き方をされている人が多い。

なまじ中途半端に難しい本を読み、十分に理解もできていないのに、その知識を他人にひけらかそうとする人のほうが、始末におえないようだ。

体にとっての運動は、何も考えずに動いていても、それなりに効果が出るものだが、読書の場合は、理解力が伴わないと何の効果もない。

それどころか、ただ 「 読んだ 」 だけなのに、一段高いところへ成長したような錯覚を起こし、読んでない人間を見下す人もいる。

たとえば、「 これを読まなきゃ、語る資格がない 」 だとか、「 ぜひ皆さんも、読んでみてください 」 などの口調で、他人にその値打ちを押し付ける。


ライブドア、村上ファンドの事件から、「 頭の良い人間の、間違った判断 」 というものが、世の中には存在することが広く知られてきた。

逆に 「 頭が悪いこと 」 と、「 判断が間違っていること 」 には、天地の差があるということを、愚鈍だが純朴な善人が、教えてくれることもある。

本を読んで、ちょっと 「 物知り 」 になった成果を、自分の仕事に活かしたり、生活を豊かにするために活用するのは、とても素晴らしい習慣だ。

ところが、それを 「 他人を中傷したり、批難するための ネタ 」 にする人も、WEB日記を書いている人の中には多い。

しかも、都合のよい部分だけを 「 飛ばし読み 」 しているため、すぐに ボロ が出て、マトモ な読者からは顰蹙を買うことになる。


素人ならまだしも、朝日新聞の社説には、それに似た傾向が強い。

アメリカの下院外交委員会が、「 日本の歴史問題 」 という主題で公聴会を開いたが、そこで 「 靖国に関する是非 」 が論議になったらしい。

普段から、中国、韓国には難癖をつけられている 「 首相の参拝問題 」 だが、“ 同盟国のアメリカにまで批難を受けたじゃないか ” と社説は語る。

左翼系売国新聞の彼らが、これを “ 千載一遇の機会 ” だと、水を得た魚のように騒ぎ立てるのも自然だが、それはあまりにも 「 不勉強 」 である。

アメリカが、「 靖国神社を肯定 」 するほうが、ずっと不思議なのだ。


アメリカ人の間では、以前から 「 靖国神社が示す歴史観は、先の戦争を正当化するもの 」 という論調が強く、どちらかというと否定的な意見が多い。

中国、韓国との違いは、「 だからといって、それを政治利用したり、他国に内政干渉はしない 」 というところで、日本にとっては、この違いが大きい。

戦争を正当化されたら、かつて、日本と戦ったアメリカの歴史観と対立することは明らかなので、それを快く思うアメリカ人など少ないに決まっている。

また、靖国神社には、アメリカが東京裁判で裁いた 「 A級戦犯 」 も合祀されているわけで、そこへ日本の首相が参拝することに、いい顔はできない。

今になって靖国問題で、急に日米関係がギクシャクしたわけでも、アメリカが公式発言として、日本に何かを要求してきたわけでもないのである。


耳で 「 きく 」 場合に、「 聴く 」、「 聞く 」、「 訊く 」 などの違いがあるように、本を 「 読む人 」、「 眺める人 」、「 観る人 」 らがいる。

また、「 本質を見極められる人 」、「 見極めようとしたが、失敗した人 」、「 自分に都合のよい部分しか、解釈できない人 」 もいる。

そういう人は、読書量を増やすより、自分の人生経験を豊富にするなどして、人格形成を改めることが肝要で、そうしないと 「 本代 」 が無駄になる。

寺山修司の著書に 『 書を捨て、街に出よう 』 という佳作もあるが、まさに、人生経験が足りないと、読書も、知識も、正しく身につかないものである。

当然、それでは 「 精神 」 に良い効果をもたらすことにもならないだろう。






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2006年09月17日(日) 愛の言葉



「 たのむから黙って、ただ愛させてくれ 」

                    ジョン・ダン ( イギリスの詩人、聖職者 )

For God's sake hold your tongue, and let me love.

                                  John Donne



世界の名言を蒐集してみると、「 愛に関する言葉 」 が大半を占める。

本当に愛する者は、雄弁である必要などなく、ただ愛すればいいのだが。


若い男女は、恋人から、携帯やパソコンに 「 メール 」 をもらった後、その内容を保存 ( 長期に亘って ) したり、何かに記録しているのだろうか。

私の場合、意図的に消去することはないが、特に残そうともしていない。

先日、部屋を片付けていたら、かなり昔に頂戴した 「 ラブレター 」 が出てきて、懐かしく読み返してから、また、ストックしている手紙の束に収めた。

キーボードを叩いて転送されたものと、自筆で紙にしたためられた手紙では、受け取る側の 「 扱い方 」 に差があり、簡単には捨てられないようだ。

手紙の場合は、書く側も、言葉の選択が慎重になったり、豊かな表現力を発揮しようとするので、メールよりもエネルギーを使っているのだろう。


通信手段が発達したことで、コミュニケーション・ツールは豊富になったが、言葉による細やかな意思の伝達能力は、総体的に退化したかもしれない。

古い手紙を読み返すと、昔は学生や若者でも、相手に対する想いを正確に伝えようと、当時の女性は巧みに言葉を操っていたものだと感心する。

けして、自分が 「 言葉巧みな女性 」 とばかり交際していたわけではないだろうし、彼女たちに特別な文才があったとも考え難い。

ただ、現在の40歳以上の女性たちには、若い頃から 「 美しい日本語 」 を使おうとしたり、細かい感情の機微を伝える修練が培われていたようだ。

だから、すべてではないけれど、その年代の女性の手によるブログなどは、心地よく読めるものが多く、懐かしさや安らぎを与えてくれたりもする。


その点、男の書く 「 ラブレター 」 は、今も昔も、さほど変わり映えしない。

自分では何を書いたか憶えてないが、昔の彼女の手紙に 「 TAKA から、○○○○ と言われて嬉しかった 」 と、内容を推察される記述があった。

それだけでも、実に 「 こっ恥ずかしい 」 のに、きっと、相手に渡した手紙には、陳腐な愛の言葉が延々と繰り広げられているに違いない。

そんなものが世に出れば、赤面どころか、コツコツと積み重ねてきたすべての 「 地位や名誉 」 も、瞬時に音を立てて崩れ去るといって過言ではない。

昔の彼女の家が火災にでも遭ったか、シュレッダーで裁断され修復不能となったか、ともかく地球上から消滅していることを祈るしか術はないだろう。


今も昔も変わらないなと感じたのは、書店で若い男性の 「 口説き文句 」 について書かれた本を、何気なく眺めたときのことである。

20年以上も前に自分の言った台詞が、ほとんど同じように使われている。

それは、「 今はカッコ良くないけど、“ 年をとったらカッコ良くなるタイプ ” だと言われるので、それまでずっと、側で見ててくれない? 」 というものだ。

お相手の女性は、手紙を書く能力は高かったけれど、若いときにカッコ良くない奴は、年をとっても “ パッとしない ” ことに気づく分析力が乏しかった。

そのおかげで、陳腐な台詞でも射止められたのだが、今も昔も男というのは、愛を語る能力が低く、創造性に欠けた生き物だと感じる瞬間だった。






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2006年09月16日(土) 麻原彰晃 と 植草一秀



「 世界は非情である。

  無価値な人間、みずから無価値になる人間が生きられる場所はない 」

                       V・S・ナイポール ( イギリスの作家 )

The World is what it is ; men who are nothing, who allow themselves
to become nothing, have no place in it.

                                   V.S.Naipaul



先天的に、最初から 「 無価値な人間 」 がいるとは思わない。

人並みの努力を怠り、「 みずから無価値になる人間 」 がいるだけだ。


世間を震撼させた 「 オウム真理教 」 の 麻原彰晃 こと 松本智津夫 被告 について、最高裁は東京高裁決定を支持し、事実上、死刑が確定した。

熊本の畳職人の家で生まれた彼は、隻眼であるために、6歳から20歳までを寄宿制の 熊本県立盲学校 で過ごし、そこで鍼灸術を学んだという。

同校を卒業後、東京大学文科一類 を目指したが、受験に失敗する。

その後、鍼灸院や薬局の経営を行ったが、傷害事件で罰金刑を受けたり、保険料の不正請求が発覚したり、薬事法違反で逮捕されたりしている。

1984年、渋谷区内で ヨガ の道場 「 オウムの会 」 を結成し、86年には 「 オウム真理教 」 と改称、95年の逮捕まで、非道の限りを尽くした。


報道番組の論客として人気のあった 植草一秀 は、早稲田大大学院教授を務めていた04年4月、東京都迷惑防止条例違反容疑で逮捕された。

JR 品川駅の構内で、女子高生のスカートの中を手鏡でのぞこうとしたとの罪状で、彼は否認しつつも、罰金50万円を支払い、控訴もしていない。

98年にも、痴漢行為で神奈川県迷惑防止条例違反により逮捕された前科があったのだが、当時は無名だったので、あまり話題にならなかった。

今年の4月からは、名古屋商科大大学院 で教壇に復帰していたのだが、先日、列車内で女子高生に痴漢行為をし、現行犯で逮捕された。

過去の2件は罰金刑だったが、今度は 「 実刑 」 となる可能性もある。


この 二人 には、「 東京大学を受験 」 したという共通点がある。

麻原は失敗したが、植草は合格し経済学士を取得、卒業後は 野村総合研究所に入社、大蔵省、京大、スタンフォード大の研究員などを経験した。

逮捕時の役付が 「 教祖 」 と 「 教授 」 だったというのも、なんとなく語感的に似ていて面白いが、二人とも 「 前科があった 」 という共通点もある。

逮捕される直前、片方は 「 ペテン師 」 と呼ばれ、もう片方は 「 エリート 」 と呼ばれていたが、いまでは二人とも 「 悪質な常習犯 」 と呼ばれる。

まさに、「 みずから無価値になる人間 」 の典型的な例であろう。


人間の価値は、「 どんな知識を持ち、どんな能力があるか 」 ではなく、どのような姿勢で、人生を 「 どう生きるか 」 によって決まる。

いくら口先で立派なことを言っても、自分の能力の高さを吹聴しても、それを社会のために役立てもせず、空回りさせていては意味がない。

そういう 「 無価値な人 」 は、案外、我々の身近なところにもいる。

たとえば、「 他人より有能である 」 と自画自賛しながら、頻繁に会社を休んだり、「 人並みに当たり前のことができない 」 というビジネスマンも多い。

麻原のように、植草は 「 死刑 」 を求刑されはしないが、表舞台に居場所を失ったことに変わりはなく、すべて 「 自業自得 」 であることも間違いない。






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2006年09月15日(金) 豊かさと礼節の関係



「 空腹な人間は宇宙に絶望しないし、そもそも宇宙のことなど考えない 」

           ジョージ・オーウェル ( イギリスの作家、ジャーナリスト )

People with empty bellies never despair of the universe,
not even think about the universe for that matter.

                                  George Orwell



多くの日本人は、昔の 「 大名レベル 」 の贅沢な食事をしている。

持家比率は世界のトップクラスで、週休二日制が定着し、休日数も多い。


日本には 「 衣食足って礼節を知る 」 という “ ことわざ ”があって、それは 「 生活が豊かになり、初めて礼節が重んじられる 」 という意味だ。

ところが現在の日本は、歴史上かつてない豊かさに恵まれているにもかかわらず、礼節は地に墜ち、耳を塞ぎたくなるような報道で溢れている。

親が子供を虐待死させ、子供は家に放火し、公務員は飲酒運転で市民を轢き殺し、教師は女生徒を陵辱し、阿鼻叫喚の 「 地獄絵図 」 が広がる。

近頃では 「 礼節 」 を見出すことなど困難で、前述の 「 衣食足って礼節を知る 」 という言葉の信憑性を、日々、疑いたくなるばかりだ。

少し前の日本は、今ほど豊かではなかったかもしれないが、もうちょっとは、礼儀とか、人情とか、世間の結びつきがあったように感じてならない。


礼節が 「 崩壊 」 した理由として、親兄弟、隣近所、友人、夫婦、師弟などの人間関係が、近年、著しく変化したことが大きいのではないかと思う。

昔は、親が少々頼りなくても、「 子供は町内で育てる 」 ような気風があり、よその子も遠慮なく叱りつけ、善いことをすれば褒め称えた。

今は、「 プライバシーの保護 」 が進み、隣近所は干渉しないのが当たり前になり、子供の養育や躾の役割を、すべて親が担う時代となった。

ところが、生き方や価値観の多様化が認められ、親といえども子供の奴隷ではなく 「 一人の人間 」 としての自由や、個性、権利を主張し始める。

その結果、親であることを忘れたわけではないが、個人的な趣味や、生き甲斐、楽しみを犠牲にしてまで、子育てに集中しなくなる親が増えてきた。


学校では、一切の体罰が禁止され、かつての 「 師弟関係 」 は消滅して、先生と生徒の間柄は、いつからか 「 友達関係 」 に変わってきた。

夫婦、友人の関係も、携帯電話やメールで 「 いつでも連絡がとれる 」 ようになり、逆に、相手の様子を気にかけたり、思いやる機会が減ってきた。

日本人は徐々に、「 集団 」 から 「 個 」 の時代に変わってきたのである。

欧米流の 「 実力主義 」 という思想の 「 悪い面 」 ばかりを取り入れ、対人関係の不調和が目立ち、他人と協力して何かを成し得る技術が衰退した。

豊かにはなったけれど、大切な 「 礼節 」 を失ってしまったようだ。


ときおり、「 個人主義 」 と 「 利己主義 」 の違いを知らない人をみかける。

外資系企業などの提唱した実力主義は 「 個人主義 」 のことで、それぞれの社員が互いの役割を果たし、協力して全体の発展に寄与することだ。

ところが、それを 「 自分の功績さえ上がればいい 」 のだと勘違いし、自分勝手な行動に走ったり、自分の権利、手柄ばかりを主張する人も増えた。

利己的な姿勢は、勤務する企業や同僚との連帯感を失い、常に 「 集団 」 ではなく 「 個 」 で接するため、誰に対しても疑心暗鬼になる。

他人が 「 自分よりも、いい思いをしているのではないか 」 という疑念から、妬みやすく、「 何でも他人のせいにする 」 一種の人格障害に陥っていく。


利己主義な人でも、一時的には仕事が上手く運び、成功することがある。

しかし、自分の手柄や苦労、権利ばかりを主張して、他人の悩みや、痛みや、保護すべき権利を理解しようとしないので、周囲から浮いてしまう。

企業や同僚からは、「 能力はあるが、使えない奴 」 だとか、「 個人の業績は挙げられるが、全体の生産性を落とす奴 」 といった評価を下される。

そうなると、本人も仕事がつまらなくなり、定時に出社し、人並みの仕事をすることさえ困難になって、ついには、社会生活に適応できなくなる。

いよいよ生活に困ったら、企業を敵に回して個人の権利を訴え、「 会社のせい、国のせいで、こうなった 」 と、「 集団 」 に 「 個 」 で立ち向かう。


豊かな社会になり、空腹に苦しむ人が減ったのは良いことだが、衣食住が足りて、「 礼節 」 ではなく、「 利己的な野心 」 を身に付ける人もいる。

自分が豊かになったことを振り返り、他人に感謝する姿勢を忘れない人は 「 礼節 」 を重んじるようになり、そうでない人は逆方向へ向かう。

たとえ実力主義の世の中になっても、周囲に感謝する姿勢さえ失わなければ、それを利己主義と取り違えることなど、滅多にないはずである。

親子も、隣近所も、師弟も、お互いの権利ばかりを主張しないで、連携して全体が成功するように導ければ、ほとんどの人間関係は上手くいく。

その過程で自然と発生するのが 「 礼節 」 であり、無理やり子供に押し付けたり、他人に強要しても、社会がよくなるわけではないだろう。






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2006年09月14日(木) 職業適性の重要度



「 火熱に耐えられなければ、台所から出て行くべきだ 」

          ハリー・S・トルーマン ( アメリカ合衆国第33代大統領 )

If you can't stand the heat, get out of the kitchen.

                               Harry S.Truman



繁華街の夜、居酒屋にサラリーマンが集まり、がやがやと騒いでいる。

部下の愚痴、上司の愚痴、家庭の愚痴、愚痴、愚痴、愚痴である。


私も長く、勤め人だったが、退社後に会社の愚痴をこぼしたこともないし、打ち合わせなどを兼ねた飲み会以外は、あまり仕事の話もしなかった。

仕事中は自分の使命と役割を果たすことに集中し、その時間が過ぎれば、できるだけ自分のやりたいこと、仕事以外のことに時間を使いたかった。

今夜も、居酒屋で愚痴をこぼす諸氏を眺め、連れは 「 みっともないな 」 と見下していたが、私は、「 彼らは会社が大好きなんだよ 」 と評した。

仕事が終わってまで、仕事のことや、会社の話題に執着し、話し足りないというのは、私のような忠誠心の薄い人間にとって、まるで理解が及ばない。

できるなら、企業に対するその 「 情熱 」 を、本来、語るべき相手に、語るべき場所で、酒の力を借りずに熱弁されると、さらに建設的だと思う。


最近、親子が殺しあう事件が多いけれども、事実、愛情のこもった憎しみはただの憎しみより深く、憎しみのこもった愛はただの愛よりも強い。

だから、勤務する会社への不満や愚痴が多い諸氏は、そうでない同僚よりも、本当は会社に期待し、愛したい、愛されたいと願う気持ちが強いのだ。

ただし、男女の恋愛と同じで、「 愛し方を間違っている 」 と、相手に疎まれたり、嫌がられたりして、結果的に印象を悪くしてしまうことが多い。

経営者と違い勤め人の場合は、「 本当に嫌なら、辞めればいい 」 わけで、愚痴を言いつつも残留する人は、「 好きで続けている 」 としか言えない。

彼らが語る通り、そんなに 「 最悪な職場 」 ならば、そこで無理して働かなくても、世の中には無数の働き場所や、様々な選択肢が用意されている。


職業的なストレスや、プレッシャーが重荷となり、心身の調子を崩してしまうといった御仁は、特に、「 嫌なら辞める 」 ことが望ましい。

仕事のストレスやプレッシャーは、たいてい 「 その人にとっては、ストレス 」 だったり、「 その人にとっては、プレッシャー 」 であることが多い。

他の人には 「 なんでもない仕事 」 だったり、あるいは、重圧に耐え切れず転職した途端に、他の分野では難易度の高い仕事がこなせることもある。

転職すれば所得が下がることも心配だろうが、精神や肉体を破壊してまで 「 似合わない舞台 」 にしがみつくなんてことは、良い結果に結びつかない。

皆、「 似合わない舞台なら降りる 」、「 嫌な仕事なら辞める 」 のが適切だ。


小さいニュースだが、飲酒運転で懲戒免職となった中学の元男性教諭が 「 免職処分は重すぎる 」 と、市人事委員会に不服申し立てをした。

別に事故を起こしたわけでもなく、飲酒の検問に引っかかっただけなので、これが一般の会社員なら、「 懲戒免職 」 とは、極めて重い処遇だろう。

しかし、子供たちに 「 人の道を説く 」 などという、とてつもなく重責の掛かる職業を選んだのは、他の誰でもなく 「 彼自身 」 なのだ。

懲戒免職にならずとも、飲酒運転を 「 懲戒免職になるほど、重大な誤りではない 」 などと語っている時点で、教師としての適性は 「 0 」 である。

その点に気づいて、潔く 「 もっと、自分に合った舞台 」 を見つけ、出直して活躍してもらうことを、彼には期待する。






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2006年09月13日(水) ワーキングプア と 多重債務者



「 俺が酒を売ると “ 密造 ” と呼ばれるのに、俺のお得意の連中が豪邸で

  銀の盆に乗せて出すと、それは “ もてなし ” と呼ばれるんだ 」

                アル・カポネ ( アメリカ禁酒法時代のギャング )

When I sell liquor, it's called bootlegging ; when my patrons serve it
on silver trays on Lake Shore Drive, it's called hospitality.

                                    Al Capone



お金が必要ならば、真面目に働いて稼ぐことが一番である。

真面目に働かない人間が貧乏なのは、いわば、当たり前であろう。


ところが現実には、そこそこ一生懸命に働いているにも関わらず、所得が低いために苦労している人々がいる。

最近では、そういう人たちのことを “ working poor ( 働く貧困層 ) ” と称したり、あるいは 「 負け組 」 として分類する風潮がある。

理由は様々だが、たとえば、会社をリストラされ、家のローンなどの支出は減らないのに、再就職が上手くいかず、所得の落ちた人などが代表的だ。

アルバイトを3つも 「 かけもち 」 して、それでも前職の収入に満たない人や、長時間労働の激務に耐えながらも、生活苦にあえいでいる人も多い。

また、そんな苦労を強いられている 「 親の実情 」 をみて、将来に悲嘆する若者や、夢を持てなくなってしまう子供たちもいる。


基本的に私は、「 自分の幸福は、自力で掴むもの 」 という主義で、自分が不幸な原因から目を逸らし、他人に責任をなすりつける人間が嫌いだ。

その代表格が、何かといえば 「 総理大臣が悪い 」 のだと批難する人種で、思い通りの社会にならない苛立ちを、すべて宰相のせいにする。

3日と空けずにブログで悪口を言ってるので、 「 小泉さんが辞めたら、どうするつもりだろう 」 と眺めてたら、案の定、次は安倍さんの悪口を始めた。

ここまでくると見事で、その徹底ぶりには、ちょっと 「 感動 」 すらおぼえたが、良い子は真似しないほうがいい。

生い立ちや環境に関係なく、「 自分のことは、自分に責任がある 」 ことは普遍の鉄則で、政治や社会情勢がどうあっても、その原理は変わらない。


もちろん私も、青筋立てて批難しないだけで、小泉総理の政策や、姿勢に対し、「 これは失敗だったな 」 とか、「 問題が多い 」 と感じる面はある。

彼の最大の失策は、「 人材派遣適用業種の規制緩和 」 だと思う。

規制緩和というより、それまで業種・業態で限定されていたものを、すべて フリー にしてしまったのだから、その反動は大きかった。

もちろん、規制があっても 「 抜け道 」 はあったので、非正社員雇用の割合は増える状況にあったが、公然と解放したことで歯止めが利かなくなった。

猫も杓子も、派遣社員、パート・アルバイトの雇用を促進し、あるいは作業のアウトソーシング ( 外注 ) 化が進み、正社員の雇用機会が激減した。


正社員が減ることで企業は固定費が削減され、一時的に利益が伸びる。

ところが日本全体をみると、所得の低い非正社員の割合が増えることで、消費は低迷し、国内マーケットの購買力は ガタ落ち になってしまった。

非正社員雇用でも所得の高い人はいるが、将来的に安定の目途が立たず、何の保障もないために、結婚したり、子供をつくろうとする人は減る。

実力に応じた格差社会の実現は結構だが、雇用の不安定な社会構造は、けして国益に叶ったものでなく、政策がそれを加熱させたことは大失敗だ。

駅のホームや街頭で、やたらと 「 人材派遣会社 」 のポスターを見かけるようになったが、これこそが “ working poor ” を生み出した悪因である。


政策以外に、姿勢として 「 小泉さん、それはないんじゃない 」 と不満に思う点は、頑張っている若手に 「 サポート 」 が足りなかったところだ。

最近では、後藤田 金融・経済財政担当政務官が、我が身を辞して金融の腐敗に一石を投じたのに、ほとんど何もしなかった件などが挙げられる。

銀行を中心とした日本の金融界は、とにかく腐っていて、ゼロ金利で未曾有の利益を挙げながら、預金者に還元もせず、自分勝手も甚だしい。

過去においては大蔵省も片棒を担ぎ、好き勝手にやらせていたが、さすがに度を越して衆人監視を浴びるようになり、金融庁の監視下に置かれた。

その後、次々と銀行の闇部が明らかにされ、摘発を受けるようになったが、盗人猛々しく、「 やりすぎだ 」 などと追求を逆恨みする声も出始めた。


銀行は儲かっているが、世間では 「 下層社会 」 という言葉が流行するなどして、“ working poor ” と呼ばれる人たちも増えてきた。

金持ちには媚を売るが、資産もなく、収入も低い人たちは、鼻にもかけない銀行が、彼らの生活を助けるはずなどない。

以前から、そういう傾向があったうえに、監督官庁の指導の下、不良債権処理を求められているのだから、当然の措置だと開き直るだろう。

そして、とことん困り果てた人たちが向かうのは、「 サラ金 」 である。

彼らとて商売なのだし、借りた人は当然、利息を付けて返す義務があるのだから、それを悪いとも、可哀相とも思わないが、違法な場合は別だ。


消費者金融の上限金利には、「 利息制限法 」 と 「 出資法 」 の二種類があり、その中間が 「 グレーゾーン金利 」 として存在する。

高金利が原因で返済に苦しむ 「 多重債務者 」 らを救済すべく、金融庁は自民党に提出するための 「 貸金業規制法の改正原案 」 をまとめていた。

ところが、どのような組織、あるいは人物 ( おそらくは代議士 ) の圧力が掛かったのか、最終的にまとめられた原案は、現状と何ら変わりなかった。

この原案が通れば、貸金業者にとっては好都合だし、あるいは、否決されたとしても、現状通りなので、ハッピーな結果となる。

この 「 腐った茶番 」 に呆れ果て、自らの力が及ばなかった責任を痛感した後藤田氏は、自らの職務を辞する形で、国民に警鐘を鳴らした。


若手がここまで頑張ったのだから、ぜひ小泉首相には 「 意気に感じ 」 て、それをサポートしてもらいたかった。

イラク戦争に荷担したとか、憲法改正で自衛隊に 「 人殺し 」 をさせるのかと息巻く人も多いが、人を殺すのに必ずしも 「 銃や弾薬 」 は要らない。

低所得者層を量産し、多重債務に追い込み、貸金業者に儲けるだけ儲けさせて、気の弱い人間を 「 自殺 」 に追い込めば、人は殺せる。

ちなみに、業務提携という体裁で、大手の 「 貸金業者 」 に資金を提供し、実際にそれを懐柔しているのは、ご存知の通り 「 銀行 」 である。

冒頭の、「 カポネ 」 と 「 お得意の連中 」 を、この関係に置き換えてみれば、なぜ、「 日本の金融業界は腐っている 」 のか、よくわかるだろう。


久々に長文となったが、多くの国民を死まで至らしめる可能性が高いのは、イラク戦争への参加でも、憲法改正による集団的自衛権でもない。

怠けず真面目に働いても暮らせない “ working poor ” を量産して、彼らの多くを 「 多重債務者 」 に追い込み、高金利を課すことである。

それを防ぐには、たとえ法的拘束力を発動する必要があっても、労働体系を元に戻し、賃金格差はあったとしても、正社員雇用を増やすべきだろう。

また、本来 「 ダークな存在 」 であった消費者金融市場を、やはり、元通り縮小し、喫煙と同じく 「 なるべく、やめときなさい 」 と指導したほうがよい。

そして、その影で甘い汁を吸っている銀行には、「 もう少し、国民のためになるサービス 」 が提供できるように、体質改善を求めることが望ましい。






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2006年09月12日(火) 9.11 の英雄



「 本当の英雄とは、まちがって英雄になってしまった人だ。

  英雄も普通人と同じように、正直な臆病者になることを夢みている 」

                          ウンベルト・エーコ ( 評論家 )

The real hero is always hero by mistake ; he dreams of being
an honest coward like everybody else.

                                  Umberto Eco



凶悪な殺人鬼が、何の罪も無い人々を大量虐殺したとしよう。

その犯人を捕らえ、死刑にすると、「 死体を一つ増やす 」 ことになるのか。


悪夢の 「 9.11 」 から五年が経ち、あの日の衝撃を忘れた人、あるいは、数多くの犠牲に何も感じない人々が、それを 「 過ぎたこと 」 だと言う。

アメリカが主導する 「 テロとの闘い 」 は無意味で、むしろそれは、憎しみを増幅させ、新たなテロや惨劇を助長する悪行だと説く。

罪を憎んで人を憎まず、報復は無意味だと、「 殺人犯を死刑に処すれば、死体が一つ増えるだけ 」 のような論理で、聖人を気取る反戦論者たちだ。

あの日以来、テロリストに頭を下げ、その責任は一切追及せず、攻撃されたアメリカが悪いと、ブッシュや小泉総理が笑っていれば、よかったのか。

そうすることで、本当に世界からテロが無くなり、恒久的な平和が得られるのであれば、死者や遺族から憎まれ、恨まれても、彼らはそうしただろう。


あらゆる宗教を認め、その一つに 「 アメリカ人を皆殺しにすること 」 を教義にするものがある以上、信者を根絶やしにしないかぎりテロは続いてゆく。

テロ支援国家を攻撃し、捜査を充実させることで、規模の拡大を防いだり、発生件数を抑えることができたとしても、けして 「 0 」 にはならない。

だが、「 何もしない 」 ならば、さらに善良な人々の犠牲が増え続け、破壊を武器とした勢力による支配は、ますます強まるばかりだろう。

あの日の犠牲に誓い、テロの台頭を抑えるべく立ち上がったアメリカの姿勢は、善でもなければ、けして悪でもない。

アメリカ人はテロの犠牲に遭い、その後すぐに家族をイラクへと出征させる二重苦を負ったが、それは、「 そうするしかない 」 選択だったのである。


戦争に 「 良い戦争 」 も 「 悪い戦争 」 もないが、少なくともテロとの戦いは、ベトナムと違って 「 殺戮 」 が目的ではなかった。

単純に犯人を探し出して 「 殺す 」 ことだけが目的なら、もっと手っ取り早い方法で、簡単に ケリ をつける手段もあっただろう。

何者かを 「 殺す 」 ことよりも、二度と、市民が惨劇に巻き込まれず、平和に 「 生き抜く 」 権利を守りたいからこそ、時間の掛かる方法をとった。

そこで、「 9.11 」 を上回るアメリカ兵の死者が出たからといって、統計学的に 「 何もしないほうがよかった 」 と分析することなどできない。

大事なことは、死者の数ではなく、「 何のために戦ったか 」 であって、その死は、突然、無念に葬り去られた死よりも、はるかに目的と意義がある。


もちろん、それがいかなる死であっても、「 死を礼賛 」 するわけではない。

日本の TV でも、「 9.11 」 を再現するドラマが放映されたが、そこに描かれた勇気と栄光は、すべて 「 生きるための努力 」 に他ならない。

極限状態に追い込まれ、それでも一縷の光を求めて必死に生きようとした人々の事実を目の当たりにすると、いかに命が大切かと実感する。

逆に、自爆テロや、思い通りにならないと、死ぬ素振りをみせて周囲の気をひこうとする馬鹿どもが、いかに愚かな卑怯者かが改めてよくわかる。

英雄とは、生きる勇気を抱き続け、まっとうに生きる人々の生命を守り抜く人々に与えられる称号で、常に、死んで片をつける クズ とは対極にある。






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2006年09月11日(月) 9.11 米同時多発テロから 5年



「 豹は、その斑点を変えられない 」

                                       聖書

The leopard cannot change his spots.

                                   The Bible



欧米で使われる諺だが、由来は 旧約聖書 Jeremiah 13章23節からだ。

人の本性は変わらず、悪人に生まれれば、いつまでも悪人という意味。


戦争とは何かという質問に、「 ある平和な時期と、次の平和な時期の間の、休憩時間 」 と答えた人がいて、辛らつだが面白い見方だと思った。

利害関係のある同士が、互いに譲り合うことで平和を保つことは、たしかに理想的ではあるけれども、現実問題として難しい。

A.B 両国間が平和に保たれる可能性は、「 A=平和、B=平和 」 を選択する場合にかぎられ、どちらか一方が和平を拒めば、戦争は起きる。

また、どんな独裁政権であろうとも、( 勝ち目のある ) 戦争は一人で起こせるものでなく、支配層よりも、むしろ大衆の世論で決まりやすい。

トップが平和主義か、武闘派かという点は、評論家が 「 こじつける 」 ときに持ち出すだけの結果論であり、戦争勃発の直接的な原因ではない。


未曾有のテロによる衝撃から5年が過ぎ、また 「 9.11 」 がやってきた。

すべての死者を合計すると、2973人とされているが、ビルの残骸に含まれていたと考えられる約1100人の遺体は、最後まで発見されなかった。

イラク戦争を、「 アメリカが始めた 」 と公言する人もいるが、一国に甚大な被害を与えた事実を、「 攻撃 」 ではなく、「 単なる犯罪 」 とは考え難い。

したがって 「 9.11 」 は、当時、全米のメディアがこぞって伝えたように、「 真珠湾攻撃以来 」 の先制攻撃とみなすのが妥当であろう。

アメリカが 「 対テロ戦争 」 と名付け、アフガンやイラクに報復を開始したのも、けして、彼らが好戦的な性格であったことによるものではない。


アメリカには、日本の 「 小人閑居して不善を為す 」 と同じ意味の 「 何もしないことは悪をなしていること Doing nothing is doing ill 」 という諺がある。

惨劇の報復は、家族、同朋の犠牲に報いようと、大多数のアメリカ国民が望んだことであり、大統領一人が決めたわけではない。

仲間が殺されたことに対する私怨による 「 目には目を、歯には歯を An eye for an eye, and a tooth for a tooth 」 があったのも事実だろう。

ただ、大統領の支持率が一時 9割に達したことは、その証拠にならない。

アメリカは伝統的に、「 戦時には現職の大統領を批難しない 」 という風潮があり、それこそが、彼らの 「 強さ 」 に結びついているからだ。


阪神大震災も、「 9.11 」 も、身近な人間が被害に遭い、その直後に悲惨な現場を訪れた人間と、そうでない傍観者の間で評価は違う。

アメリカの報復に否定的な人々の大半は、痛みを知らない傍観者であり、ある意味、上っ面は、冷静で知的に平和を唱えているようにも見える。

ただし、その大部分が 「 血の通った意見 」 ではないので、実害を受けた人々の胸を打ったり、共感させるには程遠いのが実態である。

テロとの戦いは、「 憎しみの連鎖を増幅させるだけ 」 と冷ややかに語るのは簡単だが、「 豹の斑点 」 と同じく、話し合いで変えられないものもある。

あれから5年経ったが、救出や清掃に当たった約1万名のうち7割の人が、「 粉塵 」 などの影響で呼吸障害に苦しみ、後遺症は癒えていない。






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2006年09月10日(日) 続発する公務員の飲酒運転による事故



「 成功した企業は、きまって誰かが、かつて勇気ある決断をした 」

    ピーター・F・ドラッカー ( アメリカの経済学者、経済コンサルタント )

Whenever you see a successful business, someone once made
a courageous decision.

                                Peter F.Drucker



同じ問題が慢性的に解決できない組織と、そうでない組織がある。

解決できない組織は、トップが優柔不断で、決断力に乏しいケースが多い。


組織の構成員 ( 会社でいえば、その従業員 ) が犯罪や、交通違反をした場合、過去においてそれは、すべて 「 個人の責任 」 だと認識されてきた。

たしかに、その人間以外は法規を遵守し、真面目に働いていたとすれば、組織そのものに問題はないのかもしれない。

しかし、その組織の人間が、共通して、同じ種類の犯罪に数多く走っている場合は、組織の環境や、指導、教育に問題があるとも考えられる。

セクハラで企業そのものが訴えられたり、職場ストレスによるうつ病が労災認定されるようになった背景にも、その考え方が大きく影響している。

もちろん、「 一番悪いのは当事者 」 なのだが、組織の長には、それを構成する各人が、健全で、社会倫理に反さぬよう、指導、教育する義務がある。


福岡では、市職員による飲酒追突事故で、幼児3名の命が失われるという悲惨な事故があって間もないが、今度は、県職員の不祥事が発生した。

職場旅行に出かけ泥酔した職員が、鍵の開いていた旅館客室に侵入し、一人で寝ていた女性会社員を押さえつけ、婦女暴行未遂で逮捕された。

事件の後、県総務部長は、「 日頃から節度ある行動を注意喚起してきたのに申し訳ない 」 とコメントしているが、これは謝罪文としておかしい。

前半の 「 注意喚起してきた 」 に含まれる “ 注意はしてきたので自分は悪くない ” という言い訳が、後半の 「 申し訳ない 」 に、つながらないからだ。

このように、「 とりあえず謝ってはおくけど、組織としてやるべきことはやってるよ 」 という反省のなさが、不祥事を連続させる病巣ではないだろうか。


福岡以外でも、9日には姫路市職員が酒気帯び運転で歩行者に意識不明の重体を負わせ、大分市職員は3日、酩酊で街路樹に激突し逃走した。

青森では8日、消防士が飲酒運転で乗用車に衝突し、逃走後に逮捕され、宮城では9日、飲酒検問で 「 3軒をハシゴ 」 した消防士が逮捕された。

今後、彼らは 「 ハシゴ者 」 と呼ばれても、「 ハシゴ車 」 には乗れない。

これだけ公務員の飲酒運転、飲酒事故が相次いでいる中、それが誰の目にも 「 しでかした本人の問題 」 では済まされないことは明らかだ。

組織内の倫理風土、管理体制に問題があるとみて、ほぼ間違いないと思われるが、では、どのように改善するのが適切であろうか。


ちなみに、昨年度 ( 2005年度 ) だけで、なんと 2251人 もの公務員が、道路交通法違反で 「 懲戒処分 」 を受けている。

あくまでも 「 懲戒処分 」 を受けた人数であって、穏便に隠蔽されたり、軽い注意で済まされた ケース などは、もちろん含まれていない。

また、本来は子供たちに交通安全を説くべきはずの教職員も、ここ4年間で 466人 が道路交通法違反 ( 大半が飲酒 ) で、懲戒処分となっている。

北海道、岩手、福島などでは、役所勤めの公務員より、その数は多い。

その理由として、市役所などが駅前にあることに対し、学校は郊外に多く、マイカー通勤が多いためだというが、何の言い訳にもなっていない。


一般人と同じく、公務員や教職員が車を運転しても、酒を飲んでも構わないが、やはり一般人と同じく、飲酒運転をしてよいはずがない。

ましてや彼らは、「 できるかぎり、あらゆる面において、市民の模範となるべき立場 」 であることが、理想論ではなく、実際に求められている。

それに反し、これだけ多くの法令違反者が出る背景には、断固とした処罰の徹底と、不心得者を粛清する姿勢が足りないのではないか。

福岡の事故で亡くなった三人の幼児の通夜には、市長や市の幹部が弔問に訪れ、頭を下げ 「 ( 加害者の ) 懲戒免職を検討する 」 と陳謝した。

普通の会社なら 「 検討する 」 ではなく、即刻 「 クビ 」 であって、このように職員の管理体制が甘いから、違反者がたえないのではないだろうか。






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2006年09月09日(土) 中国では女性のほうが仕事能力は高いという通説



「 この世に良い女は二人しかいない。

  その一人は死んでいて、もう一人は見つからない 」

                                  英語のジョーク

There's only two good women in the world ;
one is dead, the other not found.

                                  English joke



英語のジョークや、ことわざには、徹底的に女性を攻撃したものが多い。

洋の東西を問わず、女性に苦労する男性が多いことを表しているようだ。


女性を指す [ women ] は、[ woe + men ( 男性に災いをもたらすもの ) ] からできたという説もあるが、もちろん、これは冗談半分の語源説だ。

このようなものを、[ fork etymology ( 通俗、民間語源説 ) ] という。

いかに、ジョークやことわざの世界で女性を蔑視しようとも、現実社会では近年特に女性が強くなっており、あらゆる分野で才能を開花させている。

業界によって差はあるだろうが、女性の管理職も急増しており、ようやく少しづつではあるが、ビジネスの世界にも男女同権が浸透してきた。

私の交渉相手にも、なかなか手強い女性が現れ始めている。


最近、生産基地を中国に構える企業が多いため、電話、FAX、メールなどで、中国の公司 ( コンス = 日本でいう会社 ) と日々、連絡している。

中国では、「 平均的にみて女性のほうが仕事能力は高い 」 という通説が当たり前のように認識されていて、事実、そう実感する場面も多い。

彼らの能力を十分に発揮させるため、東京、大阪の クライアント と調整をはかっているのだが、中国側の意見に押され気味である。

中国は、「 納期、品質に関する意識が低い 」 という不満は、開発が進んだ上海などの沿岸部においては、もはや過去の話で、急激に進化している。

そして、その窓口として活躍しているのは、スキルの高い中国女性である。


9月の中旬から、懐かしい旧友を訪ねて、カナダ、アメリカへ静養に行こうと考えていたが、彼女たちの猛反対に遭って、頓挫してしまった。

中国では、2月 ( 旧正月 )、5月 ( メーデー )、10月 ( 建国記念日 ) に合わせて連休があり、各1週間ほど作業が滞る。

結局、その時期まで 「 仕事を休むな 」 という要望を呑むことになり、今月末まで 「 旅行はお預け 」 ということになってしまった。

近い将来、こちらも上海や、その周辺に行く予定をしているが、こちらから費用を出して、彼女たちにも来日する機会を与えようと考えている。

その話をすると、嬉々として、ブランド衣料や、バッグなどの買い物に意欲を示すあたりは、女性として 「 万国共通 」 の部分なのかもしれない。






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2006年09月08日(金) 19歳 殺人犯の自殺



「 死刑の判決を受けても、文句一つ言わない人は、たくさんいるだろう。

  運命の女神が、もう片方の手に握っている “ 生きよ ” という判決から

  逃れられるならば 」

         T・E・ロレンス ( アラブ対トルコ独立運動を指導した英雄 )

Many men would take the death-sentence without a whimper to escape
the life-sentence which fate carries in her other hand.

                                 T.E.Lawrence



映画化され有名になった 「 アラビアのロレンス 」 が、遺した言葉である。

生涯を、波乱万丈の冒険に投じた英雄でさえ、生きる難しさを説いている。


人生のある一時期に、「 自分だけが不幸だ 」 と思い込んだり、疲れたり、不愉快なことがあったりして、「 死にたくなる 」 人は多い。

気持ちが沈んで内省的になったときに、「 死んだほうが楽かもしれない 」 と思う程度の誘惑と、葛藤した人も少なくないだろう。

そういう誘惑に勝つためにも、こんな思いは、ごくありふれた平凡なものであり、けして奇異な感情ではないと、承知しておいたほうがいい。

幸せに見える人も、多くは努力して辛苦に耐え、ようやく、苦労の数に幸せの数が追いついてくるようになっただけで、さほど恵まれた境遇でもない。

自分のことしか考えずに、周囲が見えていないから 「 自分だけが不幸だ 」 などと 「 うつ状態 」 に陥り、とんでもない勘違いをしでかすのである。


生きることの大変さは、誰しも経験しているので、思わず 「 死にたくなる 」 心情を、まるで理解できないわけではない。

ただ、「 理解できる 」 ことと、「 許せる 」 ことは違う。

実際、過去に自殺を企図して、いまでも日常的に 「 死にたい、生きることが辛い 」 と口にする人なら、他人が自殺したい気持ちも理解できるはずだ。

ところが、その息子が彼に 「 では、僕も自殺します 」 と言った場合、「 私も死にたいので気持ちはわかるから、死んでいいよ 」 とは言わないだろう。

自分が死ぬのは 「 正しいこと 」 で、他人が自殺するのは 「 悪いこと 」 といったふうに、「 自分だけは特別 」 という異常な感覚が、そこに存在する。


結局そういう人は、長く険しい人生に、勇気をもって耐え抜く忍耐も嫌だし、自分の愛する家族が死んで、その悲しみに耐えることも嫌なのである。

自殺企図者でさえ、自殺という行為は、家族への愛情も果たさず、自分に期待した友人、知人を平気で裏切ることであると、他人には厳しく語る。

その矛盾を知りながら、ことあるごとに 「 自殺するぞ 」 と吹聴したり、たまに、首を吊るポーズなどを示す厄介者が、特に日本には多い。

彼らが、「 命を粗末にしている 」 ことは、本人も含め誰の目にも明らかなのに、他人には 「 命は尊いもの、命を大事にしましょう 」 などと言う。

その身勝手さには、呆れ返って笑うしかないのだが、「 自分は特別 」 という異常な思考回路は、いつまでたっても治らないのである。


山口県で女子学生を殺害した19歳の男子が、遺体で発見された。

殺害直後に首を吊って自殺したらしく、遺体は腐敗し、一部は白骨化し始めていると、状況について発表された。

殺人という、取り返しのつかない凶行ではあるが、19歳という若さからか、世間には 「 何も自殺までしなくても ・・・ 」 と、残念に思う人が多い。

また、程度の低いマスコミは、「 少年を “ 自殺に追い詰めた ” 理由 」 など追求し始め、その 「 責任者 」 をデッチあげようとする。

自殺に追い詰めた理由は、「 罪もない少女を殺した 」 狂気の犯行であり、その犯人も少年自身であり、それ以外には何の理由も、誰の責任もない。


殺人を犯してから自殺したわけだが、逆に、「 自殺するような “ 命を粗末にする クズ ” だから、他人の生命を平気で奪った 」 のだとも言える。

生きることは、なかなか大変な仕事だけれども、けして自分だけではなく、誰もがその辛さに、もがき苦しみながらも、大部分は、それに耐えている。

たとえ苦労に耐え切れず、死にたいと思ったとしても、「 命を粗末にしてはいけない 」 ことを思い出し、自分も他人も傷つけないように努力する。

それが、「 世間の 99% 」 であって、それでも格好つけて 「 自分は特別 」 だと言い張るなら、それは即ち 「 100人中の ビリ 」 と認めるのと同じだ。

少年は首を吊り、司法の追及から逃れたかもしれないが、その両親は自殺後も謝罪文を綴り、被害者の遺族の無念も、けして晴れることはない。






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2006年09月07日(木) 親王殿下の御誕生にお慶びを申し上げます



「 母性愛、すべての愛はそこに始まり、そこに終わる 」

             ロバート・ブラウニング ( イギリスの詩人、劇作家 )

Motherhood; All love begins and ends there.

                               Robert Browning



秋篠宮さま以来、41年ぶりの 「 皇室での男子誕生 」 である。

この日を迎えたことを喜び、心からお祝い申し上げる。


男子が誕生したことで、皇室典範に関する論議は当面、見送られるようだ。

すべての国民にとっても同じだが、今日、この一日を、どう過ごしていたかということについて、手帳に記すなどして憶えておいたほうがよいだろう。

もし将来、この男子が皇位を継承したときに、「 新しい天皇が誕生したあの日、自分はあそこにいて、あれをしていたな 」 と、振り返ることができる。

私は、皇太子殿下と同じ年 ( しかも、同じ月 ) の生まれなので、あるいは、その日まで長生きできるかわからないが、今日の良き日を憶えておこう。

ちなみに今日は、日帰りで東京に行き、新しい商談をまとめてきた。


世間には、自分の産んだ子供を虐待する鬼畜や、安易に自殺を図ることで生命を冒涜する愚か者もいて、人格破綻者連中が新聞紙面を賑わせる。

正気の人間からみれば考えられない凶行に、つい目が奪われ、嘆かわしく感じたりもするが、実際には 「 ごく一握りの不良品 」 の話である。

飲酒運転の車に追突され、自らも深手を負いながら、海に落ちた我が子を助けようと何度も飛び込み、母の愛、命の尊さを教えてくれる人もいる。

言葉や文章で、「 愛 」 だの、「 命の尊さ 」 だのと並べ立てることは簡単だが、身をもってそれを証明し、人々の胸を打つことは容易でない。

全国民が見守るプレッシャーの中、ご無事に、母子共にお健やかな状態でご出産を終えられた紀子さまも、母性愛の素晴らしさをお伝えになられた。


朝刊は、「 金融庁が与党に示した “ 貸金業規正法 ” の改正原案を容認できないとして、後藤田 内閣府政務官 が辞意を示した 」 件がトップだった。

まったくもって日本の金融業界は 「 外道 」 であり、その頂点に立つ日銀総裁は、私利私欲のためにインサイダーまがいの取引をしても悪びれない。

銀行は、自分たちのミスを公的資金の導入で救われ、何の苦労もしないでゼロ金利のおかげで暴利を挙げ、しかも預金者には還元しない。

そして銀行と、消費者金融と、金融庁は結託して 「 容認できない 」 改正案で国民をまた騙そうとしている。

普通なら、国民を馬鹿にしたこの忌々しき問題が、引き続き追求されるべきところだったが、紀子さまのご出産で、吹っ飛んでしまった。


日本の金融業界は、倫理観が欠如した超最悪の 「 ゴロツキ 」 揃いだが、それ以外の民間努力により、なんとか経済は底を脱してきた。

遅まきながら、小泉 = 竹中 コンビ による経済政策も、少しづつは成果を表わし始めてきて、まだ十分とは言えないが、景気は回復基調にある。

そこへ、本日の喜ばしい話題が重なり、日本全体が、ようやく明るさを取り戻してきた感じもする。

出産前、「 皇位継承問題にしか興味を持たなかった人 」 の中で、出産が近づくにつれ、母子の安全を願い、朗報に安堵した人も多いようだ。

まさに、「 母性愛、すべての愛はそこに始まり、そこに終わる 」 である。






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2006年09月06日(水) 指名のない指名手配



「 規則は守るべきものだけど、どんな規則にも例外は認められる。

  僕も、そのひとつだけどね 」

                        映画 『 フォレスト・ガンプ 』 より

Rules are made to be followed, but there are exceptions to all rules −
and I am one of them.

            From “ Forrest Gump ” by Winston Groom



どんなスポーツにも、ルール があり、守らなければ罰則が与えられる。

茶道、華道にも、車の運転にも、それぞれ定められた ルール がある。


日頃から自分で 「 劣等感を抱いている部分 」 を誰かに指摘され、不公平な差別的扱いを受けると、たいていの人は不快に感じる。

ところが、自分だけ 「 特別扱い 」 または 「 例外にされること 」 によって、利益が生じる場合には、それを誇りとすることも多い。

話題の人気店に、一般客が長蛇の列を築く中、自分だけは 「 顔パス 」 で入れるとか、並ばずに入れるとか、良い席を確保されている場合などだ。

英米では特に、規則というものが、やりたいことを禁じ、やりたくないことを強いる掟だという意識が強いため、「 例外扱い 」 に誇りを感じやすい。

なんらかの窮屈さから解放され、例外になることが、一種の快楽でもある。


英語のことわざには、「 規則 」 と 「 例外 」 を併せ持つものが多い。

例えば、「 例外は規則のある証拠 [ The exception proves the rule ] 」 、「 例外のない規則はない [ There is no rule but has some exceptions ] 」。

この傾向は、「 いかなる状況でも正しい絶対的なルール 」 など存在しない中で、それでも規則を定めざるをえないことへの 「 逃げ道 」 でもある。

つまり、「 例外 」 という保険なくしては、危なっかしくて 「 規則 」 なぞ制定できないという事情が、そこには秘められているのだ。

不測の事態に対して、「 規則はこうだけれど、今回は例外としてこう判断をします 」 といった柔軟さが、問題解決に不可欠な場合も多いのである。


山口県周南市の徳山工業高等専門学校で起きた 「 女子学生殺害事件 」 では、19歳の男子学生が、殺人容疑で指名手配をされている。

通常、容疑者が行方をくらまし、警察から指名手配をされる場合には、氏名はもちろん、人相、体格などの身体的特徴、行動様式などが公表される。

そうすることで、警察官のみならず、一般市民からの情報も得られやすくなり、いち早く容疑者を検挙できる手立てにつながるからだ。

ところが、今回の容疑者は 「 未成年 」 であり、少年法の適用範疇にあるため、実名、顔写真、人相など、個人が特定できる資料は公表されない。

事件に興味があって、目を皿のようにして観察している人の前を容疑者が横切ったとしても、まったく気づかずに見過ごしてしまう状況にある。


杓子定規に少年法を遵守することが、この場合も正しいのであろうか。

ましてや、少年といっても容疑者は 「 19歳 」 であり、わずか数ヶ月の差であるのに、「 20歳の大人 」 とはまったく違う扱いを受けている。

容疑者の発見が遅れた場合には、彼が自暴自棄になって自殺したり、別の犯罪に手を染めたり、さらなる悲劇を招く可能性も高い。

人を殺して警察に身柄を拘留されていない者が、野に放たれているのだから、社会秩序の安寧といった面からみても、これは忌々しき事態である。

被害者の遺族の無念を鑑みても、「 20歳に数ヶ月満たない 」 という理由だけで、捜査の手を緩めるべきではないように思う。


こういう事件が起きる度、少年法の改正が論議され、その是非を問われるが、すべての事態に対応できる法整備など、短時間で出来るはずがない。

また、「 すべてにおいて落ち度がない 」 法規が出来るまで、何もしないというわけにはいかないわけで、これらは 「 法の盲点 」 ということでもない。

あらかじめ定められた少年法という 「 原則 」 に従いながらも、その都度、実態に応じた 「 例外 」 を設けながら、対応していくしか術はないだろう。

ここで問題になるのが 「 誰の責任で、誰の裁量で 」 といった点なのだが、それも、事件の社会的影響力、凶悪性などを鑑み、判断していくしかない。

法律に則って対処しているのだから、それ以上の リスク をとる必要がないなどと、警察や役人が考えているようでは、どうにも困ったものである。






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2006年09月05日(火) 中国人男性の苦悩



「 イヴは知恵のリンゴを食べるやいなや、いちじくの葉に手を伸ばした。

  女が考え始めると、まず頭に思いつくのは新しいドレスのことである 」

                      ハインリッヒ・ハイネ ( ドイツの詩人 )

As soon as Eve ate the apple of wisdom, she reached for the fig leaf ;
when a woman begins to think, her first thought is of a new dress.

                    Christian Johann Heinrich Heine



ハイネといえば、ロマンチックな吟遊詩人というイメージが先行する。

実際は、とんでもない皮肉屋で、共産主義に傾倒した哲学者でもあった。


冒頭のフレーズは、善悪を知る木の実を食べて羞恥心をおぼえたイヴが、いちじくの葉をつなぎ合わせて腰にまいたことをからかっている。

なんとなく日本では、「 ハイネの詩集 = 乙女チック 」 みたいな印象が強いけれども、このフレーズをみるかぎり、乙女心を踏みにじった感じだ。

推測だが、愛やら恋やらで、人の心に届く詩を書けるようになるまでには、異性に関する苦労や、苦い思いを積み重ねたのではあるまいか。

男女交際の経験数が多いということは、同時に、異性問題での苦労も多いということであり、いつの世も、男女が理解しあえる関係づくりは難しい。

ロマンチックな台詞で女性を誘惑しつつも、心のどこかで先の関係を憂いて溜息をつくような、そんなハイネの心境がなんとなくわかるような気もする。


とはいえ、この世に女性がいなければ、それは淋しい世界である。

厄介な面倒もない代わりに、仕事に対する張り合いや、週末の楽しみや、生き甲斐といわれるもののすべてが、半減してしまうかもしれない。

女性にとっても、それは同じようなものではないだろうか。

やはり、この世には男性と女性がいて、お互いに警戒しながらも、なんとか打ち溶け合おうと、涙ぐましい努力をするべきなのだろう。

そのためには、男性と女性が、ほぼ同比率で存在することが望ましい。


中国政府の 「 一人っ子政策 」 については、ご存知の方も多いだろう。

人口増加を、経済や、社会の発展に適応させるための人口抑制策として、1980年頃から、一夫婦の子供を一人に制限する施策がとられてきた。

多くの働き手が欲しい農村部では徹底が難しく、最近は、アメリカなどから人権面での批判を受けたことの影響もあり、少しは緩和されてきている。

しかしながら、膨大に膨らんだ人口を、さらに無尽蔵に増やすわけにもいかず、いまだに中国の出産事情は、一人っ子が原則になっている。

政策の弊害は、現在の日本をはるかに上回る、超 「 少子高齢化社会 」 が到来する危険だが、実は、もう一つ危惧すべき重要な事柄があった。


それは、極端な 「 男女人口の不均衡 」 である。

農村部を中心に、親の面倒を老後も看てくれる 「 跡取息子 」 を確保する必要性から、一人しか子供が産めないなら、男児を希望する親が多い。

妊娠時、超音波検査で男児とわかれば出産し、女児の場合は人工中絶をするという風潮が目立ち、男児の出生比率は、女児より約2割も高い。

この不均衡は、将来的に、たとえば性犯罪の増加だとか、なんらかの弊害を生み出す可能性が高く、あまり好ましい傾向ではないはずだ。

中国では、女児を大切にするよう訴える全国規模のキャンペーンを始め、将来の男女比率を是正する取り組みが、近頃は盛んに行われている。


合コンでも、グループ交際でも、男女の比率が同じだからといって、必ずや、すべての参加者にパートナーが分配されるわけではない。

たとえ女性の参加者が多かろうと、少なかろうと、人気のある男性参加者にとっては、ほとんど困ることはないのである。

逆に、魅力の無い男性は、女性が少ないと 「 空振り 」 に終わる確率が高くなり、希少な女性側は、さほど魅力が薄くてもチヤホヤされやすい。

昔、「 女性3名 : 男性12名 」 の合コンをしたことがあるけれど、血と汗と涙で築き上げた男の友情が、音を立てて崩れそうになったものである。

しかも、その 「 女性3名 」 が、取り立てて美人というわけでもなく、「 当たりの無いクジを、必死で奪い合う様子 」 は、前代未聞の修羅場であった。






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2006年09月04日(月) 神風と憲法9条



「 ゴールデンルール ( 黄金律 ) とは、この世にゴールデンルールなど

  ないというルールのことだ 」

                    バーナード・ショー ( イギリスの劇作家 )

The golden rule is that there is no golden rule.

                                 Bernard Shaw



ゴールデンルールの意味は、使われる状況、場面によって微妙に異なる。

いづれも、「 唯一、絶対の定め 」 という意味では、ほぼ共通している。


この英文は、ある種の 「 矛盾論法 」 で、「 絶対的なルールなんぞない = それが絶対的なルールだ 」 という、ちょっとヒネった表現になっている。

英文を読みこなしたり、ヒアリングを向上させるためには、こういう矛盾論法や、逆の方向からの言い方など、英文独特の表現に慣れる必要がある。

こうした表現は、言い方や論法が難しいだけで、言っている内容はたいてい簡単だから、何度も経験して慣れてしまえば、どうということはない。

ただ、「 英文読解力が途中で止まってしまう人 」 の多くが、こうした表現でつまづき、先に進めなくなることも事実なので、ぜひ慣れてもらいたい。

また、上文のように 「 ある考え方を否定するために、同じ語 ( 上文の場合には golden rule ) を使うスタイル 」 が、矛盾論法ではよく用いられている。


憲法9条が、あたかも日本の 「 golden rule 」 なのであると信じて疑わない人も多いようだが、はたしてそうだろうか。

一国の憲法が、時代の波や流行によって、簡単に変えられてしまうことにも問題はあるが、かといって、未来永劫に普遍という論理にも無理がある。

制定後、60年という歳月が過ぎ、幾多の 「 世界情勢を激変させる大きな事件 」 があったにも関わらず、見直す必要がないとは言い切れまい。

それが 「 golden rule 」 であり、過去においては効力を挙げてきたとしても、冒頭の文が示す通り、「 絶対的なルール 」 ではないのかもしれない。

北朝鮮が、イラクが、アメリカがという話ではなく、「 将来の日本 」 といった視点において、見直すべき時期が来ているように思う。


次期総理就任の可能性が高い 安倍 官房長官 は、改憲に反対する人々が少なくないことも承知の上で、憲法改正に強い意欲を示している。

とかく有権者の顔色をみながら、コロコロと意見を変える政治家が多い中で、自分の意思を明確に示す姿勢は、なかなか潔くて好感がもてる。

問題は、小泉総理にも成し得なかった 「 大手術 」 を、行うだけの実行力、統率力が、安倍 氏 や、その ブレーン にあるかどうかだ。

総裁選をみてもわかるように、安倍 氏 の意思は固くても、政治家の中には、露骨に 「 勝ち馬に乗ろう 」 とする連中が多い。

改憲勢力が弱体化したり、民意が護憲に傾きかけた途端に、手の平を返して反対に回る日和見の裏切り者も、いまは支持者の顔をして潜んでいる。


鎌倉時代には、元 ( モンゴル ) の大軍が、二度にわたって北九州に攻め込んだが、いづれも暴風 ( おそらくは台風 ) により、日本は難を逃れた。

この 「 元寇 」 以来、日本は 「 神風によって守られている 」 との思い込みが広まり、その過信は、日清、日露の勝利で増幅し、大東亜へと続いた。

平和維持や国土防衛に関して、「 神風 」 も、「 憲法9条 」 も、それは単に 「 外的要因による偶発的な成果 」 と認識しておいたほうが無難だろう。

憲法9条は、たしかに 「 日本が加害者にならない 」 という意味では効果があるけれど、「 被害者にならない 」 ための保障はまったくない。

そろそろ、過去の 「 加害者意識からの呪縛 」 から解放され、将来の日本を守る術を考える時期であり、そう思えば改憲は当然の手段であろう。






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2006年09月03日(日) クラシックの流れる家庭は要注意



「 子供は最初、親を愛するが、しばらくすると親を裁き、

  許すことはまずめったにない 」

           オスカー・ワイルド ( イギリスの詩人、小説家、劇作家 )

Children begin by loving their parents ; rarely, if ever,
do they forgive them.

                                   Oscar Wilde



子供の成長を見守るのは楽しいが、やがてその子供も大人になる。

その過程には、親を裁き、あるいは憎み、軽蔑する時期もあるだろう。


これは、親にしてみれば ショック かもしれないが、そうでなければ親離れができないのも事実で、むしろ 「 健全な状態 」 だともいえる。

親というものは、育ててくれた人として感謝すべき存在なのかもしれないが、ある意味、育てるのは当然の義務だし、本能でもある。

子供にしてみれば、さまざまな欲求を束縛されることのほうが腹立たしくて、法律上は許された自由を、親によって制止させられる場合はなおさらだ。

だから、子供に嫌われたくなかったら、なるべく親は自分の考えを押し付けたり、自分の果たせなかった夢を代行させようとしないほうがよい。

嫌われる程度ならマシだが、最悪の場合は事件にまで発展する。


親が子供を虐待死させる事件よりは少ないかもしれないが、最近、子供が親を殺す事件が各地で発生し、社会を震撼させている。

特に、北海道の稚内で起きた事件は、友人に 「 30万円の報酬 」 を渡して殺人を依頼するという、前代未聞の 「 計画性 」 が発覚し、驚かされた。

親殺しで、他人を巻き込んで共犯にするという例は、極めて少ない。

なぜならば、他人には理解し難い各家庭の問題や、個人的な悩み、憎しみなどが殺害の動機であることが多いからだろう。

今回は、殺害に関与した友人も、同じような境遇だったということだが、その友人は自分の親を殺していないわけで、100%共感していたともいえない。


親が離婚し、その後、父親が自殺していたとか、お金に困っていたというのも、最近では珍しいパターンである。

どちらかというと、家庭が裕福で、はた目には恵まれた境遇で育ったと思われる子供のほうが、家庭内殺人を引き起こす率は高い。

経済的に貧しく、家族が身を寄せ合って生きていかなければならない家庭では、親子の間で、比較的に愛情が成立しやすいものだ。

生活に追われ、必死で働いている親を目にすると、生きていくということのたいへんさを実感できるし、親の苦労も理解しやすい。

逆に、物があり余り、子供からみて 「 生きているのは当然だ 」 と思うような満たされた家庭では、親の苦労や、ありがたみが、わかり難いようである。


5月から6月にかけて、「 子供が自宅に火を放つ 」 という事件が連続したけれど、親の職業をみると、開業医や、所得の高い家庭が多かった。

放火に至った動機で数多く共通していたのは、「 親の決めた進路に対する反撥 」 や、「 親のしつけが厳しい 」 などの点である。

同じ DNA を受け継いでいるからといっても、子供が親と同じ道を進むとはかぎらないし、能力、資質が同程度ともかぎらない。

また、新聞などでは報道されていないが、当時、TV の ワイドショー などで放送され、気になった点は、それぞれの親がもつ 「 趣味 」 の共通点だ。

大抵が 「 クラシック音楽 」 を好み、子供がロックやポップスに興味を持っても否定し、音楽的嗜好までもを 「 子供に強要 」 していたという。


歴史的な名曲は、長年に亘って人々に愛され、支持され続けてきたのだから、クラシック音楽を愛でることは、もちろん、悪い趣味ではない。

しかしながら、クラシック音楽だけを 「 偏重 」 する人は、心理学的にみると 「 権威主義 」 的であることが多く、「 プライド高い 」 という傾向もある。

当世の大衆に人気があっても、伝統と権威に裏付けられたものしか認めず、伝統崇拝、権威崇拝の気質は、音楽以外の部分にも多くみられる。

そういう親が、子供の自主的な価値観や、倫理観を否定し、古い 「 常識 」 や、己の思いを子供に押し付けたならば、それは悲劇の一因になり得る。

子供の正しい成長を願う親心は理解できるが、趣味や、嗜好の部分にまで干渉するのは、単なる 「 親のエゴ 」 と言われても仕方がない。


私自身は両親を尊敬しているが、それは 「 育ててくれた親だから 」 というよりは、「 一人の人間として尊敬できるから 」 という理由のほうが正しい。

また、アメリカには別れた妻との間にできた娘が住んでいるけれど、たまに会うと、「 TAKAは、ここが悪い、ここは良い 」 などと裁かれる。

親子が人間同士として相手を評価するという性格は、どうやら引き継がれているらしいが、それでよいのではないかと思っている。

母親が再婚したことも、「 私には2人のパパがいるので得 」 という合理的な解釈をする陽気な娘で、どちらの 「 パパ 」 にも手に負えないようだ。

ちなみに、元奥さん、現旦那さん、娘、私の四人は、不思議と気が合うので、一緒に食事したりするのだが、常に話の主導権は、娘が握っている。






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2006年09月02日(土) 夏の終わり



「 夏の楽しみは、すべて幻のように去って、秋と冬の暗い日々が

  訪れてくる、叫んでも呼び戻す術はなく、いまはとわに遠く、

  目にも心にも見えない 」

                        ジョン・クレア ( イギリスの詩人 )

Summers pleasures they are gone like to visions everyone
And the cloudy days of autumn and of winter cometh on
I tried to call them back but unbidden they are gone
Far away from heart and eye and for ever far away.

                                   John Clare



これは、詩集 『 Remembrances ( 記憶 ) 』 の中の一節である。

学生時代、夏休みが終わったときの心境は、こんな感じだったと思う。


現在より細身だったせいもあるが、若い頃は、さほど汗もかかなかったし、汗をかいても気にしなかったので、とにかく夏が好きだった。

人生の時は刻々と過ぎ去って、どんなに惜しんだところで、楽しかった夏も、また、誰にも引き止めることができずに過ぎ去ってゆく。

そんな経験を何度も繰り返し、さほど夏に愛着を示さなくなってきたけれど、当時の思い出は、遠い記憶となって心の片隅に残っている。

秋は秋で、また別の楽しみもあるのだが、たとえば、海に飛び込むような、心を解き放った爆発的な衝動に比べると、少し物足りない感じだ。

始業式で、夏の間に、少し離れていた級友と顔を合わせることも嬉しいが、夏休みが終わる寂しさは、なんとも名残惜しい気持ちにさせられてしまう。


神戸で、「 夏休みの宿題が多く残っている 」 ことを苦にした中学一年生の男子が、自宅のあるマンションから飛び降り自殺をした。

この記事を読んで、「 なんだ、そんなことぐらいで 」 と思う方も多いのではないかと思うが、自殺する理由に、上も下もないだろう。

会社が倒産し、リストラに遭ったとか、失恋や、なにかで挫折感を味わったとかで自殺した人も 「 なんだ、それぐらいで 」 という意味では同等だ。

むしろ、仕事でウダツが上がらず自殺する連中よりは、「 夏休みの宿題が終わってない。 あー、どうしよう 」 という気持ちのほうが理解はできる。

もちろん、かといって自殺を肯定できる理由にはならないわけで、無限大の可能性を秘めた若い命が、儚く消えてしまった不幸に変わりはない。


こういう事件が起きたとき、昔なら、「 自殺した人間に問題がある 」 という当たり前の結論まで、ごく簡単に辿り着いたものである。

いまは、「 学校が提出を求めた“ 宿題の量 ” に問題があるのではないか 」 などと、滑稽とも思える筋違いな視点、価値観を追求する人間が多い。

社会人の場合も、「 自殺した人間に問題がある 」 のではなく、「 難易度の高い仕事、多量の仕事を、与えた企業に問題がある 」 などと言う始末だ。

仮に、宿題の量や、仕事の量が、過剰に多かったとしても、「 自殺してよい理由 」 になんぞ、なるわけがないのである。

正気な人間なら、「 死ぬぐらいなら、たとえ叱られたり、罵倒されたとしても、正直に “ やってません ” と答えたほうがよい 」 ことぐらいわかる。


自分が 「 やろうと思えばやれたのに、やらなかった 」 のなら、それなりの処罰は覚悟していたとみるのが普通である。

やるべきことを放棄してでも、他に “ やりたいこと ” があり “ やらなかった ” のだから、責任を問われる場面を前に逃げるのは、卑怯の極みであろう。

あるいは、「 自分の能力が低いために、できなかった 」 のなら、背伸びをせず、能力に見合った学校や、職場に移ることが正しい。

それで偏差値が下がっても、給料が下がったとしても、それこそが本当の 「 自分の価値 」 であり、過去は “ 場違いな所 ” に迷い込んでただけだ。

見栄を張ったところで、「 いるはずのない、もっと優秀な自分 」 が現れたりするわけではなく、そこに気づかなければ、現実の社会に適応できない。


学業成績が低かったり、あるいは、能力が劣るために、人並み程度の仕事ができなかったとしても、それ自体は大きな問題でもない。

問題は、それを真摯に認め、反省することをせず、安っぽい虚栄心を守るために、自殺という手段で、そこから逃避する愚かさにある。

夏が終わる虚しさや、宿題ができなかった不甲斐なさ、人並みに働けない惨めさは、想像に難くないし、たしかに辛いものだとは思う。

だが、( 自殺しない ) 大部分の人間は、たとえプライドを傷つけられようとも、それを認め、正面から向き合い、解決しようとする勇気を持っている。

季節が巡るように、楽しいときが過ぎ、風雪に耐える時期が迫っても、それもまた、いつまでもは続かず、やがて花咲く春が来るのである。






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2006年09月01日(金) 日本人の好きな国



「 旅は、若者にとっては一種の教育であり、年配者にとっては

  一種の経験である 」

          フランシス・ベイコン ( イギリスの哲学者、政治家、文人 )

Travel, in the younger sort, is a part of education :
in the elder, a part of experience.

                                 Francis Bacon



未見の地に旅して、若者は、人生についての知識を深めることができる。

老人は、自分の人生だけが唯一の人生ではなかったことに、気づくだろう。


昔から、「 百聞は一見にしかず 」 などとも言うが、いくら世界地図を広げて思索を巡らせたところで、現地に行ってみないと、わからないこともある。

また、最初に宇宙飛行をした ガがーリン が、「 地球は青かった 」 と呟いたように、離れて眺めることで、故郷を知ることもあるだろう。

生まれ育った郷里を愛するのも大事だが、他所を知らずに、その価値など語れるはずもなく、本当の良さを実感することは難しい。

できれば、ただ旅するだけではなく、その地の歴史風土、文化、思想、芸術などに触れる機会を積極的に求め、収穫のある旅にすることが望ましい。

生涯を 「 井の中の蛙 」 で過ごすよりは、多くを学ぶことになるだろう。


ORICON STYLE という所が、『 海外旅行に行ってみて、良かった国 』 というテーマで、海外旅行経験者にリサーチを施した。

その結果、中・高校生、専門・大学生、20代社会人、30代、40代、女性、男性の各カテゴリー全てで、「 アメリカ 」 が1位に選ばれた。

与党の政策や、あるいは小泉総理を 「 アメリカ寄りではないか 」 と批判する人もいるが、調査結果から 「 国民の大半もアメリカが好き 」 なようだ。

そういう意味では、アメリカ寄りだと言われようが、アメリカびいきだと批判をされようが、それは 「 国民の総意 」 に反していない。

もちろん、「 アメリカが一番 」 と回答した中には、「 ハワイ 」 しか行ったことのない人なども含まれるだろうが、印象が良かったことには間違いない。


だいたい、小泉総理に対して執拗な批判を繰り返す人は、アメリカが嫌いであり、ついでに言うと、活躍中のアイドルや、スポーツ選手などを嫌う。

それらの対象の共通点は、「 人気がある 」 という部分だ。

いくら複雑で難解な理論を並べ立てても、結局は、人々から愛される存在に対する妬みや、嫌がらせを、理由をこじ付けて正当化しているだけだ。

大半の日本人が、アメリカという国に対して好意的な印象を持っていることは明らかなのに、政策的に対立したり、反撥する必要はない。

ところが、「 国民感情や便益を犠牲にし、アメリカに逆らいましょう 」 などとわめき立てるのは、利己的な 「 人気者への劣等感 」 でしかないのだ。


なんだかんだ言っても、日本人はアメリカが好きだし、「 アメリカが嫌い 」 と罵る御仁こそ、実は、大のアメリカ好きなのかもしれない。

世界の盟主的な態度のデカさや、強大国ぶり、人気度には妬みを感じるが、彼らの啓蒙する自由や、奔放で個人主義的な生き方は甘受したい。

そのように、「 自分にとって都合の良い部分だけは取り入れ、それ以外には難癖をつける 」 という、自己愛性まるだしの自分勝手な思考である。

現代社会の病巣には、心が歪んで、脳に異常をきたし、根拠のないプライドだけは人一倍強いというタイプが増えており、それが反映されている。

前述の調査結果についても、「 国民の大半は無知だから 」 と統計を否定し、あくまでも 「 自分以外はバカ 」 という考えを改めようとはしない。


そういう人こそ、「 本当のアメリカ 」 を知ってもらいたいと思う。

多民族の共生を維持する手段として、不自然なほど 「 愛国心 」 を旗印に結束しつつ、一方では対照的に 「 利己主義発想 」 が捨てきれない。

また、自由と正義をこのうえなく愛しながら、どんな事件でも腕力で解決しようとする 「 悪意のない、愚鈍で稚拙な直線思考 」 が、そのベースにある。

単純で複雑、大胆で繊細、といったふうに、現地の生活を体験せず、起きた事柄だけで判断をすると見誤る気質が、そこにはあるのだ。

アメリカにかぎらず、どこの国も 「 百聞は一見にしかず 」 であって、住みもしないで批判しても、経験者からみれば 「 的外れ 」 なのである。






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